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飯田 伸一

かつて一人の大学生は地図を拡げて詩を書いたのだと言います。

想像力で構成されたそれらの詩はほんとうに美しく、やがて広く知られる詩集に収められます。詩集のタイトルは「水駅」と言います。私は人の想像による創造に圧倒されたものです。

かつて大学を卒業した私はメトロノームを倒してから楽譜に詩を書き綴ったものです。

エリック・サティを真似て五線譜に書いたわけですね。非常に充実した日々でした。

でも私は賞を受賞したいと希望しました。私はメトロノームを捨て、五線譜も捨てて、詩を書きはじめました。

それから私の書く詩はよく掲載されるようになりました。

一年後、かつて大学生だった人間は手帖賞を受賞します。1997年のことです。

それからずっと私は「自分を捨てて受賞を優先したために書く意味を失った」詩人だと自分を位置づけてきました。

ここまではあまり目的のない自己紹介でした。

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私は書店のない小さな村に生まれました。身体が弱く小さい頃から本だけはよく読みました。

小さい村ですから学校も小さく図書館も申し訳程度でした。それでもそんな図書館は私には心躍る宝箱でした。

中学に入ったら(小学校と中学校は体育館で繋がれて同じ敷地でした)図書館は会議部屋の壁の書棚でした。

あまりの悲惨さに悲しみにくれたものです。

私が読むものがなく困っていると祖父が毎月1万円をくれるようになりました。

それで月に一回、むつ市の書店に行って本をまとめて買ってこいというのです。

私はそんな大きな買い物をしたことがなかったので(という書き方はちょっと変なのですが)わざわざむつ市に行くと比較的大きな書店(それでも今にして思えばかわいい広さ!)ではなく、個人商店のような店、そうですね、たとえばこっち側が新潮文庫だとすると、向こう側はエロ小説が並んでいるような店で、毎回20冊程度の文庫本をまとめ買いするのでした。

それも3年に渡って!

不審な中学生だったと思います。

本好きの少年にとって20冊程度はあっという間にです。何回も何回も読み返したものです。

知っているかいみんな!昔はフランソワーズ・サガンだけでも新潮文庫にはすごい数の作品があったんだぜ!

あるときに、それは、ほんとうに唐突に、私は中学の職員室に呼ばれました。私は比較的優等生だったので身に覚えもなく呼び出しに応じて入室すると国語の先生が、ごめんなさい、本当に私にとっては恩人のはずなのにもうずっと名前は忘れてますが、あなたです、はい、眼鏡をかけた人、うん、音楽の工藤先生の奥さんになった、国語の先生が私の本好きを本当に誉めてくれて、これをあげると国語便覧(たぶん教科書会社の人が学校に寄付してくれたのか資料で置いていったものなのか)を3冊(だったと思います)くださいました。

私はその3冊を何百回読み直したかしれません。

私はその便覧で短歌を覚えました。

私はその便覧で俳句を覚えました。

実は詩はあんまり興味なかったです。

私は13歳で佐藤佐太郎を知りました。

私は13歳で中村草田男を知りました。

私は13歳で工藤先生の奥さん(当時はまだ旧姓ですが)のおかげでその分野の本格というものを知りました。

私くらいの年齢で佐藤佐太郎から短歌をはじめるなんて秋葉四郎先生の生徒でなればそうそうあるものではないです。私くらいの年齢であればもう4年後くらいに俵万智を契機にはじめた人は推定5万人はいないかな。

私くらいの年齢で中村草田男から俳句を始めた人は........これは結構いるかもな。

実は佐藤佐太郎はいっとき岩波書店に、中村草田男はみずず書房に席を置いていたはず(違うかも)です。

私はそんな素晴らしいこの道の先輩たちと同じように出版の世界に席を得たわけです。ま、比べようもなくしょぼいですけど。

あのとき中学の狭いほんとうに狭い職員室で3冊の便覧をもらうこともなかったら私はいまどういう人生を送って、どんな回想の文章を書いていたことでしょう。

ごめんなさい。ここまでもどうでもよかったかもしれません。

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私は比較的というよりも極めて著者と活動することの多い出版社の営業です。

私が本についてどのような想いを持っているかはあれこれ語るよりも上の二つのつまらないエピソードで少しは御理解いただけるかなと思います。

世界を変える旅に出ようか。

つまり世界は変わるから旅に出ようよ。

私は世界を変えたく思っています。

ほんとバカみたいなものですが世界は変わると信じています。

私がイベントを多く手掛けるのは世界のそこここにいる成功を願う人やなにかのきっかけに飢えている人に、

大丈夫、世界は変わるよ、あなたの力であなたはあなたの望むあなたに辿り着けるよと太鼓判を押すことなんじゃないかなと思うのです。

石井裕之という著者がいます。私が著者をこきつかう営業として実質デビューすることになったきっかけになった人です。

私は編集のNと必死にこの人を売り出すためにない知恵を絞って頑張ったのです。なにしろNが言うのです。この人は絶対来るから、と。なんという根拠のない独善!しかしながら気持ちのよい必死さ!

ビジネス書にかかわる人ならば石井裕之の名前を知らないお方はまずおりますまい。現役の人であれば。

最初にイベントをするのに場所をご提供いただけなくて、やっとリブロ東池袋店で石川さんという店長に快諾いただいてイベントに辿り着いたとき、開催前から本当に驚くような奇跡のようなセールスがはじまりました。

そのときに私が考えたことは「成功を逆算して販促を組む」ということでした。

でも本当はこういうことだったかもしれません。

「俺はこいつを信じ切って(Nのことですが)この人をなんとしてでも成功させる」

ちょっと恰好つけてますね。私はそんなタマじゃないかもしれません。

でも私とNでやったことの実績を考えればこれくらい書いても文句を言われる筋合いはないとも自負しています。

なにしろ、私たちは本当に必死にやってきましたから。

私は怒っています。私は悲しんでいます。私は失望もしています。

そのことはいまはここではおいておきますけれど。

とにかく私たちは必死にやってきたのです。

なんどか石井さんのイベントを手掛ける中で、小さな会場の中で会場の空気が震えていることをよく感じることがありました。

そこにいるだけで。もし何か無理くりに書くならば、「たましいのふるえる夜」。

私はリブロ東池袋のイベント時には会場の外の書店内にいることが多いのですが、正直、3回くらいはそっと勝手に流れてくる泪を拭うこともありました。

本当にこの人を二人で必死に売り出してよかったと。自分がそれに関わることができてよかったと。こんな成功、他人になんか経験させたくないものです。

私の最大の売りは「傲慢であること」です。

私は著者の前でよく言います。

「著者を換金することが私の仕事」だと。

だからこそ私は私の仕事には必死でありたいと思います。

私はときどき怠慢であることを隠そうとは思いません。

私がそれでも本気で仕事をする理由はこうした事情です。

私はよい手本になろうとは思いません。そんなことよりも私は私を裏切ることを怖れます。

私はそろそろ賞味期限であるかもしれません。

私はそれでも廃棄されるまではがんばるんだと思います。

私はその程度でいいのかもしれません。

まあ、私のことなんかどうでもいいので、これまでのことだってどうでもよかったかもですね。ながながとすいません。

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イベントを重ねる中で、何度かありがとうと手を握られたことがあります。

イベントを終えて、成功を感じて著者と握手を交わすことがあります。

私は誰かの成功に加担したく思います。

もしかしたらこの会場のどこかに、こんどのイベント会場のどこかに、昔の自分のようななにかのきっかけを待つ人がいるかもしれない。

私は便覧のような言葉は届けられないかもしれないです。

でも私はいま、目には見えない、耳に届く言葉だったら届けられます。

私の信頼する人間たちの言葉をお届けすることはできます。

いま私は願っています。

石井さんの声を届けたい。そう思って5年前の本のセールスについて必死に考えています。

9月、電車広告に5年前の本を掲載します。

私はここから本格的に自分を追い込みます。

いま私は石井裕之の声を一人でも多くの人に届けたく思っています。

なんでだろう、だからこんな文章を書きました。

御精読ありがとうございました。

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