裏切りの美学
そういえばこの前、彼氏に振られて凹んでる子に奢り目的で飲みに連れて行かれた時の話し。
「裏切られた」というワードが何回か出てきて、その時は半分聞き流して「わかるわかる」と共感してるフリをしていたが(笑)
ふと、「裏切り」ということについて引っかかることがあったので書いてみます。
まず、「裏切り」が発生する前には「信じる」ということが必要。
「裏切られた!」感が高いということは、その分「信じていた」度合いが高いということ。
当たり前といえば当たり前だけど、なんだかよく考えると「幸せだなあ」とふと思った。
振り返って考えてみると僕の20代はまさに「裏切られ続けた」20代だった気がします。
稼いだお金は吹っ飛んで。
ほぼ実現可能だと思われた目標も未達成で。
そういうマイナス面だけにフォーカスすると生きてるのが不思議なぐらいの闇です。
でも、不思議と「裏切られた」という感覚はあまり無いんですよね。
たぶん客観的に見ると「裏切られた」という見方になると思うんです。
なんていうか、20代半ばごろに行き着いた結論が「期待は半分」という感覚なんです。
人間なんて、自分のことすら100%理解できてないし、まして他人なんて10%も理解できない。
そういう前提で考えると、そもそも「裏切る」ということ自体がもともと無いような気がします。
分かりやすく冒頭の彼女と元彼で考えてみると
彼女⇒彼氏と付き合い続けて理想は結婚したい
元彼⇒もともと長く付き合うつもりは無かった
だったとすると、元彼の行為は裏切りでもなんでもなく、予定通りのシナリオだったことになります。
それを彼女に「裏切り」だと感じさせるのは元彼がヤリ手だったということ。
なんだか書いててすごい闇なんですが、その「裏切り」と「予定調和」のバランスをうまく使うと面白いな、と。
自分は相手の「予定調和」の10%も見えていないのに、そこに期待しても仕方ないな、と。
僕はそんなドライになってしまったので、「信じてたのに!」みたいな淡い感覚って幸せだなあ、なんてふと思った次第です。
若いうちはいっぱい「信じて」みて、「裏切られて」みて、素敵なオトナが増えてほしいなあ、と思いますよ。
・・そんなどの立場からお前が言ってるの?ということで締めます。
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