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松本 晃一

肺がんに負けるもんか!

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松本 晃一の人生のストーリー

フラッシュダンスに魅せられて

暗転したスクリーンに静かなオープニングテーマが流れ、真っ赤なメインタイトルが右から左へ映し出されると、その瞬間に戦慄が走った。朝焼けのピッツバーグを主人公のアレックスが自転車で駆け抜けていく。最初から字幕は涙で霞んで見えた。 プロのダンサーになる夢を抱く溶接工のアレックスは、夜はキャバレーのダンサー。格式高いバレリーナの養成所に入ることを熱望しながらも途惑い、恩人の死に傷つき、時に恋人に怒る。バレエ

放課後のエンジェルはレトロな青春を全速力でかけ抜けた

夕陽がバックネットの向こうに大きく照り映えると、放課後のグラウンドはいつも鮮やかなオレンジ色に染まった。日暮れまで練習する野球部の金属的な球音が鳴りやみ、一気に静かになる。泥まみれになった一年生がトンボを引きずって整地をし、ベースを片づけていく。そこには最後に必ず女子マネージャーのシルエットがあった。 その一年前、入学式の日に新入生の彼女は一人でやってきた。 「わたし、マネージャーになりたいです。」

モルヒネか?

(父は小細胞癌という手術ができない肺がんでした。そして、がん告知はただちに死の宣告という時代でした。「モルヒネか?」とは、死を覚悟した父が残していった言葉です。) 長らく肝臓を患っていた亡父は、晩年、五種類の薬を服用していた。 毎月の定期検診から帰ると、それぞれの薬を几帳面にハサミで切り離し、食前・食後の区別をして、飲みやすいように間仕切りのある専用のボックスに保管していた。 酒は飲めない。相当な下

ワレモコウを聞け!

喜寿を迎えた母は、以前、家族六人が暮らしていた家に一人暮らしをしている。 「一人のほうが気楽でええ」 母は言い、にわかに忙しくなった僕は、しばらくの間、会いにいかず電話もしなかった。 あるとき、母から電話があった。 「あんた、ワレモコウを聞いたか?」 僕には何のことかがわからなかった。 そして、つまらないことから口論となり、きつく叱られ、喧嘩別れになった。このままではいけないと思い母の家へと車を飛ば

黄昏泣きに癒されて

(このストーリーは「父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙」全11話を、総集編として再編し、改題したものです。) 澄みきった水色の空を切り裂いてヘリが舞い、機影は次第に大きくなって中庭を横切った。プロペラが旋回する音が近づくと、緊急事態を知らせる館内アナウンスが病棟に流れた。 「コードブルー、コードブルー」 病棟の窓に最初に見たものは、屋上に飛来するドクターヘリだった。 「コードブルー、コー

おとうさん、また来てね!

長女の初めての運動会。この日のことを僕は忘れない。 定番の場所取りは、幼稚園児と父母、それに祖父母の席の争奪戦となる。早くから陣取る父親たちは最前列にビデオカメラをセットして待ち構える。百台近いビデオカメラが園庭を取り囲む。それほどまで観戦意欲がない僕は、来賓席のテントの片隅に小さなビニールシートを敷いた。   長女が「アララの呪文」を歌い踊る。 かけっこをする。仲間を応援する。   弁当を広げる時

雨戸、閉めやなあかん

伊勢湾台風が母にとって心の傷となっている。 半世紀前の当時とは比較にならないほど住宅環境が進化し、堅牢な造りとなっている今も、風雨が強まると聞けば、 「雨戸、閉めやなあかん。」 口癖のように言う。  一九五九年、伊勢湾台風では五千人を超える犠牲者が出た。風速四十五メートルを超える暴風が吹き荒れ、高潮により沿岸の家屋は軒並み浸水した。 当時はテレビが普及していなかった。 ラジオの予報通りに台風は通過し

痛い、痛い、眠い、眠い

長女が五歳になったときだった。薄暮が迫る頃、公園の雲梯から落下した。 「痛い、痛い」 悲痛な叫びを聞き駆け寄ると、僕の目の前で長女の眉間がみるみるうちに膨れ上がる。数秒の間に眉間は紫色に変色し、さらに大きく腫れ上がっていく。 長女が泣きじゃくる。これは大変なことになったと思いながら、 「大丈夫か。大丈夫か」  長女の両頬を掌に包み込む。すぐにおぶって家へと走った。 雲梯の最上段から僕が背を向けた瞬間

息ができんのや

春だった。透き通った光が眩しく、風がそよいでいた。近所の寺に群生するつくしを幼稚園に入ったばかりの長女と摘んでいると、 「来て!あの子が」 義母の叫び声がした。 家に駆け戻ると、妻が丸まって台所に倒れている。 「どうした?何があった?」 問いかけても返事がない。何かを訴えようとしているが声を出せない。苦しそうな顔で下からじっと僕を見ている。 「息がしにくいんやわ言い出して」 義母が不安げに言う。 「

カーレーサーのように

カーレーサーのように勝ち負けがはっきりとしているダイナミックな世界にあこがれていた。二十代の頃にはひたすら夢を追った。 八〇年代初め、映画「フラッシュダンス」を観て感激した。そのストーリーのままに映画会社のオーディションを受けた。 映画の仕事をして成り上がるという漠然とした空想だけを思い描いた。生活の糧を得るために喫茶店のウエイターや紳士服店のビラ配り、選挙のポスター貼りなど、さまざまなアルバイトの

おとうさんも家族?

仕事に打ち込み家庭を顧みない後輩がいた。 深夜残業をモノともせず、定時になっても帰ろうとしない典型的な終電帰宅型のビジネスマン。共稼ぎだった。小学校一年生になったその息子が作文を書いた。 題名は、「帰ってこない家族」。 作文は父の日にちなんだ学校開放デーに教室の壁に貼りだされた。 「題名を聞くだけでつらいです。」 後輩は嘆き、僕は腹を抱えて笑いこの話を聞いた。 その数年後、幼稚園で長女が描いた家族の

魚も命がけや

鳥羽の友人の父は漁師。七十年間、沿岸の漁をしてきた。 宵に仕掛け、未明に網を上げ、水揚げする。町一番の大きな漁船を操り、妻と漁に出る。妻は寒暖に痛みガサガサになった手で綱をほどき、夫は海を見た瞬間から眼光鋭い狩人になる。 口癖は、 「魚も命がけや」 初夏にはスズキを追い、タコを獲り、冬には小舟に乗り換えてワカメを刈る。アナゴが大漁であれば干物にし、伊勢エビよりもメバルを好む。 盆と正月、それに日曜日

夏休みの決心

その夏、小学一年生になった長女は自転車に乗れるようになると決心していた。 「おとうさん、自転車のちっちゃいタイヤをはずしてほしいんやけど」 長女は僕を公園へと連れ出し不安定に走り出した。転んでは起き上がり、倒れては立ち上がる。走り出し、また転がる。膝頭を痛そうに押さえる。草むらに突っ込んで転ぶ。白いシャツが草色に染まる。 「いつまでもやっとらんと、そろそろ休憩しよ」 呼びかけても答えない。 歯を食い

雑木林とカブトムシ

小学三年生の夏、僕は雑木林の近くの珠算塾に通っていた。 雑木林にはカブト虫がいた。 朝早く黒い大きなコウモリ傘を手に家を出る。足をマムシに噛まれても最小限の傷ですむように分厚いゴムの長靴を履いていく。草むらに分け入ると、誰にも教えたくないクヌギの木がそこにはあった。 雑木林の甘い匂いがする。密度の濃い樹液が幹から滲み出ている。 コガネムシが集まっている。スズメバチもきた。 身を潜めるようにしてスズメ

フジコは血統書なきゴールデンレトリバー

愛犬フジコは血統書なきゴールデンレトリバー。コネを頼って地元のブリーダーから松阪牛一キロと引き換えに貰い受けた。僕に似て怠惰な性格であり、決して忠誠心があるとも思えなかったが、愛嬌だけは抜群だった。 フジコはボール遊びが好きだった。空き地でリードから解放し、ボールを投げかけると喜んで走っていった。幼犬時代には、喜びすぎて走り出した途端に足をくじき、大急ぎで獣医に運び込んだこともあった。 水泳も好きだ

心臓発作

その男は僕の幼馴染だった。 生まれつき心臓に疾患があり、小学生の頃、二度大きな手術をした。胸を縦一線に切開した二十センチほどの深い痕が残ったが、そんな経緯をすっかり忘れてしまうほど健康体となり、成人してからは酒を飲み夜更かしもした。上京して大学を卒業し、政治家の秘書をして人脈もつくった。外遊して見聞を広げると、輸入雑貨の店を開いた。 幼馴染の妻は心臓病だと本人から聞いていたが、暴飲暴食や過労に人並み

微糖とブラック

僕は大の缶コーヒー好き。一日に五、六本飲む。 適度に血糖値をあげるときにも缶コーヒーを飲む。糖分を控えるために微糖と決めている。唯一、車を運転するときには眠気を防ぐためにブラックを飲む。この飲み分けを妻はよく知っていて、ディスカウント店では微糖とブラックを適度に配分してまとめ買いし戸棚にストックする。 「缶コーヒーには大さじ三杯の砂糖が入っとるって。最低でも角砂糖四個。そのほかにも甘味料」 妻は言う

ヤカンいっぱいの水

明治生まれの祖母は東京に住んでいた。大正十二年、関東大震災に遭遇。山梨県の知人宅へ祖父と共に逃れる途中、どうしようもない喉の渇きに苦しんだ。 ある夜、祖母はヤカンを覗き込んでいた。少年だった僕が何をしているのかと尋ねると、 「水がちゃんと入ってとるか見とるんやで」 「なんでそんなことするの?」 「地震がきたら、ヤカンだけ持って逃げるんや。大震災のとき、水が飲めんかったから死にそうになった。あれこれ持

破水したみたい

日曜日の朝、ぼんやりと目を覚ますと夜はまだ明けていなかった。午前五時だった。妻がどこからか弱々しく僕を呼んでいる。 「破水したみたい。病院へ連れてって」 予定日より十日早い。 立会い出産は辞退した。女は手術室でいきみ、男は廊下で産声が聞こえるのを待つものだという時代遅れな美学に洗脳されていて、僕はかたくなに立会いを固辞した。 「七時に帝王切開をします。それまでは休んでいてください」 結婚して五年間、

白い机

少女時代、白い机にあこがれていた妻は、両親にせがんで真っ白い机を買ってもらった。決して裕福ではないことを感じながらも、生まれて初めて強烈なおねだりをした。 願いはかなった。夢心地で眩しく光る机を眺めた。 しかし、実際に使い始めると、白い机は汚れがつきやすく埃が浮き立った。傷があちこちにできて目立ち、すぐに傷だらけになった。 妻は想定とはずいぶん違うと思いつつも不満を口に出さず、高校を卒業するまで大切

ぴったし黄身がまん中になっている目玉焼き

首が右に回らず、右腕が痺れる。無理に動かそうとすると首、肩、腕と体の右側に沿ってズキリと鈍い痛みが走る。 内科医へ行くと、 「微熱が出ています。扁桃腺の腫れからくる微熱です。」 「扁桃腺ですか?」 点滴を打ち、扁桃腺の薬を処方された。 整形外科医を訪ねる。上半身の触診をし、右腕から肩のレントゲン写真を数枚撮る。 「腰が張っています。痛みはありませんか?」 「いいえ。腰は何ともありません。」 「腕も肩

むれない、もれない、かぶれない

長女が誕生した頃、妻は紙おむつにこだわった。 肌触りと吸収力、それに月齢を考えて買い求める。肌が弱い低月齢には、かぶれないことを重視し、動きまわるようになるとフィット感を想定した。 幼少時にアトピー性皮膚炎に苦しんだ妻は、我が子にアレルギー体質がないことを祈りつつ、口に入れたり肌に触れたりするものには母性を発揮した。 特に紙おむつは絶対にむれることのないように素材を厳選した。 「今日のテーマは、ムレ

ウィン・ロッキー・ウィン

映画「ロッキー」が僕にとってサクセスストーリーの原点となっている。 二十歳前後にロッキー、ロッキー2・3・4まで欠かさずに映画館に通いつめた僕は、完結編といわれたロッキー5はもちろんのこと、ロッキー・ザ・ファイナルの試写会のチケットを知人から手に入れると、当然のようにすべてを投げ出して会場へと急いだ。 プアーホワイトの象徴であったロッキー・バルボア。人見知りが激しいその恋人、エイドリアン。二人は決し

キス・アンド・クライ(1)~ Midori Ito, 5.9

一九八八年、カルガリー五輪。女子フィギアスケート、シングル・フリー。 「ミドリ・イトウ、ファイブ・ポイント・ナイン」(Midori Ito, 5.9) フルマークに最も近いジャッジが告げられたとき、スタンディングオベーションに湧きたっていた観客は、よりいっそうの拍手と歓声をあげた。 リンクには次々と花束が投げ込まれた。 その花束を両腕いっぱいに抱えた高校三年生の女子スケーターは、顔をくしゃくしゃにし

キス・アンド・クライ(2)~ Midori Ito, Japan

一九九二年、カルガリー五輪の四年後、アルベールビル。 ダイナミックな「タンゴ・ジェラシー」の曲想。しかし、演じるその顔はまるで別人だった。笑みもなく涙もなく、見ている者が息苦しくなるほどつらい表情だった。 「ミドリ・イトウ、ジャパン、ファイブ・ワン」(Midori Ito,Japan, 5.1) 二日前の練習ではコンビネーションジャンプを十四回失敗していた。心臓が張り裂けそうなプレッシャーだった。そ

16000本のキャンドル

あの日、大地震発生から三十分後、 「道が割れてる!」 奇跡的に通じた電話の向こうから、福島県にいる友人が叫び、直後に途絶えた。 僕は名古屋にいた。テレビニュースを見ていた。 目を覆う津波の惨状が次々と放映された。 漁船が岸壁を超えて流されていた。海水が押し寄せて次々と家を押し流した。田園の道路を走る乗用車のすぐ後ろに、ガレキを飲み込んだ真っ黒い津波が迫る。 思わず言葉を失い、息が苦しくなる。 大津波

掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?

2008年の暮れから睡眠外来に通院した。僕の体には次々と異変が起こっていた。 まず右足の甲に腫瘍。放っておくと一週間ほどで親指の先ほどに肥大化した。ちょうどそのとき家の近くの喫茶店のマスターが、ふくらはぎに何かができたと言っている間もなくガンと判明し、その二週間後には死亡するという出来事があった。 あわてて医者にいくと、 「脂肪の固まりですね」 看護士が足の甲にぶすりと注射針を刺し、 「痛ッ」 僕が

ララパのパセハ

小学四年生になる長女にとって、春休みの最大のミッションは初めてのプリクラを撮ることだった。 長女は同級生三人と五キロほど離れたショッピングモールに行くことを画策していた。それぞれのママに小さな野望を伝えなければならないということと、正直に言っても校区外に子供たちだけで遊びに行くことをママ友たちは承知しないだろうということを話し合った。 目指す市街のショッピングモールはララパーク。 その二階のパセリハ

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(1)

一九七四年の夏、夜が白々と明け始めた頃、家の庭にニワトリが迷い込んだと家族が大騒ぎしたことがあった。 どこからか鳴き声が聞こえてくると、幼稚園に通っていた弟が祖母を呼び、母を手招き、あちこちを捜したがニワトリはどこにも見あたらない。そして、家の中から声が聞こえると父が僕を起こしにきてわかったこと、それは当時中学生だった僕の寝言だった。 「コケッコー、クックックックッ、コッコ」 僕は大声で鳴きまねを繰

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(2)

結婚して間もなく、妻が初めて聞いた僕の寝言は、 「俺は道の駅になる」 夫は目の前でぐっすりと眠っていた。掛け布団をあごの下にがっちりとキープして身動ぎもしない。心持ち歯を食いしばるようにして眉間をそばだててはいるものの、起きているとはとても思えない。揺さぶってみても反応がない。瞼を開いてみてもどんよりとしている。確かに眠っている。 それでも、 「道の駅になる」 間近に聞こえた。 妻は僕に強烈な寝言癖

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(3)

早口言葉は得意ではない。どちらかと言えば滑舌が悪い 「アエイウエオアオ」 高校生の頃、演劇部員が校舎の屋上に横一線になって発声練習をしていた。その光景を僕はよく見ていた。彼らのように意識して口を大きく開き、ゆっくりと、はっきりと話そうとトレーニングをした。 「カケキクケコカコ」 声の瞬発力、腹式呼吸、柔らかな表情筋がキーワードであると部員から聞けば、 「サセシスセソサソ」 勢いをつけ、腹を膨らませ、

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(4)

深夜、救急病院に運びこまれたときのことだった。僕は慢性の盲腸炎だった。 手術前、 「個室にしますか?六人部屋にしますか?」 看護士に尋ねられ、僕は激痛に耐えながら個室を希望したが、妻は手術中に盲腸くらいでもったいないと六人部屋に決めていた。 「盲腸は命に別状なし。六人部屋で十分」 翌朝、麻酔から覚めた僕は、中年男性五人に囲まれる病室にいた。 妻は僕の保険を調べていて、 「入院は五日目から全額保障なん

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(5)

新聞を読むことが好きではない。 高校生のときに新聞を一面から読めと毎日のように担任教師から指導されたが、生来あまのじゃくな僕は三面記事と四コマ漫画から社会を学習した。今でも新聞を読むことは好きではなく、新聞を読めと言われることはそれ以上にいやでたまらない。 リーマンショックがあった年、その日は不動産広告が目について珍しく新聞を読んだ。 三年間は不景気がさらに悪化し、回復が望めないとコラムニストが書い

おとうさんの寝言が教えてくれたこと(6)

ずっと忘れていた歌を眠りながら歌うことがある。歌詞の記憶があいまいなときもあり、たいていの場合は間違えていて、かつ繰り返す。 「♪ ラララララ、はじめてあなたとどこで逢い」 その頃の定番は1979年にリリースされた松任谷由美の「帰愁」。 ラテンアメリカ音楽をとりいれた歌謡ポップスの一節を若い頃に聞き覚え、それから三十年後に突然歌いだした。誰の歌なのかさえ記憶がなかった。 熱唱し、大声で繰り返し歌った

ホットコーナー "サード"

サードが僕の定位置だった。 小学校のときから中学校も高校もずっとサードだった。 スポーツと言えば野球しかなかった。グラウンドを夢中になって走り回った。決して名手でもスラッガーでもなかった。けれども、野球が好きだった。だからこそストイックになれたし、熱くなったり、ムキにもなった。 大声を出してノックを受け、捕れそうもない打球にダイビングした。 いつからかガッツが僕の代名詞となった。 「お前は野球してな

ベッドとバスルームの間

一人暮らしをしている母にとっては、ベッドとバスルームの間が思いのほか遠い。 母は今年満79歳。身長145センチ、体重47キロ。 「嫁と姑は同じ家に住んだらあかん。必ずごたごたして、何にもええことはあらへん」 そう言って父が亡くなってからも一人暮らしを続けている。 もとより足腰が強く、歩くことをいとわない。老眼鏡をかけるのをいやがり、 「メガネ、かけたらどうや」 僕が言っても聞かない。 目をしょぼしょ

埠頭の風とぶどう色の空(1)

埠頭の夜はぶどう色だった。海風の冷気が桟橋を吹き抜け、夜景は虹色に冴えた。湾岸を一気に加速すると単気筒バイクの古いエンジンがうるさく唸った。タンデムシートのミキが僕の背中にしがみつく。フルフェイスのヘルメットの中から叫び、 「きのうね、スキヤキつくって食べたんだよ!」 札幌生まれ。色白、小柄。19歳。表参道の美容院でシャンプーボーイをしている兄を頼って上京し、僕と同じ日比谷のエスニックレストランでア

生涯にただ一度のプラトニック・ラブは

晩秋の風の中を色づいた枯れ葉が舞っていた。 古い木造の校舎は底冷えがした。膝を寄せ合うように彼女と僕はひとつの机を囲んだ。 十五歳、中学三年生、放課後の教室。 彼女の友人が僕たち二人のためにつくってくれた時間だった。 彼女は頬杖をつくと楽しげに微笑した。 僕はその口元を見つめていたいと強烈に感じながらも、その思いを見透かされているような気がして、やり場のない目線をカーキ色の校舎の窓に向けた。 彼女が

16000本のキャンドル(2)

大勢の人たちが今年もキャンドルをつくった。ひとつひとつに祈りをこめた。そして、15, 890本をつくった。 名古屋、東別院。 子供たちや学生や、大人たちが、その境内に並べていく。夜、ひとつずつ、すべてのキャンドルに火をともす。 キャンドルの数は、津波に飲まれ、亡くなった人たちの数。 その火を見つめて被災した子供たちと語り合う。 「父が津波で亡くなくなったってことを話すと、どう思われるのだろう…って思

硬派の美学

饒舌でなく、寡黙。 それでも相手の言葉が琴線に触れれば、真っ向から立ち向かう。 その激しい行動とは裏腹に静けさを好む。 王道を探し、迷い、それでもなお正論を求める。 流れに身を任せることがない。 髪を染める異性には、違和感。 優柔不断な同性には、嫌悪感。 時折、思い出すことは、 「男は、台所に立ったらあかん」 明治生まれの祖母に叱られたこと。 そんな時代遅れな硬派の美学を、今また熱烈に待ち望んでいる

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(1)

去年の夏、 父さんは肺がんになったよね 。父さんも、母さんも、小学六年生だったサチも驚いた。 レントゲン検査をしたら影が見つかった。それでも早期発見だったから、手術をして、 がん を切りとる ことができて、ほんとうに運がよかったと思う 。そのときは生まれて初めて自分が死ぬことを考えた よ 。だから、それからの 一年は、それまでとは全然違っていたし、一日一日がとても大切なものになった。 そのことを今は

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(2)

8月中、会社をたくさん休んだし、お盆休みの間もずっと日赤に通って検査ばかりしていた。 小学校最後の夏休みの思い出にと、サチと約束していた山登りや海釣りにも行けなくなったよね。あのとき、父さんの意思とは無関係に周りが急に動き始めていて、ついていくのが精一杯なくらいに忙しくなっていた。肺がんになったんだという現実から目をそむけることができなくなって、後戻りはできないところまできていたんだ。 日赤に行くた

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(3)

10年日記を買ったよ。1日4行、1ページに同じ日にちのことを10年間書く。 筆不精な父さんにとっては、小学生のときの絵日記以来のことだったし、大人になってもその日を振り返ることなんてことはほとんどなかったから、ちょっとした思いつきだった。毎日書かなくとも、日赤に行って診察を受けたときには診断結果を書きとめようと思ったんだ。 たとえば、 「7月27日、伊勢日赤、呼吸器内科、初診。レントゲンと造影剤CT

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(4)

外科医は青い手術着だった。 「松本さんですね。本人確認のために、フルネームと生年月日を言ってもらえますか。」 坊主頭、無精ひげ。細い目の奥の眼光は鋭い。呼吸器外科の執刀医として生死を分ける瞬間をいくつも見てきたのだろうな。内科の主治医とは違って、金属的なメスの臭いがするような気がしたよ。 「松本晃一です。昭和35年10月…」 その日には、母さんと一緒に日赤に来るよう看護師から言われていた。がんの告知

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(5)

それからしばらくの間は、これでも大病なんだろうかと思っていたよ。 胸が痛くなるとか、息が苦しくなるとか、そんな症状がまったくなかったし、体調はすごくよかったから、今までと同じようにジョギングをしたり、ロードバイクに乗って50キロ走ったりもした。それでもこのまま放置すれば、あと一年か二年しか生きられない。とても信じられないことなんだけれども、外科医は、はっきりとそう言っていた。一刻も早く手術をして、運

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(6)

ここまでやってきて、もう一つ、父さんには思い悩んだことがあった。それは遺書を書くことだった。 肺がんにならなければ、絶対にそんなことはしないし、考えもしなかっただろう。けれでも、このとき父さんは真剣に考えて、レターセットを買ってきて、真っ白い封筒に「母さんとサチへ」という宛名を書いた。便箋にも同じように書いた。 しかし、そこからまったく何も書けなくなった。 便箋を破り捨て、母さんとサチの名前を渾身の

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(7)

桜木町、赤レンガ倉庫、大桟橋。大型客船のロイヤルウイングに乗船し、ディナークルーズへ。ランドマークタワーはオレンジ色に染まり、みなとみらい21が大きなパノラマとなって迫ってきた。いつになくあわただしく過ぎていく夏の日の鮮やかなサンセットだった。 家族三人、新幹線に乗って横浜に行ったね。 母さんとサチのいつもと変わらない様子が何よりも嬉しかった。普通に振る舞ってくれたことがほんとうに心強かった。この小

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(8)

手術まで二週間余。 呼吸器外科の外来診療ではいくつかの飲み薬を処方されたよ。痰を出しやすくするゼオチン錠とムコソルバン錠、胸に貼って気道を広げるホクナリンテープという貼り薬。それに、特殊な容器に入れて吸入するスピリーバというカプセル。調剤薬局ではカプセルを容器に入れるやり方や吸い方の説明を聞いた。 風邪薬くらいしか飲んだことのない父さんにとって、説明書を読んだり、扱い方を教えてもらったりしなければな

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(9)

父さんは、右肺の3分の1を切りとる。 リンパ節もとる。 朝9時に全身麻酔。手術の時間は3時間程度。手術中に病理診断をする。悪性の腫瘍であれば切除する。腫瘍が3センチ以下のステージⅠAであれば5年生存率は70〜80パーセント、5センチを超えるIIBであれば50〜60%に下がる。もし胸水や胸膜播種が見つかったりしたら、何もせずに縫合する。ステージは一気にⅣになり、一年生存率が50パーセントになる。手術や

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(10)

澄みきった水色の空を切り裂いてヘリが舞い、機影は次第に大きくなって中庭を横切った。プロペラが旋回する音が近づくと、緊急事態を知らせる館内アナウンスが流れた。 「コードブルー、コードブルー」 日赤に入院したその日、病棟の窓に父さんが最初に見たものは、屋上に飛来するドクターヘリだった。 「コードブルー、コードブルー。6号エレベーターは、緊急搬送専用となります。」 三年前に新築された日赤は、一辺100メー

カテゴリー

父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(最終回)

「6センチ、6センチやよ」 執刀する外科医、麻酔科医、臨床工学士らに囲まれ、麻酔ガスを吸って一瞬に昏睡してから7時間が経っていた。母さんの声が聞こえたとき、父さんは混濁した意識の中で胸腔鏡下手術が終わったことを知った。 「うまくいったって、先生が言っとるよ」 すぐ近くに母さんいることがわかった。 父さんは目を開けることはできず、何か言おうとしても口を動かすことができなかった。悪性腫瘍が6センチならば

16000本のキャンドル(3)

津波が防波堤を超えた。岸壁につながれた船が、あっけなく流された。 街路を濁流が走る。 家が、車が、人が、真っ黒い水に飲み込まれていく。 「子供がいます。家の中に子供がいるんです。」 あの日、僕は震源から遠く離れた名古屋にいた。 そこで、テレビを見ていた。 「誰か子供を助けて!」 家並に津波が押し寄せている。 道が壊れていく。 テレビに映る人たちは、皆、泣き、叫び、走っていた。 その光景を見ている僕は

南十字星と白夜(1)

プロローグ 慶大に進学しても四回も留年して中退したのだから、その後の人生が大きく変わって当然だろうし、社会的にはかなりドロップアウトしたダメージに普通はそのとき気づくのだろうけれども、僕はそうでもなかった。破天荒だったからではないし、安穏としていたからでもなかった。世間知らずだったために、その先どうなっていくのかがよくわかっていなかったのだと思う。 十八歳と二十五歳の間。 大学二年生を二回、四年生を

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(1)

(幸いにして肺がんを早期発見することができた僕は、右肺上葉部の摘出手術をし、今は毎月定期健診を受けています。術後1年半、今のところ転移所見はなく、闘病体験としてはささやかなものです。それでも自分にとってはいろいろと考えることもありましたので、伝えられることもあるのではないかと思い、「父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙」の続編として書きました。)              *   *  

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(2)

僕の肺がんはリンパ節への転移はなく肺葉の中にとどまっていた。腫瘍の大きさは4.5センチ、外科手術により肺葉を切除することが標準治療とされるステージⅠB期だった。統計的には5年生存率は70%。だから、がんは必ずしも死に至る病ではなく治癒で​きる可能性が十分にあると言われれば、今ならば相応に受けとめることができる。 けれども、「魔の二週間」と呼ばれるがん告知からの日々は、とても混乱したものだった。何をし

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(3)

肺がんになったのだから、ある日突然この世からいなくなる​可能性は普通の人よりは高い。 悲しいことだけれども、このことは自覚はし​ておいた方いいだろうといつも思う。だからといって不安だらけになって落ち込んでもいても、時は同じように流れるのだから、たとえ一年後や二年後に転移があったとしても、早期発見ができて治療をしている今を大切にするべきだ。 僕の父も、肺がんだった。 父は小細胞癌という手術ができない肺

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(4)

「5年生存率」とは、診断から5年経過後に生存している患者の比率。数多くのがん患者の平均的な数値であり、確率として推測するものだから、患者の余命を決定づけるものではない。あくまでも統計的に導き出されたものだ。けれでも、そうと頭ではわかってはいても、がんの告知を受けた瞬間からは、とても気になる生々しい数値になる。 病期によって余命は大きく変わる。 ステージがⅠ期でも腫瘍が3センチ未満と小さければⅠA期と

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(5)

肺がんになった僕は献血ができなくなった。 日本赤十字社のホームページによれば、 「悪性腫瘍の診断を受けて治療中の方はもちろん、悪性腫瘍の手術を受けた後の方も、たとえその術後経過が良好でも、原則として献血をご遠慮いただいています。」 このようなことは、肺がんになったからこそ学んだことのひとつだ。 痰に1センチ、すうっと糸を引いたような血の筋が混じっていたことがあった。咳が出たりする症状がなかったから、

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(6)

大切な人​を失ったときはとても悲しい。時には人が変わってしまったり、自分を見失ってしまうこともある。それが人生経験のひとつだとを理解はしていても、容易に自分の心の中では消化しきれない。僕にもそんな思い出がある。一時、僕は自分を失っていた。30年以上前のことだけれども、今でもそのときの感覚を覚えている。 その女性は、がんで亡くなった。 がんを死に至る病だと皆が思っていた頃、インフォームド・コンセントと

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(7)

呼吸器内科の外来の待合所では、キャリーバックのように酸素ボンベを引いて歩き、鼻に細いチューブを装着してボンベから供給される酸素を吸って歩く人がいたり、胸に直径1センチほどのチューブが差し込まれたドレーンと呼ばれる医療機器を引いて歩く人がいたり、肺に疾患のある患者特有の光景をよく見かける。 圧倒的に中高年が多い。56歳の僕は若いほうかもしれない。 それでも、時々、場違いなような若い女性が診察室に入って

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(8)

肺がんを生き抜いている人たちは、誰もが生死の​境目から生還した英雄だと思う。 再発におびえることもあるだろうし、転移が見つかれば最初のがん告知よりもずっと重い気持ちを受けとめなければならないのに、だからと言って暗い気持ちを抱え込まず、悲​しんでばかりいるのでもない。強い気持ちをもって生きている人たちだと思う。 「笑顔が大切なんですよ。笑顔でいてくださいね。」 生き抜く人は、未来にこだわる。 その初老

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(9)

僕の右胸には5センチほどの手術の痕がある。それと2センチの痕が2つ。肋骨の間にメスを入れ、胸腔鏡という小型カメラと肺を切り取る電気メスを挿しこんだから。肋骨に沿うように切ったその痕は、今では普通に立って腕の下に隠れるくらい小さい。かつては30センチも開胸し、肋骨を2、3本切断していたというのだから医療の最前線は日進月歩だ。 胸腔鏡下手術。 がんに蝕まれた肺の一部を切除し、リンパ節も郭清する。手術の傷

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(10)

胸腔鏡下手術ができる病状であれば、外科療法ができるステージⅠやⅡということだから、肺がん患者としては幸運だ。ステージⅢやⅣという重い状態ならば外科的な処置はできず、放射線療法や抗がん剤治療などに限られて、時には余命の宣告を受けることにもなるのだから。 「胸腔鏡下手術をして、肺の一部を切除します。転移している可能性のある周囲のリンパ節も郭清します。」 手術の一ヶ月前、幸いにもステージⅠと診断された僕は

これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(最終回)

「松本さん、ただひとつの命の使い方ですよ。」 夏の患者会のとき、70歳の紳士に出会った。とてもやさしそうな人だった。 総合庁舎の会議室で話をした。 手術の後、1年半の間、僕がずっと不安に思っていたことを話してみた。たとえば、毎月、定期健診に通っていれば、いつか必ず「転移が見つかった」という最悪の告知を聞く日がくるだろうということ。そのときにはまた手術をするか、化学療法や放射線治療をしなければならない

ただひとつの命の使い方

(このストーリーは「これから肺がんを生き抜いていく人たちのために」全11話を、総集編として再編し、改題したものです。) 幸いにして肺がんを早期発見することができた僕は、右肺上葉部の摘出手術をし、今は毎月定期健診を受けています。術後1年半、今のところ転移所見はなく、闘病体験としてはささやかなものです。それでも自分にとってはいろいろと考えることもありましたので、伝えられることもあるのではないかと思い書き

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すれ違う大人たちが、私を見て目を逸らす。 露骨に嫌な顔をされることもあった。 ツバを吐かれ、「気持ち悪い」と言われることもあった。 まだ、5歳くらいだったと思うけど、それでも十分、この世界は嫌いだった。 「アイコちゃんの顔は、どうして青いの?」 幼稚園の友達に聞かれたから、お母さんに聞いてみた。 「アイコの顔は、どうして青いの?」 お母さんは、とても困ったような、悲しそうな顔をしていたのを、今でもは
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なんで街に人がいないんだろうと思ってたら、そういえばお盆休みだった。 実家には毎年きっちり帰っていたけど、 今年ばかりは忙しく、まだ帰れていない。 雨が降りまくっている、めずらしいお盆らしい。 8月の16日の今日。 朝目が覚めると、雨の音がきこえた。 ぼーっとした頭で携帯をみると、着信と留守電の文字。 「きよせ家のみんな」から午前8時26分にかかってきていた。 留守電を再生してみる。 あ、もしもし、
清瀬 史
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世界を変えるということは

(2年ほど前に書き途中だったストーリーがあったので、最後まで書いて投稿してみたいと思う) 世界を変えたい 大学生のわたしの頭には、四六時中その言葉があった。 ハミガキする時、キャンパスを歩く時、食堂にいる時、いつも頭の片隅にその気持ちがあった。面倒くさいほどの意識高い系だった。 「おれは世界を変えたい!」暇さえあればfacebookに投稿していた。自己満足な話をたれ流し、気を利かせた人たちにイイネを
山田 結城
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30歳で脳の1/5が無いことを知って、心と精神が大振れ、でも○○だったことに気付けて、人生変わったという話

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Ohta Yuki
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