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み わの人生のストーリー

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み わの人生のストーリー

息子たちへ

  道はどこまでも続いている   だから、このチャリひとつでどこまでも行けるぜ   無限の可能性があるんだ   部活…う〜ん、まぁ適当かなww   勉強はしなきゃいけないの分かってるけど、好きじゃない   女子…興味ない訳じゃないけど、今はまだいいや。友達とバカやってるのが一番楽しいし   夢?   「宝くじ当たって大金持ち!」とかじゃダメ?これって人に言えるような夢とかないしな…   でもさ、親が

語れるものは何もないけれど

人々の人生を垣間見ることができるSTORYS.JP。 「みんな色々あるねぇ」と感心したり、感動したり、単純に「おもしろい!」笑いながら読んだり、人生の過程を覗かせてもらっている。 私は人に語れるようなものは何もない人生。平凡な日常を送っている。 そんな私でも胸を張って言えることがひとつある。 私は幸せな人生を送っている。 一般的なサラリーマン家庭で育ち、短大を卒業して就職。 時はバブルが完全にはじけ

夢探しに疲れていませんか?

夢を持とう、夢は大きければ大きいほどいい。夢に向かって努力する姿は美しい… 夢を追いかけて実現させようとしている人、素晴らしいと思います。 では、夢がない、夢を追ってがむしゃらに努力をしてない人はダメ人間?クズなのか? 否!! 「バッカじゃない?んなことあるわけないでしょ!!!」と声を大にして言いたい。 幸せの感じ方は人それぞれ違うのだ。 私はバブル期の就職組だ。「良い学校に行って、良い会社に入って

おばちゃんの転職活動

8年前、新聞の折り込みで見つけた大学病院の受付事務の仕事に就いた。レセプトは扱わない部署なので、医療事務の資格がいらない半日契約のパートだ。その仕事を辞めて転職することにした。 きっかけは昨年10月、社会保険加入の適用範囲が変わったから。この時点でまだ加入しなければならない規模の職場ではなかったが、今後適用範囲が拡大されると社会保険に加入しなければならない。私は年収130万まで可能として働いていたか

読んでよかったストーリー

小堀 訓嗣
16
1

震災で生まれた奇跡の感動物語

6年前の3月11日。 東北では、 未曾有の津波が襲い、尊い命が沢山 失われた。 それから1カ月が経ち、 ボランティアで震災支援に行ったとき 私は自分の無力さに涙した。 それは、生き残った人々が口々に 語る言葉だった。 「生き残ってしまって、申し訳ない」 目の前で家族が流され、 若い命も沢山亡くなったにも 関わらず、生き残ってしまった 自分を肯定出来ずにいる沢山の命が そこにはあった。 そんな東北の地
森内 剛
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6

【夜と朝がつながっていた話】

 先日娘と話していて,甦った大切な思い出。  もう20年ほども前のことでしょうか。娘は当時,幼稚園に通っていました。何に対しても興味を抱く年頃,私は毎日,娘の質問攻めに合っていました。 「お父さん,お月様はどうして落ちてこないの?」 「お父さん,走ると汗がでるのはどうして?」 「お父さん,……」  子どもの好奇心を大事にしたい私は,毎日返事をしていました。そんなある日,娘が思いつめたような顔で私に訊
Ninaki Shoichi
245
7

母がくれた言葉

僕がまだ幼い頃のお話。 僕が生まれ育ったのは九州・福岡県。 日本人の父、在日韓国人の母、そして僕の3人家族。 幼い頃から母は愛車カローラ(当時)の助手席に僕を乗せ、 いろんなところへ連れてってくれました。 母はドライブするときいつも車内で音楽を流してくれました。 ごはんを作るときの鼻歌はだいたい韓国の歌謡曲でしたが、 車で流す曲は海外のものが多かった気がします。 ビリージョエル、リチャードクレイダー
Sasajima Kayo
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4

脱力系人間たちの友情物語

 私の大切な友人が今週、母国に帰国します。センチメンタルな感情とはほど遠いところで日々生きている私ですが、今のこの表現しがたい感情をもてあまし、私たちのストーリーを書くことによって昇華したい・・・そう思って書き始めました。  彼女とは20代の頃に勤務した日本企業で同僚でした。「キャリアウーマン」という言葉(今は死語?)が胸を張って闊歩していて、仕事を続ける女性はどこか肩に力が入っていた時代でしたね。
Katsube Tatsuya
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1

料理で伝わった母の愛。

僕は、普通の家庭に生まれた。 きっとSTORYS.JPなら、 珍しい体験をさせて貰いながら育った!ありがとう母! 絶縁状態だった母が病気に...。 グレてた時、母の愛を知って更生! 系の話が多いんじゃないかと思うけど、 僕は、普通の家庭に生まれたし、母はずっと健康だし、残念ながら僕はグレてもなかった。 ただ、いわゆる一般家庭とちょっとだけ違うのは、こじんまりとした自営業で、親の休みなんて無かったって
Waki Mitsue
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「高い所には登るな」が一族の隠れた家訓だった訳

あれはまだ、四月二十九日が天皇誕生日だった頃の話。 昭和五十二年、四歳だった時のこと。 テレビでは、伊東四朗さんと小松政夫さんが出てた番組に《電線マン》という人気キャラクターがいて、電線音頭なる歌が流行っていた。 四歳の記憶を、なぜこんなに鮮明に覚えているのか、それは、その電線音頭をある場所で踊っていて、転落してしまったから。 当時、近くの市町村会館で、四月二十九日の祝日に《ちびっこ映画祭り》という
池上 まさこ
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子持たずの記(6・終)

 明治の初め珍しくもなかったろうが、私の母は兄弟姉妹あわせて九人の、五女であった。幼くて亡くなった姉、結核でなくなった兄、六人目の男の子の出産で亡くなった姉、結婚してから亡くなった弟など、全員が揃って成人した訳ではないが、私には叔父、叔母、いとこたちが大勢あって、寂しい思いをあんまりしないで済んだのは幸いであった。子福者の叔父伯母たちの中で一番若い叔父夫婦だけには子供が無く、父を戦争で亡くした私は、
池上 まさこ
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終(つい)のすみかを見つけたり(2)

 入居して一番驚いたのは、夫が自分の身だしなみに気を遣うようになったことだ。今までおよそそんなことに 気を遣うような人ではなかった。  まあ、よくって朝起きたら、水でビシャビシャっと顔を濡らす程度。  入れ歯を洗って嵌めるくらい。ひげを剃ることも、剃らないことも。ブラシで髪をなでつけるくらいはしてたかな。  まして、着る物には全く無頓着。畑仕事用のドロンコズボンを、玄関に脱ぎ捨ててあるのはまだいい方
古田 博久
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2

おまえ、こんなええ歯、わしに抜け言うんか、ボケ!

僕が、大学5年の病院実習のときのことです。 口腔外科のM先生は、大学病院の受付カウンターで、ものすごいけんまくで受話器に向かって怒鳴っていました。 『お前、こんなええ歯、わしに抜け言うんか、ボケ!』 M先生は僕のインストラクターでした。 持っていく器具を間違えたせいで、僕はその鋼の器具で頭をなぐられたことが何度かあります(なぐられても、また間違えてしまった。。) 患者さんの処置中で両手がふさがってい
Harada Hideyuki
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「母の懐中電灯作戦」のお話

僕は真っ赤な自転車で塾に通っていました。当時小学生の僕の授業が終わるのが夜の8時ごろだったと思います。 僕が帰るときには辺りはすでに真っ暗闇。 街灯がほとんどない田舎道を一人自転車で帰るのはすごく心細いものでした。 当時の僕はテレビや本で心霊現象やUFOなどの話を聞いたり、読んだりするのが大好きでした。自分の目で見たことがないものにすごく興味があったのです。 でも厄介なことに、その好奇心は夜になると

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