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山崎 修

出版制作会社社主。編集者。ライター。開業アドバイザー。

おもな仕事は、単行本の編集・執筆と雑誌の取材・執筆。そのほか平均して月に1回程度の講演(創業塾など)。最近作った本のリストは、ここに。
http://booklog.jp/users/yamasans

会社のホームページはhttp://yuyusha.co.jp/

理学部化学科卒だが第二次オイルショックで就職先がなく、仕方なく出版社へ。あとから考えたら、こちらのほうが競争率が高かった。

最初の出版社は放漫経営で傾き、希望退職の割増退職金をもらって飛び出す。仲間と作った出版社は、最後にやってきた食わせ物の社長に潰され、ついに自力で事務所を開設。

もっと詳しいプロフィールはこれ。
http://www.writely.com/View.aspx?docid=dhd4t5p4_1crqk4f

雑誌連載は月刊「商工会」の「失敗しない開業ここがツボ」。36回にてめでたく完結。
レギュラー執筆は月刊「ネットショップ&アフィリ」だったが休刊になってしまい、現在雑誌の仕事は不定期。

著書は『もーイヤだ、こんな会社辞めてやる!』ゴマブックス刊および『使える!mixi徹底活用術』PHP文庫。
『もーイヤだ、こんな会社辞めてやる!』は電子書籍にもなっております。https://itunes.apple.com/jp/app/moiyada-konna-hui-she-cimeteyaru!/id521054835?mt=8

その他、講談社、小学館、PHP研究所、アスコム、ランダムハウス講談社などで書籍の編集をお手伝い中。

事務所は埼玉県比企郡小川町のビル3F。徒歩圏内に日帰り温泉2軒、造り酒屋3軒、地ビール屋1軒、スーパー2軒が存在し、執筆活動をサポートしてくれている。別名“秘密基地”。

自伝的日記「雑誌を作っていたころ」をmixi日記で不定期連載中。最新号はNo.61
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=22147888&owner_id=83718

さらにその改訂版「新・雑誌を作っていたころ」をfacebookページとmixiページで公開中。
http://www.facebook.com/notes/%E6%9C%89%E9%99%90%E4%BC%9A%E7%A4%BE-%E6%82%A0%E3%80%85%E7%A4%BE/%E6%96%B0%E9%9B%91%E8%AA%8C%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%93%E3%82%8D001/355775897784084

http://page.mixi.jp/run_page_apps.pl?appParams=%7B%22q%22%3A%22view_diary%22%2C%22diary_id%22%3A%2240767%22%7D&module_id=36761&page_id=6787

以上、よろしくごひいきに。

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山崎 修の人生のストーリー

雑誌を作っていたころ(01)

「ラ・レクラーム」  最初に「雑誌」と名のつくものを作ったのは、大学5年(!)のときだった。医学部の5年生ではない。理学部化学科で3年生を2回やっていたのだ。  ぼくは広告研究会というクラブに所属していたのだが、何年かぶりに機関誌を出そうという話になり、留年して大学に残っていたぼくと、同じく留年中だった物理科の西村の2人が編集部員になった。雑誌のタイトルは「ラ・レクラーム」。フランス語で「広告」のこ

雑誌を作っていたころ(02)

「月刊太陽」編集部  大学4年になるまで、就職が大変なことだとは思っていなかった。  というより、真剣にそのことを考えていなかったのだろう。なんとなく、なるようになって、どこかの会社員におさまる。そんなふうに漠然と楽観していたような気がする。  そのころぼくが描いていた夢は、どこかの企業の研究所に勤めること。芝生に囲まれた白亜の3階建てがオフィスで、昼休みにぼくは芝生に寝ころんでSF小説を読んでいる

雑誌を作っていたころ(03)

「別冊太陽」へ  太陽の「大発明・珍発明500集」が終わり、借り集めた商品の返却などの残務整理に追われているころ、雑誌部長から呼び出しがあった。  この人は馬場一郎といって、平凡社雑誌部中興の祖である。「別冊太陽」などを創刊し、「ムック」という言葉と概念を発明した雲の上の人だ。 「太陽」に松本清張や舟橋聖一、瀬戸内晴美など、実力派の作家を引っ張り込み、最高部数を記録したのも、彼が編集長時代のことであ

雑誌を作っていたころ(04)

野武士集団  平凡社雑誌部は、千代田区四番町の自社ビル5階の半分を占めていた。皇居側から月刊太陽、太陽シリーズ、別冊太陽愛蔵版、太陽コレクション、別冊太陽、月刊アニマという配列だ。  組織としては、月刊太陽が単独で雑誌1課、残りの雑誌群が雑誌2課に所属している。前者がお行儀のよいお坊ちゃんお嬢さん集団であるのに対して、後者はまるで野武士の群れだった。本当に公私ともにすごい人たちがいた。  たとえば太

雑誌を作っていたころ(05)

出版界の異端児 「別冊太陽」は、出版界にあって異端の存在だった。  通常の雑誌では、「別冊」というのは通常号の補完的存在として発行され、雑誌コードは本誌に準じてつけられる。  そして発刊の条件も決まっていて、月刊誌なら月に1回以内、季刊誌なら年4回以内。  つまり、本誌の発行数を上回る別冊は出せないのだ。「臨時増刊」という名称も世の中にはあるが、実態は別冊である。  しかし「別冊太陽」は、月刊「太陽

雑誌を作っていたころ(06)

お説教  別冊太陽編集部での最初の仕事は、「禅」だった。  すでに企画が決定してからぼくがやってきたわけだが、禅宗(正確に言えば臨済宗と曹洞宗、黄檗宗)が仏教の一派であることくらいしか知らないのに、翌週から取材日程が組まれていた。これはきつい。  編集長は「急いで知識を詰め込んで、取材に支障のないようにしておけ」と言うだけ。地下の資料室にこもって、関係しそうな書籍を山ほど集めてきた。  それを見た編

雑誌を作っていたころ(07)

萬福寺での取材  京都取材は編集長に同行する形でスタートした。  掲載予定の各寺院を巡り、宗務総長などの担当者に挨拶をして回る。すでに発刊企画書と掲載許可願いは書面で郵送してあったので、話は早い。そして夜は、祇園や木屋町のバーで、京都在住の出版関係者と連日の飲み会だ。  前にも紹介したように、この編集長は1日に3回人が変わる。午前中はひと言も口をきかず、超低気圧。うっかり余計なことでも言おうものなら

雑誌を作っていたころ(08)

最年少社員の退職  別冊太陽編集部では、「禅」のあと、「夏目漱石」「俳画歳時記」「名筆百選」「江戸の粋」を作った。  このうち、「俳画歳時記」は100%ぼくの企画。平凡社の経営が危うくなってきて、編集部門のてこ入れのために社長が編集局長を兼任したが、その前で企画案を説明し、承認してもらったのだった。  しかし平凡社の経営状態は、病人で言うなら「危篤状態」になっていた。  会社全体が百科事典の売り上げ

雑誌を作っていたころ(09)

「青人社」誕生  ぼくらの会社のスポンサーになってくれたのは、学習研究社、通称学研だった。  当時、「出版界の眠れる獅子」と噂され、本気で取次ルートに戦略商品を出してきたら出版界の地図が塗り代わると恐れられていた会社だ。  主要商品は「科学」と「学習」。ほか、全国に2万人の専属要員を擁する直販組織で、さまざまな分野に挑戦していた。  ただ、市販雑誌の分野では「弱い」と言われ、その部門の再構築が重要課

雑誌を作っていたころ(10)

年賀状戦争  新生青人社における最初の仕事は、ムック「四季の手帖」。「月刊太陽」の臨時増刊で大人気を博した「年賀状図案500集」の青人社版を作ろうというものだ。  しかしこの企画には裏があった。翌年春に予定されている青人社の月刊誌をどのような企画にするかで社内がまっぷたつになり、社長の馬場さんが推す「太陽ライクな文化誌」と、嵐山さんが推す「サラリーマン向け毒入り情報誌」の2案を学研に提出したところ、

雑誌を作っていたころ(11)

新雑誌、その名は「ドリブ」  学研のぼくらに対する要望はただひとつ、「30代男性向けの月刊誌を作ること」だった。  当時、青春出版社の「ビッグトゥモロウ」がお化け雑誌的に売れていて、この牙城を崩すことを使命として与えられたのだ。  ただし、青人社の内部は分裂していた。社長の馬場さんが「太陽的な文化誌」を推進し、事実上のリーダーである嵐山さんが「サラリーマン向け面白雑誌」を推していたからだ。社内調整は

雑誌を作っていたころ(12)

「ドリブ」の成功  月刊「ドリブ」は、創刊号こそ35万部がほぼ完売の勢いだったが、2号、3号と号を追うごとに実売率が下がっていった。原因は、嵐山編集長の「面白主義」がサブカル・マイナー路線だったことと、ぼくらが大衆向けの雑誌作りに慣れていなかったためだ。  親会社の学研は実売率の低下に業を煮やし、ついに古岡オーナーじきじきの「お色気を入れなさい」という指示まで出てしまう。  それを受けて馬場社長は「

雑誌を作っていたころ(13)

自動車・グッズ担当記者  快進撃を続ける月刊「ドリブ」で、ぼくは自動車担当、グッズ担当、タイアップ担当、ヌード担当をやっていた。その理由は、ほかに適任者がいなかったからだ。編集部はほとんど元「月刊太陽」の人たちで編成されていたが、自動車免許を持っている人が半分しかおらず、しかもぼく以外の全員がペーパードライバーだった。それでは試乗会で新車を乗り回すわけにはいかない。ぼくは当時、アウトビアンキA112

雑誌を作っていたころ(14)

野合連合編集部  ある日、異動の話が来た。「ドリブ」の臨時増刊として出してみたら意外に好評だった「おとこの遊び専科」という風俗情報誌の副編集長をやれという。「ドリブ」はほとんど社員編集者で作っていたが、「おとこの遊び専科」は社員ひとりと編集プロダクションという制作体制だった。発刊ペースを上げるための要員として送り込まれることになったわけだ。  慣れ親しんだクルマの世界やタイアップ広告の世界と離れるの

雑誌を作っていたころ(15)

品行方正な継子たち 「おとこの遊び専科」はアンチ・ドリブの合言葉のもと、号を追うごとに部数を伸ばしていった。そして刊行間隔も、不定期刊から季刊、季刊から隔月刊とピッチをあげていき、半年後にはついに隔月刊から月刊となった。  そうなるとおもしろいもので、つぎつぎとヒット企画が生まれてくる。たとえば1色(モノクロ印刷のこと)の「ギャンブラー入門講座」は、ブツ撮り名人の清水啓二カメラマンに依頼し、見開きに

雑誌を作っていたころ(16)

新企画 「おとこの遊び専科」は快進撃を続け、部数も安定してきた。すると、誌面にマンネリズムの影が差すようになってきた。  読者というのは敏感なもので、ちょっとでもこちらが手を抜くと、てきめんに実売率に跳ね返ってくる。ぼくは毎晩、編集長と飲みながら打開策を練った。 「こんなのはできないだろうか」と、ある日編集長が言い出した。 「きのうベッドでぼけっと寝そべっていたら、天井のシミが女の子のヌードに見えて

雑誌を作っていたころ(17)

編集長拝命 「おとこの遊び専科」は、等身大ヌードポスターという強力な武器を手に入れて、躍進を続けた。ただ皮肉なことに、その武器が部数増の足を引っ張った。  というのは、印刷機が老兵なため印刷速度が遅く、色合わせに時間がかかったり、一定部数刷ったところでメンテナンスをしなければならず、大部数を刷るのが困難だったからだ。特殊な折り加工も時間がかかるので、20万部とかはとても無理。学研販売局とも相談し、2

雑誌を作っていたころ(18)

「茶の湯紀行」  ぼくが担当する「日本こころの旅」第4号は、3カ月後に発売が迫っていた。スタッフは組織できたものの、まだ企画は固まっていない。社長から「テーマは何にするつもりか」と聞かれても、しばらくはだんまりを通していた。  もちろん腹づもりはあった。ぼくは「月刊太陽」と「別冊太陽」を、合わせて2年と少ししか経験していなかったけれど、暇なときにすべてのバックナンバーに目を通していたし、昔話として売

雑誌を作っていたころ(19)

2つの表紙を持つ雑誌  とにかく「茶の湯紀行」の取材はスタートした。ぼくは京都に行き、祇園ホテルに陣取って、この号とこれから先を固めるために、毎日いろいろな人に会いに行った。 「別冊太陽」のころにさんざんお世話になった祇園ホテルだが、じつはこの歳になるまで京都のほかの宿を知らない。修学旅行で泊まったのはもちろん別の宿なのだが、記憶がない。なぜこのホテルがいいのかと言えば、とにかく祇園や木屋町に至近で

雑誌を作っていたころ(20)

「ふるさとの民芸・城下町編」 「茶の湯紀行」の次の号は、テーマを巡って紛糾した。  ぼくは「四季の俳画」か「奥の細道」をテーマにしたいと思っていたが、社長は「城下町の民芸」をごり押ししてきた。  社長の馬場一郎という人は、とにかく言いだしたら聞かないワンマンタイプ。ぼくが気遣ってかつての「別冊太陽」方式の編集手法を実施したことで、いろいろな思いに火をつけてしまったようだ。  学研販売局は「民芸はマイ

雑誌を作っていたころ(21)

「陶芸と郷土料理」  自分の好きなテーマに固執する青人社社長と、売れ行きを第一に考える学研販売局の確執は、号を追うごとにエスカレートした。  というか、実質的に編集プロダクションでしかない青人社が、リスクを取って販売を担当している学研に盾突くというのが、そもそも理に適っていないのだった。  社長は「次は郷土料理をやりなさい」と言い、つい最近、郷土料理の豪華全集を出して苦戦していた学研販売局は、「冗談

雑誌を作っていたころ(22)

親会社からの独立  隔月刊「日本こころの旅」が順調に続き、13巻を数えたころ、大事件が勃発した。親会社である学研が青人社に「出版社としての独立」を迫ってきたのである。  どういうことかというと、これまで青人社は営業部門と広告部門を持たず、それを全部学研に委託してきた。青人社の作った雑誌に広告を入れるのは学研広告局で、販売するのは学研販売局だったのである。つまり、青人社は編集部門のみの出版社、簡単に言

雑誌を作っていたころ(23)

神風  学研から切り離され、グループ会社となった青人社は、「2年で倒産する」と予想されていた。その根拠は、月150万円ペースの赤字だった。「ドリブ」と「おとこの遊び専科」が稼ぎ出すわずかな黒字では、30人の所帯をまかなう一般管理費が出てこない。それまでは「日本こころの旅」などのムックで帳尻を合わせていたが、ムックが出せない環境では赤字がもろに出てしまう。  馬場社長は独立に当たって、「出を制し、入を

雑誌を作っていたころ(24)

Macとの出会い  広尾1丁目にあった青人社の最寄り駅は、JR山手線と地下鉄日比谷線の恵比寿駅、または地下鉄日比谷線の広尾駅だった。日比谷線というのは意外に使えない路線で、六本木、日比谷、築地あたりに用事がないと、乗る機会がない。なのでぼくらはもっぱら、恵比寿駅周辺を徘徊していた。  当時、恵比寿駅のそばに、キヤノン販売がやっている「ゼロワンショップ」があった。ぼくはどんな分野でもショールームと名の

雑誌を作っていたころ(25)

再び「ドリブ」へ  学研から独立したものの、ムックコードのない青人社は、「日本こころの旅」を出すことができない。そのために編集部は解散し、ぼくは書籍の仕事を担当していた。過去に「ドリブ」で連載した記事をまとめるもので、邱永漢、福富太郎、松本孝、サエキけんぞう・伊藤銀次といった人たちの本を作った。  そろそろネタ切れで、やることがなくなってきたなーと思ったころ、ドリブ編集長の清野さんから声がかかった。

雑誌を作っていたころ(26)

営業部へ異動  ぼくは出戻りの「ドリブ」編集部で日々を過ごしていたが、社長の馬場さんは悩みを抱えていた。学研から広告と営業を独立させ、広告部は奥薗さん、石川さん、宮木さんの三人体制で景気よく回っていたが、一方の営業部が今ひとつだったからだ。  営業部には学研グループの立風書房から元常務の吉原さんを迎え、新人の倉田くんと二人の体制だったが、定年退職者と新人では年齢差がありすぎて、組織の体をなしていなか

雑誌を作っていたころ(27)

書店営業  出版社における営業の仕事は、その版元の性格によってずいぶん違う。雑誌しか出していないところは、取次回りと納品の管理、返品の処理、バックナンバーの品出しがおもな仕事。在庫を抱えることが基本的にないから、倉庫も必要ない。あとは取次から受け取る手形を経理に回して伝票を書くくらいだ。  しかし書籍やムックがあると、仕事はかなり複雑になる。書籍は新刊だけで商売するのではなく、ロングセラーや「コバン

雑誌を作っていたころ(28)

社長の異変  青人社も創業10年を迎え、出版界で少しは知られた版元になっていた。しかし平凡社を一緒に辞めた創業メンバーは、この時点でほとんど社を去っていた。嵐山さん、筒井さんはもの書きとして著名人となり、渡邉さんは若手を何人か連れて「spa!」に行った。三村さんは河出書房新社に移り、西田さんはフリーの編集者になった。残っているのは、ぼくと社長だけだ。  16人の社員のうち、昔からの仲間がぼくしか残っ

雑誌を作っていたころ(29)

社長の死  一時退院していた馬場さんは、また容態が悪くなって再入院した。さすがに本人も、ただの食道潰瘍ではないと気づいたらしい。病院に見舞いに行っても、むっつりと不機嫌でいることが多くなった。  主治医の先生に話を聞いた。 「もう食道が99%腫瘍でふさがっているんです。しかも食道壁の裏側から他の臓器に転移していて、肺と胃に新しいガンができています。肝臓にも転移が始まりました。転移がなければ食道を切除

雑誌を作っていたころ(30)

社葬  馬場さんの遺体は、すぐ寝台車でひばりヶ丘の自宅に運ばれた。ぼくらも仕事をなんとかやりくりして、仮通夜にのぞんだ。覚悟していたこととはいえ、社員は皆不安を抱えていた。創業者であるワンマン社長が、後継者も定めずに死んでしまったのだから、それも当然だろう。自分たちの仕事はどうなるのか。そもそも会社は存続できるのか。  そのころ、学研本社では緊急の役員会が開かれていた。青人社をどうするかが議題だ。持

雑誌を作っていたころ(31)

新社長  馬場さんの後を受けて社長になった宮本さんは、学研の専務だったから、毎日は来られない。しかも就任当初から「自分はピンチヒッター」と公言し、早期に正式な社長と交代したい旨を口にしていた。  そんなある日、学研広告局長の中山さんから呼び出しがあった。ぼくは「社長の件だな」とピンときたので一人で出かけた。 「実は、青人社の社長を引き受けたいという人物が出てきたんだ。祥伝社で『微笑』の副編集長をやっ

雑誌を作っていたころ(32)

「起業塾」  新雑誌「起業塾」は、当初「ドリブ」の臨時増刊としてスタートした。「雑誌」というのは、勝手に出していいものではなく、取次に雑誌口座を開設してもらうことで発刊が可能となる。月刊誌、週刊誌、旬刊誌、季刊誌、日刊誌、年刊誌などさまざまな発刊形態がある。  旬刊誌とは聞き慣れない言葉だが、いわゆる10デイズマガジンである。一時期の「an・an」が旬刊誌だった。現存している旬刊誌の例としては、旬刊

雑誌を作っていたころ(33)

社長交代  世の中には、負けが込むほど強気になるタイプの人間がいる。特にこの手はギャンブラーに多く、「いつか勝てば帳消しになる」と信じてどんどん借金を重ねていく。たしかに、負けるたびに賭け金を倍にしていけば、どんなに負けが込んでも、一度勝てばチャラである。ただし、そのためには莫大な資産を持っているか、いくらでも貸してくれるパトロンが存在することが必須となる。  青人社の廣瀬社長もそういう人物だった。

雑誌を作っていたころ(34)

蜜月からの転落  新社長の青山氏はかつて、あいであらいふ社で「頭で儲ける時代」の副編集長をしていたとき、海外宝くじの斡旋商売を思いつき、欲の皮の突っ張った読者を会員として囲い込むことに成功した。そしてそのビジネスの危うさを指摘されると、社を去り、独立してワールドマガジン社を始めた。それが短期間で10億円の資産を形成する原動力となり、彼は鶴見に豪邸を建てた。  日本には「富くじ法」という法律がある。正

雑誌を作っていたころ(35)

防衛戦  強制捜査を受けたその瞬間、ぼくらは会社近くの喫茶店で幹部会議を開いていた。何を話し合っていたのかもう忘れたが、誰かが走ってきて「おまわりさんが10人以上来て、ワールドマガジン社に入りました」と報告に来たのは覚えている。そのとき、ぼくは「来るべきものがついに来たな」と悟った。あと1年、せめて半年先であったら、青人社を立て直すことができていたのにと、唇を噛んだ。  青山氏から海外宝くじビジネス

雑誌を作っていたころ(36)

悪あがき出版  資金源である「ワールドマガジン社」を失った青山氏は、青人社の経営に没頭するようになった。年商10億円程度の零細企業なのに経理をオフコンで処理しようと考え、長い間青人社の経理を仕切っていた大江さんというおばちゃんをクビにしてしまう。「コンピュータが使えない人には、用がない」というわけだ。  だが青人社のことを隅から隅まで熟知していたベテラン経理マンを辞めさせ、代わりに公募で採用したのは

雑誌を作っていたころ(37)

さらば青人社  1997年7月、ぼくは社長に辞表を提出した。代表取締役専務を辞任したいという申し入れだった。  いきなり辞めては残る社員に動揺が起きると思ったので、二段階で辞めようという考えだった。  それに対して社長はこう言った。 「なんだかややこしいな。逃げるのならそう言えばいいのに」  この人には何もわかっていない。自分が作った会社から好きこのんで逃げたいやつがどこにいる。あんたが潰しかけてい

雑誌を作っていたころ(38)

悠々社スタート!  新オフィスの什器備品は、ほとんどが「貰い物」だった。椅子と机、キャビネット、更衣ロッカー、連結書架、コピー、冷蔵庫、台所用品、ビジネスホンは小さなオフィスに引っ越す青人社が廃棄したものを貰い受け、編集プロダクションを廃業する先輩から会議テーブルとコピー機を貰った。  それでも地下と一階のオフィスには、まだまだ空間がある。そこに、知り合いのカメラマンが居候としてやってきた。上田健さ

雑誌を作っていたころ(39)

もうひとつの仕事 「開業マガジン」の取材が始まった。それと同時にスタッフが固定していく。旧「ドリブ」のメンバーと旧「起業塾」のメンバーが合体した混成チームだ。  正直なところを言えば、零細編集プロダクションを維持していくためには、こんな大人数でやるのは不利だった。可能な限り人間を削り、ぎりぎりの仕事でわずかな利益を蓄積していく。編集プロダクションという仕事はそうやらなければ長続きしないと聞いていた。

雑誌を作っていたころ(40)

青人社倒産  開業準備をしていたころは、古巣の青人社がどうなっているのかが気にかかっていたが、「開業マガジン」がスタートし、VICSのムックも同時並行で作り始めると、とてもじゃないがよその会社に気を回す余裕など消え失せていた。  しかしその間も、青人社に巣くった病魔は拡大し続けていたようだ。ある日、誰かが「そういえば青人社、潰れたらしいですよ」と言ってきた。びっくりして六本木へ行ってみると、ABビル

雑誌を作っていたころ(41)

相馬さんのこと  できたての悠々社に、新しいスタッフが加わった。相馬健二さん。60過ぎのベテラン編集者である。  もともとは美術出版社にいて、技法書などをたくさん作り、やがて独立して編集プロダクション「たちぬい企画」を開業。平凡社などの仕事を請け負っていて、ぼくも遊びに行ったことがある。青人社時代にも何回かお世話になった。  その相馬さんが、編集プロダクションを畳み、フリーランスとして仕事を手伝いた

雑誌を作っていたころ(42)

座談会 「開業マガジン」の創刊が目前に迫ってきた。発売日は1998年3月30日。隔月刊だから、すぐ次の号が5月30日に控えている。おまけにそちらは、ゴールデンウイーク進行だ。ゴールデンウイーク進行というのは、印刷所が連休になるために〆切が早まることを指す。通常は1週間くらい早くなる。同様に、お盆進行や年末進行という編集者にとってはゾクっとする言葉が業界には存在する。  といっても、この雑誌に関してぼ

雑誌を作っていたころ(43)

新しい酒は新しい革袋に 「開業マガジン」創刊号は無事発売され、第2号の〆切が迫ってきた。2号の発売日は1998年5月30日だから、もろにゴールデンウイークの影響を受けてしまう。通常号より1週間以上も前倒しして原稿を入れなければならない。  ところが、〆切間際になってカラーページが6ページ空いてしまった。広告が相次いでキャンセルもしくはカラーから1色に変更になったためだが、これは痛い。すでに特集ページ

雑誌を作っていたころ(44)

「お金の学校」 「開業マガジン」が軌道に乗ったころ、発売元のバウハウスから「新雑誌を出したい」という連絡があった。女性向けのマネー誌で、社内で「それなら悠々社だろう」ということになったそうだ。当面はムックで不定期刊行し、弾みがついたら月刊誌化するということだった。  しかし弱った。社内のスタッフは「開業マガジン」で手一杯。広告営業は兼任で何とかやれそうだったが、編集は誰一人捻出できない。かといって先

雑誌を作っていたころ(45)

日本特撮映画図鑑 東宝編  ある日、共同印刷の人が訪ねてきた。共同印刷といえば、「月刊太陽」を印刷していた会社のひとつだ。おもに特別企画のページを印刷していて、ぼくも何度もお世話になった。そこの人がなぜ悠々社のような零細編集プロダクションを訪ねてきたのかといえば、販路拡大のためである。  共同印刷は大手なのだが、凸版、大日本と比べると影が薄い。大手出版社が出している大部数の雑誌はたいてい凸版か大日本

雑誌を作っていたころ(46)

バーチャクラフト  成美堂出版での仕事がうまくいったのに味をしめて、ぼくらは次の出版社の開拓にかかった。今度は印刷会社のひも付きではなく、独力で人脈をたどってみようと考え、名刺ホルダーをひっくり返してあちこちの出版社に声をかけた。  色よい返事があったのは辰巳出版。ここもムックが得意なので、うまくいけば今後の有力な取引先となりうる。何回かの打ち合わせの後、悠々社が誇る器用貧乏の造形師である佐藤航くん

雑誌を作っていたころ(47)

軽自動車バイヤーズガイド 「ドリブ」の一時期、ぼくはクルマ担当記者だった。クルマ担当の机には、毎日のように自動車メーカーや関連業界各社からのニュースリリースが届く。うっかり開封するのをさぼると、すぐ山になる。  ニュースリリースに混じって送られてくるのが「新車発表会のお知らせ」と「試乗会招待状」だ。発表会はたいてい都内のホテルなどで開催されるので数時間あればいいが、問題は試乗会だ。  山中湖、箱根、

雑誌を作っていたころ(48)

暗雲 「開業マガジン」は隔月で順調に発行を続けていたが、19巻を出したところで発売元のバウハウスから話があった。経営が不調なので会社を再編成するとのことだった。  バウハウスは山崎社長のもと、宇宙企画、英知出版などとともにグループを形成していた。そのうち宇宙企画はレーベルと社員、英知出版は社員と雑誌、自社ビルを売却、バウハウスも売れている雑誌群をスタッフ付きで売却するという。「開業マガジン」もその売

雑誌を作っていたころ(49)

東奔西走  BNN倒産により、「開業マガジン」21号は完全に宙に浮いてしまった。取材・編集作業は続いていたが、印刷して本を作ったところで、販路がないのだからどうすることもできない。販売されなければ、集めた広告費は返さなければならないし、それ以上のペナルティを求めてくるクライアントや代理店もあるだろう。  しかし、悠々社よりもっと甚大な被害を受けたのは、筆頭株主になったばかりの小坂くんだ。義母の土地を

雑誌を作っていたころ(50)

黒子が表に出た日 「開業マガジン」の制作で悪戦苦闘していたある日、1本の電話がかかってきた。 「NHKのディレクターをしている吉村といいますが……」  彼女は教育テレビのディレクターで、「にんげんゆうゆう」という番組を担当していた。この番組はひとつのテーマで1週間のシリーズを構成するものだが、近々「不良中年」をテーマにするのだという。その中心人物として、わが師の嵐山光三郎が選ばれたのだが、その中で「

雑誌を作っていたころ(51)

お笑いの世界  1998年から1999年にかけて、お笑いライブの制作を手伝っていたことがある。  もちろん本業は雑誌作りだから、そちらはあくまでも余技である。チラシを作って印刷したり、チケットやハガキを作ったり、めくり(寄席で使う芸人の名前と演題を書いた紙)を作ったり。なんのことはない、印刷系の便利屋さんだ。頼まれてカメラマンもやった。  もともとはハギワラさんが連れてきた「てらこ」こと寺崎美保子と

雑誌を作っていたころ(52)

美術展のお手伝い 版画家の片野孝志先生は、青人社時代からいろいろとお世話になっていた人だ。お酒が大好きで、千駄ヶ谷のアトリエには毎晩のようにいろいろな人が集まって酒盛りをしていた。ぼくも先輩編集者に連れられてお邪魔してからというもの、朝まで飲み明かすという無茶を何度もお許しいただいていた。 片野先生との最初の仕事は、「月刊ドリブ」で「生ビールのアルミ樽を使ってワインを蒸留し、ブランデーを作る」という

雑誌を作っていたころ(53)

コールセンターの世界 悠々社にはいろいろな「社友」がいたが、コールセンター界の大御所・多田正行氏もその1人だった。そもそも「開業マガジン」第1号の座談会に出席してもらった縁で知り合ったのだが、やがて多田さんは悠々社に居着いてしまった。それまで居候をしていたコールセンターの会社に飽きたようで、ちょうど悠々社を辞めた高田さんという女性の席が空いていたので、そこを使ってもらった。 多田さんには「開業マガジ

雑誌を作っていたころ(54)

「コールセンター・ジャーナル」  多田さんとの「コールセンターの専門誌を作ろう」という構想は、資金とスタッフの両面で行き詰まっていた。ほかの分野でも同じだが、メインのスポンサーになってくれそうなところはどこも大企業なので、まだ影も形もない雑誌には「広告を出す」と言ってくれない。ある程度定着して、部数が安定してからでないと無理なのだ。  しかし大手出版社ならテスト版の雑誌を何回も作ることが可能だが、零

雑誌を作っていたころ(55)

アメリカ出張  多田さんの鞄持ちとして、2000年と2001年にアメリカに出張した。東京電力に依頼されたレポート作成の仕事がメインで、それにいくつかの細かい仕事が加わっていた旅行だと記憶している。ぼくはそれまでヨーロッパには何度か取材で出張していたが、アメリカ本土はこれが初めてだった。リコーのデジカメで張り切って写真を撮りまくったのだが、残念なことに帰国後しばらくしてコンピューターのトラブルと勘違い

雑誌を作っていたころ(56)

多田さんの最期  2001年の半ばごろ、多田さんが突然、悠々社を出て行ってしまった。なかなか進まない「コールセンタージャーナル」の発刊作業に嫌気がさしたのかもしれない。性格的にひとつのところにいると飽きてしまうというのもあったのかもしれない。とにかく、三浦海岸の家に引っ込んでしまい、九段に出てこなくなったのだ。  ぼくの信条として、「去る者は追わず」というのがある。後ろを向いてしまった人には、いくら

雑誌を作っていたころ(57)

「開業マガジン」の落日  会社の倒産が決定する瞬間とは、経営者が「もうダメだ」と思ったときだという。 「開業マガジン」の廃刊も、ぼくが「潮時だな」と思った瞬間に決まったといえる。  これが大手や中堅の出版社だと、編集部に営業部、広告部がそれぞれの意見と利害をぶつけ合って、ごたごたの末に結論が出るのだと思うが、こちらは零細出版社だから独裁でことが決まる。その点は楽だともいえるが、誰に責任を押しつけるわ

雑誌を作っていたころ(58)

捨てる神あれば  話は少し前後するのだが、「開業マガジン」が大詰めを迎えようとしているとき、ぼくのところに単行本編集の話が続けて舞い込んできた。  ぼくは雑誌編集者だが、青人社時代に単行本は何冊か作ったことがある。福富太郎氏のケチ話、邱永漢氏のお金儲けエッセイ、サエキけんぞう・伊藤銀次両氏の対談といった新書サイズの本だ。「ドリブ」の連載をまとめただけなのだが、それでも経験がないよりマシだと思っていた

雑誌を作っていたころ(59)

「ネットショップ&アフィリ」  自分で雑誌を作ることはなくなったが、他人が作っている雑誌のお手伝いはその後も続いた。中でも一番思い出深いのはサイビズの「ネットショップ&アフィリ」だ。  この雑誌は、同社の看板雑誌であった月刊「サイビズ」の臨時増刊としてスタートした「SOHOコンピューティング」がルーツである。その後「SOHOドメイン」と誌名が変わり、さらに「ネットショップ&アフィリ」に変わった。 「

雑誌を作っていたころ(60)

PR誌作りに参加する  月刊「ドリブ」の編集スタッフだったころ、デザイナーの池田枝郎さんに誘われて、あるパソコン誌の編集部に遊びに行ったことがあった。廣済堂出版が出していた「月刊RAM(ラム)」という雑誌である。当時はパソコンの黎明期で、インターネットはおろか、フロッピーディスクもまだ普及していなかったような時代だから、パソコンの知識を得るのは紙媒体が中心だった。NECのPC8001、8801、シャ

雑誌を作っていたころ(61)

「ネットブック」の激震  エイサーのPR誌「Tell Acer(テル・エイサー)」創刊号では、「コンピュテックス台北2008」で発表されるエイサーの戦略商品「アスパイア・ワン」を大々的に取り上げることになった。アスパイア・ワンは小型軽量・低価格が売りのノートパソコンで、エイサーではこれを「ネットブック」という新カテゴリーの商品として売りだそうとしていた。  そのために、ぼくら取材班は台北に取材に行く

雑誌を作っていたころ(62)

ネットブック、ブームになる  2008年7月10日、台湾での発表から約1カ月遅れて、日本市場向けのネットブック、「アスパイア・ワン」が発表された。すでにIT系のメディアでは新コンセプトのパソコンであるネットブックについて、「使える」「使えない」といった議論が白熱していた。  発表の舞台になったのは、六本木の東京ミッドタウン。5台のテレビカメラをはじめ、報道陣がカメラの砲列を敷く中、日本エイサー社長の

雑誌を作っていたころ(63)

ユーザー事例の取材 「Tell Acer」の誌面構成は、最初の4ページが新製品トピックスや発表会イベント、次の2ページが業界著名人のインタビュー、その次の2〜4ページがエイサー製品の導入事例、そして小さなニュースや次号予告という感じで推移していた。 ほとんどの取材先はエイサー側が決めてくれるので、ぼくら取材班はスケジュールを合わせて行動するだけだった。導入事例では地方取材が多く、官公庁や学校、企業が

雑誌を作っていたころ(64)

大失態  仕事にも「類は友を呼ぶ」という法則があるらしい。日本エイサーのPR誌を一生懸命にやっていたら、別のPR誌から声がかかった。友人のWebデザイナーからの紹介で、さるISOの認証機関が発行している機関誌の制作をお手伝いすることになったのだ。  ぼくに与えられた仕事は、ユーザーを訪問しての事例取材と、認証機関の専門家を取材しての記事づくりだ。前にPHP研究所でISO関連の書籍を作ったことがあった

雑誌を作っていたころ(65)

仲代達矢氏のインタビュー  大失敗の挙げ句、仕事を失ってしまったわけだが、運命の女神は完全にぼくを見捨てたわけではなかった。ひとつが切られたら、まるで埋め合わせをするようにほかのPR誌の仕事が舞い込んできた。民間療法である温熱健康法の団体が出している雑誌だ。ぼくはこの雑誌の、おもに巻頭インタビューを担当することになった。  この雑誌ではいろいろな人を取材したが、印象に残っている人が何人かいる。その筆

雑誌を作っていたころ(66)

新谷のり子さんのインタビュー  ぼくらの年代の人なら、「新谷のり子」という名前を聞けば、「あ、『フランシーヌの場合』の人ね」とすぐピンとくるはずだ。80万枚の大ヒットを記録した「フランシーヌの場合」は彼女のデビュー曲。1969年3月30日、ベトナム戦争に抗議してパリで焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントのことを歌った反戦歌である。温熱療法の会員誌で、ぼくはこの人をインタビューすることになった。  新

雑誌を作っていたころ(67)

アスキーで働く  アスキーという会社は、その黎明期からぼくの視界の中でチラチラしていた。パソコン誌「RAM」のお手伝いをアルバイトでしていたときはライバル誌「ASCII」の会社だったし、青人社が曲がり角にさしかかったときには、流出した編集者たちの受け皿になってくれた。中でも最も大規模だったのは、「ドリブ」3代目編集長の渡邉直樹さんが扶桑社の「SPA!」「PANJA」を経てアスキーに移籍し、「週刊アス

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