雑誌を作っていたころ(36)

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悪あがき出版


 資金源である「ワールドマガジン社」を失った青山氏は、青人社の経営に没頭するようになった。年商10億円程度の零細企業なのに経理をオフコンで処理しようと考え、長い間青人社の経理を仕切っていた大江さんというおばちゃんをクビにしてしまう。「コンピュータが使えない人には、用がない」というわけだ。

 だが青人社のことを隅から隅まで熟知していたベテラン経理マンを辞めさせ、代わりに公募で採用したのは旭屋書店にいたことがあるという中年男性だった。要するに、会社を自分のカラーに染めていきたいという青山氏の意思があらわれはじめたということだ。


 入れたのは東芝のオフコンだったが、ぼくは余禄でノートパソコンと携帯電話をもらった。「いくらなんでも社長の独断で、相見積りもとらないで決定するのはまずいだろう」と考え、同級生に電話してカシオからも見積りを取ったため、東芝のセールスがぼくを懐柔しようとした結果だ。ちなみに、この同級生というのは、このストーリーの第1話で登場した広告研究会の仲間、西村である。彼は今、福岡でコンサルタントをやっている。


 サテライトプロというそのノートパソコンは、ぼくにとって初めて触るウインドウズ95機だった。ウインドウズ3.1のパソコンは、オリベッティのマシンを借りて使ったことがあったので、経験があったのだ。初めて使うウインドウズ95は、Macと違い実務的で色気がなく、それなりにおもしろかった。

 携帯電話はドコモの安いやつ。ノキアの端末だった。のちに「シティホン」と呼ばれ、やがて消滅したPHS的な携帯だ。しばらく使っていたら、携帯電話のショップを経営している先輩がやってきて、「そんな筆箱みたいな不格好な携帯は使うな。東京デジタルホンの格好いい箸箱にしろ」と、半ば強引に替えさせられてしまった。おかげでぼくは、それからJフォン、ボーダフォンと名を変えたが、今もソフトバンクのユーザーである。


 青山さんは企画にも首を突っ込むようになった。ただし、業界については素人であるため、企画会議では発言しない。言うことを聞きそうな社員を一本釣りしては、そいつに因果を含めて自分の意思を通そうとする。おかげで職制のピラミッドや企画会議は意味をなさなくなった。会議で決まったことが、いつの間にか覆されていることが多発した。

 あるとき、おかしな単行本の企画が進行していることを察知した。インターネットでかき集めた笑い話をまとめて、コンビニを中心に売ろうとするものだった。急にそんなことをやろうとしても、面白いものができるはずもない。コンビニで売るからには、それなりの戦略が必要だ。

 なぜかというと、コンビニで売ると決まった場合、1店舗に平均3冊配本されるため、扱い店舗数の3倍の初版部数が必要になるからだ。もしセブンイレブン、ローソン、ファミリーマートなど主要コンビニすべてが扱うとなると、初版は10万部に達してしまう。売れなかったら、大赤字だ。

 企画は、青人社のイエスマン社員と、旧ワールドマガジン社の残党とでまとめられていて、ぼくが口をはさむ余地はまったくなかった。おそらく「うるさいから山崎を入れるな」と言われていたのだろう。青山さんは人脈をフル活用して、毎日のようにコンビニ本部にセールスに通っている。危機はどんどん近付いていた。


 旧態依然の業界に新風を吹き込むのは悪いことではない。取次任せにせず、コンビニ本部を直接攻略するのも良いアイデアだ。しかし、それで売り込んだ本が惨敗したら、やったことがすべて裏目になる。次に本当に売れそうな企画が生まれても、コンビニ本部はもう耳を貸してくれないだろう。

 ぼくはそのことをくどいくらいに青山さんに警告した。だが、それに対する返事は「だから君たちはうまくいかなかったんだ」という言葉。ビジネスの仕組みの中では正しい行動、正しい動きなのかもしれないが、コンテンツビジネスの根幹をわかっていない人にそのことを理解させるのは難しい。天動説を信じている人に人工衛星の仕組みを教えるようなものだ。

 ここに至って、青人社の中に「このままでは危ない」という空気が漂い始めた。どうやって軟着陸させるか。そのための非公式な会合が、毎日開かれるようになった。


 一方、ピンチに直面した青人社の頭痛の種は、看板雑誌の「ドリブ」であった。部数が出ていないのに妙に一流誌風の編集にこだわり、湯水のように取材費を使う編集部は、会社にとって放蕩息子のようなものだった。ある日、青山さんはドリブ廃刊を宣言しようとしたが、そこに立ちはだかったのは大浦くんたち「おとこの遊び専科」のスタッフだった。

 彼らの言い分は、「廃刊にするならその前に自分たちにやらせてほしい」ということだった。ずっと日陰の存在に甘んじ、会社に利益をもたらしてきたのだから、最後は日の当たる場所で思い切り暴れてみたいというわけだ。ぼくはその意を受け、青山さんから半年間の猶予をもらった。


 かくして大浦くんは嵐山さんから数えて8代目の編集長に就任し、「最後の大暴れ」が始まった。表紙とメイングラビアは篠山紀信氏、アートディレクターは長友啓典氏でデザインはK2。連載陣は中田潤、カーツさとう、杉作J太郎、いしかわじゅん、みうらじゅん。「羊の皮をかぶった狼」ならぬ、「血統書つきのふりをした野良犬」であった。

 編集費は創刊時の6分の1。できるだけ外注せずに、手作りでページを練り上げる。たった8カ月だったが、彼らは思う存分に暴れてくれた。もし1年待っていたら、きっと黒字にできたことと思う。しかし「ものづくり」のわからない社長は「期限が来たから」と、無情にも廃刊の断を下した。


 最終号は通巻197という中途半端な数字で終わった。200勝まであと9勝に迫りながら名球界入りを逃したヤクルトのエース松岡弘を思い出した。

 最終号のセンターページには、スタッフの記念写真を掲載した。篠山さんが「どうせなら卒業写真を撮ろう」と言い出して実現したものだ。3代目編集長の渡邉さんほか、雑多なメンバーが写っている。ぼくもなぜかスーツ姿で混じっている。このころはいろいろな会社に「青人社の身売り」を打診して回っていたので、こんな恰好をしていたのだ。


 最終頁には「みなさんさようなら。私たちは幸せでした」というメッセージが掲載された。ここまで堂々と読者に別れを告げて消えていった雑誌は他に類を見ないだろう。連載もすべて最終回であることを意識して書かれていた。史上最高の廃刊号であったと思う。


 こうして青人社の看板雑誌はその役目を終えた。ぼく自身も、もはや会社に居場所がないと感じていた。





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