雑誌を作っていたころ(29)

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社長の死


 一時退院していた馬場さんは、また容態が悪くなって再入院した。さすがに本人も、ただの食道潰瘍ではないと気づいたらしい。病院に見舞いに行っても、むっつりと不機嫌でいることが多くなった。


 主治医の先生に話を聞いた。

「もう食道が99%腫瘍でふさがっているんです。しかも食道壁の裏側から他の臓器に転移していて、肺と胃に新しいガンができています。肝臓にも転移が始まりました。転移がなければ食道を切除してしまい、胃を細く伸ばして喉につなぐ方法で延命できたのですが」

 ぼくは思い切って聞いてみた。

「抗ガン治療とかは、どうなんでしょう」

「いずれにしても手遅れですね。食道ガンは自覚症状が出たときがギリギリのタイミングなんです。喉が通りにくくなったと思ったときには、すでに80%くらいふさがっていますから」


 食道がふさがっていると、文字通り食べものが喉を通らない。点滴だけでは体力が弱る一方なので、栄養のある流動食を胃に直接送り込むためのバイパス手術が行われることになった。本人には「腫瘍を取るため」と説明してある。

「やっぱりガンだったんだ、でも手術で治るんだ」と思ったせいか、馬場さんは目に見えて明るくなった。しかし、バイパス手術をすると声帯が失われてしまうので、話ができなくなる。そのために、ぼくは小さなホワイトボードを買ってきた。

 バイパス手術の後、最初に面会に行ったら、馬場さんは意外に明るかった。手振りで「ホワイトボードを渡せ」と命じている。すぐに手渡した。すると読みにくい字でこう書いた。

《間違っていた》


「なにが間違っていたのですか」とぼくは尋ねた。

《血液型》

「輸血でなにか問題が?」

《ちがう。O型だった》

「馬場さんはA型じゃなかったんですか」

《O型だった。50年以上もA型と思って生きてきた》

「そうだったんですか。社長は太っ腹だから、やっぱりO型らしいですよ」

《良かった。うれしい》

 それほどまでにA型なのがイヤだったのかと半ば呆れたが、いずれにしても機嫌がいいのは結構なことだ。すぐに、同行した大浦くんと次号の「おとこの遊び専科」の企画説明をする。案の定、全部OKとなった。


 そのとたん、ものすごいうめき声がした。びっくりして馬場さんの顔を見たら、彼も驚いている。うめき声の主は隣のベッドだった。あわててナースコールのボタンを押すが、なかなか返事がない。うめき声はどんどん大きくなり、今にも死にそうに聞こえた。

 やがて看護婦さんがやってきて、何か処置をしたらしい。うめき声はおさまった。ほっとして振り返ると、さっきまで馬場さんの横にいた大浦くんの姿がない。廊下に出てみると、彼ははるか彼方に逃げ出していた。顔色が真っ青だ。

「オレ、ああいうのダメなんですよ」

「だけど慣れないと。これからぼくらは、もっとすごいことを経験するかもしれないんだから」

「そうでしたね。もう逃げません」


 それから2カ月。毎日慶応病院に通ったが、馬場さんは日に日に衰弱していった。ぼくはお見舞いに来る要人たちの相手をしたり、馬場さんと筆談で昔話をしたりして時を過ごしていた。「その日」が刻一刻と近づいている感覚は、なぜか現実感を喪失させていた。

 病院から広尾の会社に戻ると、外出していない社員が全員集まってくる。社長の容態を聞くためだ。細かいことを説明しても仕方がないので、アウトラインだけを話すように努めたが、要するにみんな心配なのだ。「これから自分たちはどうなるのか」。それは誰にもわからなかった。


 さすがにここまでくると親会社に秘匿しておくわけにはいかなかった。幹部たちと相談した結果、しかるべき人から最適な方法で伝えてもらうのがベストという結論になった。ぼくは馬場さんと仲の良かった販売局長の中山さんと、編集総務部の西島さんに連絡した。

 2人とも驚いていたが、それ以上に事態の深刻さを察したのか、黙りこくっていた。学研と青人社はかつての蜜月時代のような関係ではない。学研の創業者である古岡オーナーが亡くなり、そして馬場さんまでいなくなってしまえば、青人社はお荷物扱いされてしまう。東証一部上場企業となった学研の立場から見れば、いくら稼いだところで「おピンク雑誌」を出している関係会社があることは迷惑なのだ。


 その関係会社のボスがいなくなり、後継者が育っていないとなれば、イヤでも学研が面倒を見ざるを得ない。解体してしまう手もあるが、そうなると社員をどこかの部署が吸収しなければならなくなる。かつて営業部と広告部を作って独立したときの話が、ふたたび繰り返されるわけだ。だから学研から見れば、馬場さんの健康問題よりも「青人社をどうする」という問題の方が大きかった。

 中山局長はぼくにこういった。

「君が社長をやれればいいが、そういうわけにもいかないだろう。なにか考えはあるのか」

 ぼくは正直に答えた。

「ぼくらは雑誌作りの職人でしかありませんから、経営のことはわかりません。ただ、青人社が学研にとって迷惑な存在であることは知っています。たとえば学研をリタイヤした幹部の方が引き受けてくださるという案はどうでしょうか」

「わかった。上の人たちと相談しておこう」


 それから数日後、病室に行くと馬場さんは眠っていた。修道院でシスターをしているお姉さんが来ていて、「夕べは大変だったのよ」という。夜中に馬場さんが目を覚まし、手振りで歯磨きをしたいと伝えたそうだ。前にも書いたが、馬場さんは歯磨きには特別な執着があるのだ。

 ところが、歯磨きの最中に突然表情が変わり、壁を指さして「いやいや」をしたらしい。そして、子供のように怯えて、がたがたと震えだしたのだそうだ。まるで、何か怖いものが壁に出現したかのように。それを家族総出でなだめ、やっと寝かしつけた。だから、そっとしておいてほしいのだという。

 ぼくはオカルト信仰者ではないが、ある予感に胸がふさがる思いがした。ちょうどそこにトーハンの元役員が見舞いに来たので、談話室で話をし、玄関まで送っていった。病室に戻ろうとすると、部屋の中がざわついている。奥さんが出てきて、「今、亡くなりました。安らかな死でした」といった。

 予感が現実になったわけだが、不思議と何も感じなかった。これから待ったなしでやってくるはずの、現実世界のいろいろな出来事が、猛烈な圧迫感でぼくを締め付けてきた。


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