普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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写真、私が撮った海。



母へ。



写真、東映時代劇女優だった頃の母。



母の子供時代〜母の女優時代〜両親の結婚まで。




母の女優時代。


私の母は昭和30年代、そこそこ名の知れた女優でした。

京都でスカウトされて東映京都撮影所の時代劇女優になりました。

美空ひばりさんや大川橋蔵さんと共演している写真やDVDが何枚か残っています。

とはいえ、テレビが各家庭に普及する前の古い話しなので、今となっては知らない人がほとんどだと思うけど、テレビの美空ひばりさん特集を見てると、今でも母がチラッと写ったりするので美空ひばりさんの特集番組はそれを楽しみに見たりします。

その頃は今のテレビのドラマを作るような感じで映画を量産していたらしく、美空ひばりさんと共演した作品は数え切れないほどあったと聞きました。

でも、母は美空ひばりさんを良くは思ってなかったみたいです。

なぜかというと美空ひばりさんに人気がありすぎて、母はいつも二番手で主演をはれなかったから悔しかったのでしょう。

その頃の東映時代劇は派閥があって、他の派閥の映画には出演ができなかったから、母の主演作は数えるくらいしかなかったと言っていました。

それでも、美空ひばりさんと母は仲が悪かった訳ではなく母の家に遊びにいらしたこともあるそうです。

美空ひばりさんのお母さんは有名なステージママだったので、母のお母さん、つまり私の祖母が作る家庭料理を喜んで食べてくださったと聞いています。

美空ひばりさんの歌はとてもすばらしかったと言っていました。

母も歌がとてもうまかったけど、彼女にかなう人は居ないと。

美空ひばりさんが亡くなった時、自分の青春が終わっちゃったと言っていたのをはっきり覚えています。

母が親交があった芸能人で美空ひばりさんと並んで有名な方は高倉健さんです。

高倉健さんの初めての結婚相手だった江利チエミさんとの恋愛中には、母が橋渡しをしたらしいです。

芸能人が表立って男女交際することができなかった当時、メールも携帯も無い時代に、ラブレターの配達や待ち合わせの伝言係などをしていたと聞きました。

高倉健さんは木訥とした感じに見えるけど、お茶目な人だったようです。

私はそんな話しを母から聞くのが好きだったけど、母は過去の栄光に無頓着な人で自分が女優をしていたことすら、ほとんどまわりの人たちに話さなかったです。

自慢めいたことはまったく言わない人でした。

なので、女優時代のことは娘の私ですら断片的に少ししか知りません。

私が小学校の低学年くらいまではテレビで母の出演している映画を何度も観たことがありますが、残念ながらあまり記憶にありません。

芸名は「吉野登洋子」Yahoo!やGoogleで検索すると出演作がいまだに出てきます。

それは、一般人で普通の主婦である私から見るとやはり誇らしいことです。

母は子供である私から見てもとても美しい人でした。



写真 美空ひばりさんと母。



写真 美空ひばりさんと母、美空ひばりさんの後ろ中央です。



写真 江利チエミさんと母、一番右が母です。雑誌「明星」の表紙。





母の子供時代、裕福だった家庭の崩壊。




母は大阪で映画館二つと芝居小屋を経営していた祖父母の五女として育ちました。

9人も居る兄弟姉妹の下から2番目です。

戦争がはじまるまではかなり裕福な家庭だったらしく、兄弟姉妹それぞれに乳母(お手伝いさん)がついていたそうです。

大阪の一等地の町内すべてが祖父の土地での何不自由ない暮らし。

母はそんな環境でわがまま放題に育ちました。

幼い頃のそんな優雅な暮らしは私の知る母の性格の元になっていて、いつまでも抜けきることはなく、どこか浮き世離れした感じは良い意味でも悪い意味でも母にずっと残っていました。

負けん気が強く、気分屋、プライドが高くて、人に厳しい。

その分、人を頼りにしたり甘えたりはまったくしなく、人扱いも上手で自分にも厳しい人。

だけど、裕福な暮らしはその後長くは続きませんでした。

戦争がはじまって奈良の田舎に疎開しているうちに映画館も芝居小屋も国の軍事施設としてつかわれ、戦争が終わった時は焼け野原になっていて、祖父や祖母と母たちが疎開から戻った頃にはどこからどこまでが自分の土地かもわからなくなっていました。

焼け出された人たちがすでに生活していて、お坊ちゃまだった祖父には手の打ちようも無く裕福な暮らしから一変し祖父母はすべてを失いました。

ただ、裕福だった頃に祖父母は母たち兄弟姉妹に楽器や日本舞踊や歌を習わせていたので、それが、「芸」が唯一の財産として残りました。

それで祖父は「吉野舞踊団」という女性だけの劇団を立ち上げ、日本全国を巡業しそれで生計をたてることを思いつきます。

映画館と芝居小屋を経営していた祖父には劇団を立ち上げるためのつてだけは残っていたのでしょう。

吉野舞踊団は今でいう劇団とは違ってとても華やかなものだったらしいです。

宝塚みたいなものなのでしょうか?

歌あり、踊りあり、お芝居あり、劇団員もたくさん居たと聞いています。

テレビが無い時代の数少ない娯楽、吉野舞踊団の旗が上がるとその町の人はとても楽しみに舞台を待ってくださっていたみたいです。

今でもこれだけの時間が過ぎても80歳以上の年配の方は覚えていてくださる方がいらっしゃいます。

母は女優としてスカウトされる前の少女時代も「吉野美人三姉妹」として衆目を集めていました。



写真、私が一番好きな若き日の母の写真です。


写真 一番右が私を妊娠中の母、一番左が父、父の右に居るのが祖父母です。




私の誕生、そして父母の離婚。





母はそんな非凡な環境で大人になり7年間の女優時代を経て、女優時代に知り合った父と結婚をしました。

父は東京の人でしたが、京都の立命館大学時代にエキストラとして東映の撮影所でバイトしていて、そこで母と知り合ったそうです。

父は撮影所の照明さんの偉い人と面識があり、その人に母との仲介を頼んで出会い、母が当時付き合っていた彼氏と芸者さんの間に隠し子が居たことで、(その当時は珍しくないことだったようです。)

たまたま傷心中だった母の心をするっとつかんだのが付き合うきっかけと聞いています。

ちょうどその頃、娯楽は映画からテレビへと移っていく時代で、東映の社員だった母は五社協定(東映以外の映画などに無断で出演してはいけない。)で女優を続けるか迷っていたようです。

母は女優を続けることよりも平凡な結婚生活での幸せを夢見て父と結婚しました。

少女の頃から芸事をし、人前に立ち、芸能界に長く居て、芸能界に疲れていたのかもしれません。

女優で居ることへの執着はまったくない人だったから。

結婚を機に母は女優をやめ、父と東京に移り住みます。

そして私を妊娠し、出産しました。

でも、それは母の思い描いた幸せな結婚とはほど遠いものだったのです。

逆にそこから母と私の苦難がはじまりました。

父はとても人が良い男性だったようなのだけれど、ものすごく女癖が悪かったのです。

私がまだ生まれたばかりの頃です。

こともあろうに父は母の妹と不倫関係になりました。

その時の母の心中を思うと娘である私が考えても同情します。

どんなに腹が立ったか、悲しかったかと思います。

父をなじることはできても、実の妹への嫉妬心はやり場がありません。

母の高かったプライドはズタズタに引き裂かれ地に落ちたでしょう。

人前で感情をあらわにしない凜とした性格の母です。

泣くことすらできなかったんじゃないかと思います。

でも、その時はまだ生まれたばかりの私のために、もう二度と会わないのなら。。。と許すしかなかった。

それがどれだけ辛かったかは容易に想像できます。

父と母の妹は母の前で、もう二度と会わないと誓ったそうです。

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