名前のない喫茶店 ~南雲さんの自分らしさ~

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南雲さんは、珍しく席を立とうとしなかった。

いつもならコーヒーを飲んで背伸びをした後、さっさと準備をして、中さんに一声かけて、颯爽とドアを開け、仕事に戻るはずだった。

でも、今日はそんな気分にはなれなかった。今日はなりたい自分になれない。雨のせいか、とも思ったが、違う気がした。何かが気になっているのだ。

取り立てて問題はなかった。

仕事も順調だし、待遇にも不満はない。忙しいけれど、何より楽しい。休日には、いつも何かしら予定があって、友達もたくさんいる方だと思う。1年ほど付き合っている彼氏にも、取り立てて文句はなかった。最近始めたヨガにもはまりつつある。

どこを見渡しても、自分が何か欠けているようには見えなかった。彼女は窓から雨の空の向こうを見ようと目を細めた。今日は一日雨のようだった。


「コーヒーお代わりする?」

中さんがポットを持ってやってきた。

「中さん、ありがと、おねがーい」

南雲さんはいつもの笑顔で返したつもりだったが、それは自分でも少しぎこちない気がした。

「今日はずっと雨だね」

「そうなのよ。お仕事はいつも通りなのに、天気は勝手なものね」

「今日も忙しいの」

「これからがシーズンなのよねー。新入社員のマナー研修やら、新しい管理職の評価方法やらね。出張も多くなるわ」

「みんな新生活なんだね」

「あ、中さん?」

「うん」

「私ってもう一人前の社会人かしらね」

「そうだと思うよ。誰が見ても、肩で風切るキャリアウーマンって感じさ」

「そう?いつもそうありたいと目指してきたわ。目の前のことは何でも一生懸命やってきた。後悔もない。でも・・いつも、何か・・ちょっと足りないような気がするのよね」

「何かちょっと足りない」

「そう。よくわかんないんだけど、何かがまだ必要って気がする。それがわかんないから、ちょっと停滞気味って感じ、かな」

中さんは、ポットを元の場所に戻してから、流しを掃除し始めた。

「停滞してるなんて南ちゃんらしくないな。いっそのこと全部捨てちゃえば」

「捨てる?」

「全部ね。これまでのこと、これから望んでいるようなことも全部」

「無理よ。これまでずっと頑張ってきたのよ。それが結局のところ私だもんね。自慢したいとか、安心したいからじゃないのよ。見かけほどそんなにほいほい変われるような人間じゃない」

「でも、それじゃ匂うよ」

「え、匂うって?」

「失礼。あのね、これまでの自分でいるのは、もう賞味期限切れってこと。人間は細胞が変わっているように、常に変わっているからさ。

何に変わるかはわからなくても、とりあえずこれまでの自分はさっさと脱いじゃわないとね。12時になって魔法が解けないうちに」

「ふふ、中さんて、意外にロマンチストよね。全部脱いじゃったら、楽かもね。でも、私はこれからどうなるの?」

「さあ、でも、そんなこと、大したことじゃないんじゃないの。ねえ、南ちゃん、ちょっと楽になったでしょ」

いわれて、そういえば南雲さんは心が少し軽くなったのを感じた。どうしたらいいのかまだわからないけど、どうしてもそれを見つけないとという気持ちは薄れていた。

「そうね。中さんと話したら、落ち着いたみたい」

「そう、そう。その目をしている南ちゃんは、いいなあ。これから何があるんだろうって目。かっこいいね」

「それはかわいいでいいでしょ、もう。最近彼氏にも言われなくなっちゃったんだから。仕事に戻らなきゃ。中さん、ありがと」

中さんに軽くハグしながら、南雲さんは、いつもの笑顔に戻っていた気がした。でも、前とちょっとだけ違う何かに、彼女は喜んだ。

雨は相変わらず降っていたし、雨雲の向こうは見えなかった。でも、それだけだった。

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