震災が私にもたらした能力《第3話》ーそれぞれの震災ー

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それぞれの震災

震災から2週間程経った頃、高速道路が復旧されて実家に帰れることになった。

近所の大型ドラッグストアに行き、買えるだけのものを買い込んだ。

誰もが買い控えしている中で、たくさんの食料品やら日用品をカートに入れるのはとても勇気がいった。

これはうちの分じゃないんです。被災地に持っていくために買っているんです。

心の中で言い訳しながらカートに品物を押し込み、支払いを済ませてそそくさと店を出た。

家にはたくさんの見舞い品が届いていた。

東京でも流通の関係で食料などが手に入りにくくなっているというニュースをみて、全国の友人から食料や甥っ子たちに持っていって欲しいとお下がりの洋服などが送られて来た。


中には、家中の懐中電灯と電池、それから自分の実家と知り合いの家の物までかき集めて持って来てくれた人もいた。


それらを後部座席に詰め込み、トランクにはダルマストーブと帰りの分のガソリンを載せていた。事故にでもあったら一瞬でドッカーンだけれど、そんなことはまったく気にならなかった。


電気も水道もガスもないような所に子供たちを連れて行くわけにも行かず、実家へは一人で向かった。

東北へ向かう高速道路は、前も後ろも自衛隊の車とボランティアを載せたバスがほとんどだった。

なるべくガソリンが減らないように、エアコンも音楽もすべて消して無言で実家へ向かった。


何も知らせないまま実家に行ったので到着した私を見て、父も母もとても驚いた様子だった。


支援物資のお届けに上がりましたよ〜♪


わざとおどけて言ってみた。母の顔がぱっと明るくなった。父の顔も


「どうしようもねえ娘だ・・・」


と思いながらも、喜んでいるように見えた。

姉と甥っ子たちは、義兄の会社の社長の好意で埼玉の寮に身を寄せていた。

それは義兄の希望でもあった。酷い状態になってしまった故郷の姿を子供たちの記憶に刻ませたくはなかったのである。


実家は、電気と電話、水道がとまっている以外はなにも変わりがなかった。

私が到着すると、母はしゃべり倒した。

心の中に溜まっていた物を吐き出すかのように、ずっとずっとしゃべり続けていた。


それは親戚の家に行っても同じだった。

みんなずっとずっとしゃべっていて、私はそれをただ黙って聞いていた。

みんな話したいんだな、と思った。

自分たちがどんな目にあったかを。

何が起こって、今、どうなっているのかを。


親戚の家に行く道すがら通った海岸沿いは、ほとんどすべての家が流され、車がなんとか通れるようにがれきが脇に寄せられていた。

ちょっとでも運転を誤れば、タイヤがすぐにパンクしてしまうような状態だった。

ガソリン不足で、どこに行くにもみんな自転車か徒歩。どこに行くのか小学生ぐらいの女の子たちも歩いていたので車に乗せ、途中まで送ることにした。


大丈夫だった?

と聞くと、一人は

女の子
家が流されました・・・

もう一人は

女の子2
家が燃えました・・・

と答えた。情けないことに私は

そっか・・・

としか言えなかった。

同じ思いをしていない者が、この年でこんな思いをしている子供たちになにかを言えるとは思えなかった。


祖母の家で夜を過ごすという母を送っていく途中で、ガレキの残る冷たい川に入っている小学生たちの姿を見かけた。

何をしているのかと思ったら、白い息を吐きながらみんなで紅白の横断幕を洗っていた。

きっとこれから入学してくる1年生を迎え入れる準備をしていたのだろう。

火災の被害が一番激しかったこの地域で、一体何人の新一年生が入学することになるのか。その懸命な姿に胸が痛んだ。


祖母の家に行くと、祖父がいつものように座っていた。

もう耳がほとんど聞こえないので、ひと言ふた言声をかけて、あとは座ってまた母の話を延々と聞いていた。


山奥に住む祖父は沿岸部で何が起きたのか、実際にはみていない。

震災から2カ月ほど経った、5月5日。私の誕生日。

祖母のお葬式が執り行われた。遺体も見つからない、ガソリン不足で火葬することも、棺に入れてあげることも出来ない人が多い中で、そのすべてをしてあげられたことはとてもラッキーだった。



この時、ようやく祖父は津波と火災で壊滅状態になった街を見た。

若かりし頃、元気に自分の育てた野菜を売り歩いた町は、もうそこにはなかった。

ショックを受けた祖父は、家に帰ってからげえげえと吐きまくった。


祖母が亡くなってから、祖父は仏壇の前にぺたりと座り込んでなにやら話をしていることが多くなったらしい。何を話しているのかと近寄ってみると、祖母の遺影に向かって


「あんだ〜。どごに行ってしまったの?どごに行ったのっさ〜」


と弱々しく語りかけていたそうだ。

あの気丈でユーモアに溢れた祖父が・・・。

その様子を想像しただけで、涙があふれそうになった。



夜は、父と過ごすために実家に戻った。

父と2人きりで過ごすのは、物心がついてから2度目だった。何を話せばいいのか分からない。でも、父もぽつりぽつりと震災の話を語って聞かせてくれた。


地震発生時、父は家にいてすでに帰宅していた上の甥っ子と過ごしていたそうだ。

1年生だった下の甥っ子は、地震発生時にちょうど海岸の前を歩いていて、そのまま帰宅するか学校に戻るか判断に迷ったらしいが、結局学校に戻った方が近いと感じてすぐさま学校へと引き返した。


父が慌てて車を走らせ、小学校に着いた時には学校で点呼が取られていた。それを見た父は


「そんなことしてる場合じゃねえ!今すぐにでも津波がくるんだぞ!!」


と甥っ子を先生からひったくるようにして自宅に連れ帰った。

それから小高い山の上に登り、甥っ子たちとともに押し寄せてくる津波の様子を眺めていた。

甥っ子は父にしがみつきながら、


「オレ、まだ死にたくない」


とおいおいと泣いた。遠くから眺めていても、津波の恐ろしさが甥っ子たちに伝わったのだ。


夜は父と2人で洗面所にならんで腰掛け、湧かした山水を1つのバケツに入れて足をごしごし洗った。

暗闇の中、薄暗く光る懐中電灯の明かりだけが頼りで、その中で

たまにはこんな風に2人で並んで足を洗うのもいいね

とかなんとか言ったら、


「娘がいてくれて良かったな・・・」


とポツリと父がつぶやいた。その瞬間、

来て良かったんだな

と思えた。

私は、話をするのがものすごく苦手だ。というか、子供の頃から屁理屈が多すぎて、親に何度も


「屁理屈を言うな!!」


と怒られたので、どうせ屁理屈のひと言で片付けられてしまうと思って、いつのころからか親に何かを話すのが面倒になった。


だから、この瞬間、ちょっとだけ父と心が通い合えたような気がした。

それから2人で枕を並べて眠った。

寝てる間にも何度も大きな余震に襲われ、その度に飼い犬のジョンが心細そうに泣いた。


ジョンが泣くと、父はすぐさまに起きて行き、

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