普通の主婦の普通じゃなかった半生 8 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ
7からの続き。
いきなり身障者になってしまった私。
写真 モデルの仕事をはじめた頃、当時有名だったファッションアドバイザーの方と。
写真 モデルの仕事をはじめた頃、 これは写真館のモデルです。
美容師になって忙しく貧乏ながらも自立でき、友達や彼氏ともうまくいっていた矢先、また私に災難が訪れます。
美容院で帰られるお客さんを送り出しに外へ出た時のことでした。
ただ立っていただけなのに、いきなり左膝に力がまったく入らなくなりグラっとしてその場で転びました。
一緒に外に出ていたお店の人は「何してるの?」って笑いました。
私も最初は笑おうとしたんですが、転けた途端左膝に激痛が、それも半端じゃない激痛が走り、痛くて痛くてどうやっても立つことすらできません。
足にまったく力も入りません。
お店の人に抱えてもらってとりあえず店内に入り、座って休もうとしましたが曲げることも伸ばすこともできない痛みで、しばらくしても歩くどころか手を添えて痛みをこらえて曲げないと座ることすらできないし、なんとか座っても激痛が治まりません。
それでオーナーにお願いして近くの整形外科に連れて行ってもらいました。
初見でのお医者さんの話しでは膝のお皿のところがすごく腫れている。つかいすぎで水が溜まっているようだから抜きましょう。そう言われて太い注射器をお皿の下まで入れて溜まっていた水を抜こうとしたら、溜まっていたのは水じゃなくて血でした。
何回も何回も抜いたのですが、出血が止まらなかったみたいでキリがないほどで、お医者さんが溜まっていた血を注射器から出していたお皿みたいなモノは私の血液でいっぱいになりました。
どうしてそんなことになっているのかお医者さんにもわからなくて、とりあえずレントゲンを撮りましたが異常なし。
それで、その日は湿布をもらって帰って冷やしました。
でも、次の日になってもまったく膝の痛みは治まらず、自分の意思では曲げることも伸ばすこともできないままの激痛でした。
痛みは自分以外の人はわかりません。
大したことだとは誰も思っていなかったのでしょう。
そんな膝が痛いくらいで、とお店の人には言われましたが、はじめて私はお店を休みました。
オーナーも仕事で忙しく、二日も続けて病院に連れてって欲しいとは頼めず、私は自転車を片足でこいで、一人で病院に行きました。
診療は前の日とまったく同じで溜まっている血をただ抜くだけ。
その日もたくさんの出血がありました。
そして次の日になってもその次の日になってもまた同じ。
ただごとではないと思われた病院の先生は未成年だった私に、保護者の人にお話しがあるから一緒に病院に来て貰ってくださいと言われました。
オーナーに頼んで一緒に病院に行ってもらいました。
そこで病院の先生は私の左膝から出た大量の血液をオーナーに見せて言われました。
「レントゲンに異常は無いのに、こんなに長いこと大量に出血して止まらないのは血液の病気かもしれません。詳しくしらべてみないとわからないけれど、白血病の疑いがあります。大きな病院で検査してください。」と。
驚きました。
白血病といえば死の病です。
膝が痛いのに白血病?
それで、私はまた一人で今度は総合病院に行きました。
そこでも結果は同じ、レントゲンに異常なし、ただ血液が溜まっている。
原因不明。
でも白血病ではないのはわかりました。よかった。。。
何週間か寮の自分の部屋でじっとして回復を待ちました。
曲げ伸ばしが手を添えて激痛に耐えて無理にしないとできないままの状態。
トイレに行くのも松葉杖をついてでも大変で。
お店に出ていない私は食べ物も自分で調達しないといけません。
手伝ってくれる人は誰もいませんでした。
ただただ治るのを待って痛みに耐えましたが、何週間も過ぎても状態は改善されません。
一月が過ぎた頃、私はお店を辞めなければいけなくなりました。
いつ治るかわからない原因不明の足の病気で仕事ができない私を寮においておくことはできない。
それで私はお店を辞めました。
私が自立してから一度しか会っていなかった母のもとに戻るのは嫌でしたが、他に帰る場所はありません。
私は母のもとに戻らざるを得なくなりました。
その頃の母は化粧品のセールスをしていました。
膝が痛いといって戻ってきた娘を仕事が辛いから甘えていると思ったのでしょう。
相変わらず世話はしてくれませんでした。
でも、一月以上かかっても治らない膝の激痛。
私は彼氏に頼んで大学病院に連れていってもらい詳しい検査をしてもらうことにしました。
それまでのお医者さんとは違い、大学病院の先生は親身になってどこがどう悪いか?調べてくださいました。
検査には何週間もかかりました。
その頃はCTもMRIもありません。
単純撮影のレントゲンだけでは異常が見つからないので、膝がぱんぱんにふくれるまで注射器で造影剤を入れて、いろんな角度からレントゲンを撮りました。
レントゲンを撮った後は、また注射器で入れた造影剤を抜きました。
それから、膝を支える筋肉がどこまであるのか?を調べるために膝の周りに針を刺して電極をつけ電流を流し、正常かどうかを調べました。
ただでさえ痛む足にその検査は痛いどころじゃありませんでしたが、それで私の足がどう悪いか?がわかりました。
難しい説明はお医者さんじゃないとできないのですが、膝には太い骨が2本あります。
その内側の骨が私の場合曲げた時に外側の骨より突起していて、その上についている膝のお皿がかなり外向きになっている生まれつきの障害でした。
激痛の原因はお皿を支える靱帯も外側と内側では長さが違ってゆるくて、それで簡単にお皿が外側に外れてしまい、お皿が外れた時に膝の筋が切れてしまったり、軟骨が欠けてしまったりすることによる出血と痛みでした。
そして、膝の上太もも部分の筋肉も普通の半分の長さしかないということでした。
何万人に一人居るかいないか?というかなり珍しい障害で私の検査結果は学会で発表されました。
「治るんですか?」そう聞いた私にお医者さんはこう言いました。
「今の医学では膝のお皿の周りにグルっとメスを入れて靱帯を切断し、お皿を一度取り外してから突起している方の骨を削ってお皿をはめ直し靱帯をつなぎなおすしか手はありません。でも、その手術をした場合、リハビリに1年くらいはかかりますし、たとえリハビリをしたとしても歩けるようになる保証はありません。それと若いお嬢さんには酷ですが膝にケロイド状の傷跡が残ります。」そう言われました。
頭の中が真っ暗になりました。
でも、その後にお医者さんはこう続けて言われました。
「今は転んでお皿が外れた時に傷ついた筋と欠けた軟骨で痛みが激しいでしょうが、半年もすればそれは自然治癒します。そうすればまた歩けるようになります。ただまたお皿が外れれば同じことの繰り返しになりますが、医学は日々進歩しています。それにかけて様子をみますか?」と。
完全に歩けなくなるかもしれないリスクを抱えた大変な手術よりも、私は医学の進歩にかけることにしました。
それまで痛いのを我慢しての松葉杖だった私は、その診断から車いす生活になりました。
身障者として認定してもらい身障者手帳も貰いました。
まだその頃バリアフリー化されていなかった町での車いす生活は予想以上に大変なものでしたが、半年も我慢すれば歩けるようになる。それを希望に頑張るしかありませんでした。
彼氏は私が身障者になっても、変わらずそばに居てくれました。
母はそれほど心配した素振りも見せませんでしたが、後になって家の仏壇の引き出しから私が見つけた紙に母はこう書いてくれていました。
「厚子の足が軽くすみますように。」
気分屋で怒りっぽく私のことなどほったらかしで喜怒哀楽の「哀」を見せたことのない母。
意地っ張りの母が私のことを心配していてくれた。。。
私はその紙をみつけた時、声を上げて泣きました。
働けなくなった私の生活費は母が工面してくれました。
彼氏もバイトして稼いだお金を私のためにつかってくれました。
そして半年が過ぎた頃、お医者さんのおっしゃった通り、私は歩けるようになりました。
ただ、またお皿が外れれば逆戻りです。
4時間以上の立ち仕事禁止、スポーツは水泳以外禁止、走るの禁止、階段の上り下りも極力禁止、制限だらけの生活でしたが、私はまた歩けるようになったことがこの上なく嬉しかったです。
いつ、また歩けなくなるか?わからなくても。
美容師は諦めるしかありませんでした。
そして足がずいぶん良くなって来た頃、私は私にもできる仕事を探しました。
私は唯一の取り柄だった絵を描くことを仕事にしました。
グラフィック・デザイナーといえば聞こえはいいですが、広告やポスターや包装紙やケーキの箱などをデザインする地味な仕事です。
それと、プラスして地方モデルのバイトをしました。
それも、モデルといえば聞こえはいいですが、写真館の店先に飾る写真やカメラマンが写真展に出す写真のモデルや地方紙のモデル、岐阜放送の岐阜だけで放送されるCMのモデルです。一度だけ全国紙のファッション雑誌に載ったことがあるくらいのマイナーなモデルでした。
モデルの仕事は楽な割にギャラが良くて助かったけど、うまい話はありません。
頻繁にある仕事ではなかったです。
9へ続く。
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