これまで話してきた「日本語教師になったきっかけについての話」は、実は本当でなかったという話

今まで日本語教師になったきっかけを「地域に住んでいる外国籍の人たちのお金に関する相談に乗っていたことから」と話してきた。これは僕にとっての「公式説明」で、何度もこの話を繰り返し話しているうちに自分自身もこの話を信じ込むようになってしまった。


全くの嘘ではないのだけれど、この話は厳密に言えば正しくない。確かに、南米からの日系人が多く住む故郷の町で、大規模な雇用調整が行われたときに車のローンの返済相談に乗っていたことはある。


余談だが、南米などインフレ傾向が強い国々では年々貨幣の価値が下がることが多い。だから、自分の財産を貨幣で蓄積するという発想がなく、給料が入ったらできるだけ高価なものに交換する。今持っている100万円は来年には70万円になるかもしれないから、お金が入ったときに100万円の車を買っておく。お金の価値が下がればその同じ車が来年は150万円になっているかもしれない。


これが彼らなりの生活防衛だ。だから、収入目いっぱいのローンも平気で組む。世の中がインフレなら、もちろんは借りれば借りるほどよい。どんどんお金の価値は下がるから。これを、当時も「ラテン系は消費傾向が強い」とか「享楽的で計画性がない」など揶揄する人たちもいたが、こういう感覚を理解できたのは僕がたまたまローンの返済相談に乗っていたからだと思う。


余談が長くなったが、とにかく、正直に言ってしまえば、当時金融機関に勤めていた僕が地域のボランティア教室の教師になったのはこのローン相談がきっかけではない。確かに、この時に日本語教師という仕事があるのだということを初めて知ったし、「みんなの日本語」という教科書があること、「月間日本語」という雑誌がある(あった)こともこの時に知った。


でも知るということと、それを実際にやってみるということには大きな隔たりがあるのではないかと思う。地域に日本語教室があって、そこにボランティア教師がいたとしても、それを見た人が自分もやってみようとはなかなか思わないのではないかと思う。


そのときの僕には自分の居場所がなかった。


当時の仕事にやりがいを感じているわけでもなく、何となく家族との折り合いもよくなかった。もちろん友達はいるのだが、とにかくどこにいても「しっくりくる」感じがしなかった。一体自分は何のために生まれて、何をして生きるべきか?頭の中ではいつもあの有名なアンパンマンの歌が流れていた。


言っておくが、その時の生活に特に強烈な不満があったわけではない。まあ、家族なんてそんなもんだし、仕事だって何をしても大変で、働き始めて3年が過ぎ我慢さえしていれば定年まで生活に困ることはないだろうと思っていた。でも、この決して満足でもなく、絶対的に危機的な状況でもない生活の中で、僕は自分の居場所を見出せないでいた。


学生時代はインドネシア語を勉強し、インドネシアを徘徊していたこともあって、地域の日本語教室でインドネシア語を聞いたり話したりすることがうれしかった。そして、ボランティア教師の中には明らかに自分と同じ空気感を漂わせている若者が数人いた。


居場所がない人が、自分が習っていた言語を使うことができて、さらに日本語を教える真似事をして「先生」と呼ばれ恥ずかしながらもまんざらでもない気分にさせてもらえる。さらに、まわりには同じような空気感を出している仲間が近くにいて、妙にウマが合う。これではどっちがボランティアなのかわからなかったなと自分のことながら思う。


当時の友達がたまたまおもしろがってボランティア教室を見に来たことがある。彼は僕の様子を見てこう言った。


「なんか、オマエ気持ち悪い。」


でも、それでもよかったと思うし、今でもそう思っている。世の中はいろんな人がいろんな動機でいろんなことをしていると思うけど、それを他人がとやかく言わなくてもよい。そんなおせっかいな世の中はごめんだ。どこでどんな動機で何をしていてもよろこばれればそれでいいのだし、迷惑ならそのまま迷惑がられたときにその本人が考えればいいと思う。


「・・・であるべき」ことなんて、実はこの世の中には全然ない。


とにかくこのボランティア教室は本当に居心地が良かった。協会の職員さんも、ボランティアの仲間(同じ空気感を出していない若者やシニアの方々も含めて)も、「学習者」と呼ばれるインドネシアの研修生たちも、そして厳しいローンを組んでもあっけらかんとしているラテンな人たちも。地域のボランティア教室の人たちはみんな本当に温かかった。


不登校の外国籍の子どもたちが日本語も教科の勉強なんかもぜんぜしなくて、大騒ぎしてほかの人の邪魔ばっかしてシニアのボランティアの人に本気で怒られても、なぜかまた集まってきちゃう。そんなところだった。


こんな仕事なら一生の仕事にしてもいいなと思った。


そして、この世界に入って10年以上が経つ。外国にも行ったし、大学院でいろんなことを考えたりもした。日本語教育の専門家と呼ばれるような仕事もしてみた。そこでいろんな人に会って、今もそうだけど、だいたい楽しい思いばかりしてきた。


しかし、僕は自分の居場所を見つけられたのだろうか?


これだけはいまだに自信がない。

著者のMatsui Takahiroさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。