10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(5)

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(8/24タイトル変更しました)

がん告知以来、電話だけでなく、何通も手紙が届いた。それまでも、私はずっと友達には恵まれてきた。幼なじみ、学生時代の友人、社会に出てからの友人、更に結婚以来、転居が多かったこともあり、引っ越した先々で友達が出来、助けられてきた。ガンを告知したことによって友人たちの励ましは輪は大きく広がった。本当に心強かった。

 

友人たちにガンを告知しまくってしまった私も、逆に近所の人には気付かれたくないという思いがあった。親しくしているママ友3人にだけこっそり伝えた。病気が病気だけに驚くのも無理ない。「でも大丈夫!」信じたくないという顔でそう言われた。大病を乗り越えてきているママ友の声はとても重みがあった。

 

娘が幼児教室に通っていた時からのママ友K子さんは本当に面倒見の良い人で常々世話になっていた。私が転居したため車で40分ほどの距離になってしまったが、それでもよく車を飛ばして来てくれた。その前年に40代の知人が2人もガンになったということで「頑張り過ぎてるみたいだからくれぐれも注意してよ!」と何回も言われていた。そう言われても「私は大丈夫!」という過信があった。忠告を聞いておけば良かったと後悔した。

 

彼女が早速送ってくれたのが、綾小路きみまろの本と鎌田實の新聞記事だった。きみまろのネタは本当に笑えた。「人間の死亡率は100%」というフレーズには心から励まされた。ガンになった自分が不幸みたいに思っていたこと自体が恥ずかしく感じられた。医師である鎌田實の記事には「ガンと付き合っていくためにいかに笑いが大切か」と言うことが書かれていた。鎌田實のことはなんとなく知っているという程度だったが、この記事をきっかけに鎌田實の存在は私の心の支えとなった。

  

「ガン」と言う言葉の威力は余りにも凄かった。Y子は職場で隣の席になって以来、4半世紀も仲良くしてきた。笑いのツボが一緒だと彼女はいつも言っていたが、本当に話せば笑いの止まらない中だった。息子を帝王切開で産んだときには病院に泊り込んで世話してくれた。まるで姉妹のような間柄だった。冗談好きの彼女は良くこんなことを言っていた。「お互い死んだら悲しいからそうなる前に縁を切っておこうかな~」元気だからこそ言える冗談。それが冗談ではなくなった。後から聞いたが彼女はあまりのショックにストレスから呼吸困難を来たし、携帯用酸素を吸う派目になっていたのだ。本当に申し訳ないことをした。

 


大学時代からの友人S子は奈良に嫁いでいた。しかし、実家が私の家から電車でそう遠くないこともあって、上京する度に顔を合わせていた。彼女からも心のこもった手紙が届いた。「〇子が病気に負けるわけがない。いつも元気印の〇子だもの。だから、もう泣きません。共に病気と闘います。」と力強く宣言してくれた。しかも「他の仲間にも声をかけて入院の前に励ます会を開くから」と言うありがたい提案が書いてあった。わざわざ上京してもらうことに申し訳ない気持ちはあったが、みんなに会って勇気をもらいたい。素直にそう思った。


 

ガンと聞いて、電話口で泣き出してしまったTさん。娘を出産したときに同室だった縁で20年以上付き合いがあった。4人姉妹の末っ子である彼女は私より年上だったが、妹のようにいつも甘えてきた。特に用がなくても電話してくるのが日課だった。告知後も電話は毎日かかってきた。「100歳まで生きなくちゃいけないんだからね!」5年生存率云々と言われるガン患者に100歳と言う数字は的外れに聞こえた。しかし、毎日呪文のように「100歳、100歳」と言われているとその気になってきた。電話が待ち遠しくなっていた。

 

 

学生時代の友人T子はご主人を前年に亡くしたばかりだった。入院されていることを知ってお見舞いに行こうとした矢先に訃報が入り、後悔した。なんの力にもなれなかった自分が告知して良いものか?彼女に告白するにはためらいもあった。しかし、万一のことを考えれば伝えるべきと思い打ち明けた。彼女自身、体調を崩していると聞き。自分の経験を話し、受診を勧めた。50代、がん年齢である。改めてそう思った。

 

ずっと友に支えられてきた人生。生きるか死ぬかと言う場面において遠慮はしていられない。勝手にそう思った。友に甘え、病に立ち向かうしかない。「何とか助かって欲しい」と言う友たちの思いは痛いほど伝わってきた。本当にありがたいことだった。

 

大学時代からの友人であるN美は在学中からお母さんのような存在で、娘が2歳になる前に私が母を亡くしてからは文字通り母のようにいろいろ気遣ってくれた。3人の子育てを経験している彼女からは学ぶことが多かった。

 

私がガンであることを知った彼女から「気功所」行きを勧められた。彼女自身も子宮筋腫以来かかっていて体調が良いので是非体験して欲しいと言う電話だった。わざわざ休みを取って引率してくれた。私としては「なんだか分からないが、とりあえず行ってみよう」そんな感じだった。

 

気功所は都内ターミナル駅から程近い薬局の3階にあった。畳の部屋で不思議な雰囲気が漂っていた。気功の先生はざっくばらんな感じの人で、親切な対応だった。首の角度を測ったりして気を当てる部分を探しているのだろうか。全てが初めての経験で、少し怖い気もした。それでも友人が付いていてくれたし、折角良いと勧めてくれているのだからと素直に対応した。

 

最後に気功の先生は私の両手を軽く握ると、恐怖に歪んだ表情で「見えちゃってるんだよね~」と口走った。N美から「気功の先生は霊感もあるのよ!」と聞かされていただけにぎょっとした。しかも、その怯えたような表情が余りにも気味悪くて引いたが、『神社で大丈夫と言われているんだから大丈夫だ』と自分に言い聞かせた。

 

気功の先生は突然、「何年生きたいですか?」と聞いてきた。人間と言うのは不思議なもので、進行ガンを宣告され、なおかつ「見えちゃってるんだよね~」と言う言葉の威力で完全にマイナス思考に傾いてしまっていた。何を思ったか私は「あと2年は生きたいです。」と言う信じられない控えめな数字を口にしてしまった。「2年で良いんですか?」念を押された。私は「じゃあ5年」とまた控えめな数字を口にしてしまった。「ほんとに5年で良いんですか?」再び念を押された。「いやもっと・・・」思わず笑ってしまった。気功師も友達も笑ってはいなかった。

 

私はこの気功所に来たことで、「余命宣告」の恐ろしさを疑似体験することが出来た。これが、もし、がんセンターの中だったら?そう思うとぞっとした。『がんセンターでの余命宣告は断固拒否しなければ!』この時そう心に決めた。

 

結局、気功所には2回しか足を運ばなかった。入院が迫っていて時間がなかったということもあったが、余命宣告を疑似体験してしまった場所に行くことにかなり「拒絶反応」があったからだ。それが証拠に3回目は駅から僅か5分の道のりを迷いに迷って40分歩いてもたどり着けなかったのだ。拒絶反応が酷すぎた。

 

しかし、今思えば、ここでの恐怖体験は間接的には私の命を救ってくれたことになったと思う。なぜならば、ここでの体験がなければ、がんセンターでも一方的に「余命宣告」を受けてしまい、「抗がん剤やれば2年、やらなければ半年」と言う決まり文句を素直に聞いていただろう。結果的にN美の友を思う気持ちが良い結果を導いてくれたのだ。「感謝」の一言である。

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