雑誌を作っていたころ(26)

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営業部へ異動


 ぼくは出戻りの「ドリブ」編集部で日々を過ごしていたが、社長の馬場さんは悩みを抱えていた。学研から広告と営業を独立させ、広告部は奥薗さん、石川さん、宮木さんの三人体制で景気よく回っていたが、一方の営業部が今ひとつだったからだ。

 営業部には学研グループの立風書房から元常務の吉原さんを迎え、新人の倉田くんと二人の体制だったが、定年退職者と新人では年齢差がありすぎて、組織の体をなしていなかった。

 馬場さんは「月刊太陽」の編集長になる前は、営業課長だった。平凡社という会社は、職種に関係なく異動させるところで、編集と営業を両方経験するのが当たり前だった。ところが吉原さんも倉田くんも編集経験がない。馬場さんは編集者の誰かを営業に投入したかったのだ。

 とはいいながら、小さな会社では本人の意に反した異動を命じて辞められてしまうと、補充が大変だ。それで悩んでいたというわけだ。それがわかったとたん、ぼくはなぜか「ここらで営業を経験しておくのも悪くないかな」と思った。それはいかなるインスピレーションだったのか、今でもよくわからないのだが、なぜかそのときはそう思ったのだ。


「馬場さん、よければぼくが営業に行きましょうか」

 と口にしたとき、よほどびっくりしたのだろう。馬場さんはお茶が変なところに入ってしまい、激しくむせこんだ。そして咳がおさまっても、しばらく人の顔を見たまま、黙っていた。やがて、目をぱちぱちさせながら、「本当に、いいのか」といった。

 ぼくが本気ですがというと、「そうか。それはありがたい決断だ。うん、ありがたい」と、半ば独り言のようにつぶやき、すぐに吉原さんを呼んだ。

「明日から山崎くんを営業に回す。対外的には営業部長ということにするが、実際は見習いなので、営業の『いろは』から促成培養で教えてやってください。取次や主要な書店への紹介もよろしく頼みます」


 吉原さんは男気のある温厚な人で、人望もあった。ぼくは平凡社時代の研修で、出版営業の原理原則は教わっていたが、細かいところはすべて吉原さんから教わった。「歩戻し」などという複雑怪奇なルールは、編集だけやっていたら知らないままで終わっていただろう。返品になった雑誌を古紙回収業者に回し、一部をバックナンバー用に戻させる手続きなども、このとき教わった。

 それからは毎日、「吉原学校」での個人教授となった。本の流通経路を細部まで把握し、取次との交渉の仕方、売上管理の方法、在庫の棚卸しなど、毎日が新鮮なことの連続だった。ぼくは吉原さんが手書きでファイリングしていた書類を預かり、すべてMacのファイルメーカープロに入力して、営業データベースを作った。売れていると思った雑誌がそうでもなかったり、売れていないと思った雑誌が意外な利益を出していた。作る一方ではダメなんだと、今さらながら思い知った。


 取次との部数交渉は、倉田くんとぼくが二人で行くことになった。高齢の吉原さんにとって、月に二回、取引のある取次すべてを回るのは、かなりの負担だったのだ。最初は吉原さんと一緒に行ってもらい、「うちの営業部長です。よろしくお願いします」と紹介されたが、実力に見合っていない肩書は、面はゆいばかりだった。

 部数交渉は、別名「部決」ともいう。月刊誌は毎号、取次と交渉して搬入部数を決める必要があるのだ。売れていれば部数を増やしてくれるし、返品が多くなれば削られる。出版社の営業部員の仕事は、そのときに部数が増える方向で交渉することだ。編集部から吸い上げた情報を提供し、「売れそう」と思わせるのがコツとなる。

 青人社はトーハン、日販、栗田、大阪屋、中央社、太洋社、協和の取次7社と、鉄道弘済会、たきやま、東京即売、東都春陽堂、啓徳社の即売5社と取引していた。これらを「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の発売2週間前に回って部数交渉するので、月に2回訪問しなければならない。トーハンと太洋社、大阪屋は江戸川橋、日販は御茶ノ水、栗田、中央社は志村坂上、協和は板橋本町という具合に訪問先は分かれているので、即売も入れると1誌の部決には3、4日はかかる。ぼくらはそれを「部決週間」と呼んでいた。つまり、月のうち2週間は取次回りで潰れてしまうのだ。


 部決に行くといっても、特に相手先の予約を取るわけではない。次号の企画書を持って、勝手に取次の雑誌仕入れ窓口に行って並ぶだけだ。運が悪いと何十人も先客がいて、たっぷり何時間も待たされたりする。予約制でない医者と同じだ。自分たちの番が来ると、担当者の前に座って、社名と誌名、雑誌コードを言う。すると担当者は端末を叩き、販売実績表を呼び出して、仕入れ部数を増やすか、据え置くか、減らすかを考える。多くの場合は据え置きだ。

 雑誌の売れ行きが芳しくないと、仕入れ担当者の顔つきが険しくなる。

「うーん、弱りましたね。ここのところ、全国的に落ちていますよ」

 などと牽制される。こっちもだいたいの様子はつかんでいるから、

「そうなんですよ。そこで次号からはこんな新連載をスタートさせます」

 と部数を減らされないためのトークを展開することになる。

 それでも減らされてしまうと、部決の足取りは重くなる。ひとつの取次で減らされるときは、たいてい軒並みダウンとなるからだ。トーハンで減らされ、太洋社でも減らされると、次の大阪屋は死守したい雰囲気になる。それがうまくいくと、志村坂上の2社でもがんばろうと意気込み、栗田で据え置き、中央社で微減みたいな結果となる。取次全体で1万部落としたりすると、なんとか即売で挽回できないかと死力を尽くす。


 取次は基本的に書店とコンビニだが、即売は販売ルートが違う。鉄道弘済会はキオスク全店、あとの即売4社は雑誌スタンドや中小コンビニ、私鉄系の駅売店が販売拠点だ。だから書店の売り上げが落ちていても、即売系は逆に伸びていたりする。そのために、取次で減らされると、即売に力が入るのだ。

 すべての部決が終わると、合計部数と取次・即売別の搬入部数内訳を作成し、印刷所に渡す。その作業をしていると、社長が様子を見に来る。

「どうだい、部決は」

「厳しいですねえ。トーハンで5000減らされました」

「合計は」

「即売で積んでもらったので、3000ダウンです」

「そうか、編集にハッパをかけないと、いかんな」

 雑誌を出している出版社は、基本的に編集部門以外は黒子である。しかし黒子同士は連帯していて、こちらが本当の会社みたいなものだ。営業に移ってみて、そのことが身に染みてよくわかった。


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