雑誌を作っていたころ(39)

前話: 雑誌を作っていたころ(38)
次話: 雑誌を作っていたころ(40)

もうひとつの仕事


「開業マガジン」の取材が始まった。それと同時にスタッフが固定していく。旧「ドリブ」のメンバーと旧「起業塾」のメンバーが合体した混成チームだ。

 正直なところを言えば、零細編集プロダクションを維持していくためには、こんな大人数でやるのは不利だった。可能な限り人間を削り、ぎりぎりの仕事でわずかな利益を蓄積していく。編集プロダクションという仕事はそうやらなければ長続きしないと聞いていた。

 だがぼくは敢えて、業界のセオリーに歯向かった。新生「悠々社」は金の亡者に引き裂かれた青人社に対するアンチテーゼのつもりである。だから当面は「難民キャンプ」として機能させ、路頭に迷った編集者たちを空間が許す限り受け入れようと思っていた。「その気になれば、仕事などどうにでもなる」という甘い考えもあった。


 その甘さに微笑むかのように、神様は次の仕事もくださった。カーナビのカタログムックである。出版社は講談社。取材先も話が付いていた。棚からぼた餅とはこのことだ。なぜぼくらのところに話が持ち込まれたかというと、スポンサー筋から「法人格のあるところを拠点にすること」という条件が提示されていたから。とりまとめ役の自動車評論家が、その話を受けて旧知のぼくのところに話を持ってきたのだった。

 スタートしていきなり、レギュラーの仕事と一流出版社の本。恵まれすぎているとは思ったが、すっかり居心地が悪くなったカメラマンの上田さんは、「きみが思っている10倍くらい、ラッキーなことだよ」と言い残して出て行った。彼は彼なりに悠々社の方向性を考えていたのだろう。そこで一緒の夢を見ようと思っていたら、瞬く間に仕事が決まってしまい、青人社と似たような雰囲気の会社になってしまった。それで落胆したのではないか。

 ある月曜日に会社に出てきたら、上田さんの荷物がすべて持ち出されていた。あっという間の別れ。何となく、「このオフィスでは青人社時代よりもずっと頻繁に別れがありそうだ」という気がした。数年を経ずして、その思いは現実に裏打ちされることとなる。


 カーナビの仕事は、「VICS」という渋滞情報を提供する会社がフィクサーだった。半分お役所のような組織で、国内のカーナビメーカーすべてを牛耳っている。ここが「本を作るぞ」と声をかければ、自動的に広告が集まる仕組みだ。それがあるから、講談社が乗ってきたのだ。

 しかし、やっていくうちに無性に気分が悪くなった。「出版の魂を守る」とか調子のいいことを言っていたのに、その舌の根も乾かないうちにひも付きの本を作っている。「儲かればいい」のであれば文句を言う筋合いはないのだが、競争のない本を作っても血はたぎらない。贅沢な悩みだとは承知していたが、こんなのはいやだと心底思った。


 その点、「開業マガジン」は違った。売れなければすぐにバウハウスから見限られる。そうなったらたちまち倒産だ。だから、何としても売らなければ、広告を取らなければならない。ぼくは大浦くんたちと毎日のように編集方針を話し合った。「日本で一番やさしいビジネス誌にしよう」と、結論が出た。表紙は「いっしょうけんめいハジメくん」のコンタロウ氏に依頼することになった。

「開業マガジン」におけるぼくらの仕事は、編集丸ごとと広告営業。企画のお伺いは立てるが、それはほとんど形式的なもので、自由にやらせてもらえた。印刷所への入稿から校了までもこちらでやり、バウハウスは売るだけ。広告もこちらで集め、原稿を凸版印刷に入れていた。クライアントへの請求書はバウハウス広告部から出させるが、あとで総額の15%をマージンとしてもらう約束になっていた。


 しかしすぐに、「開業マガジン」だけでは売上げが不足することがわかった。月刊ではなく隔月刊だったために、一般管理費が捻出できないのだ。その分として計算していた金額は、予想外にふくらんだスタッフの取材経費や営業経費で消えてしまっていた。机上の計算と現実が、早くも齟齬を見せ始めていたのだ。毎日終電まで熱心に仕事を続けるスタッフを眺めながら、ぼくは名刺ホルダーを繰って、営業に出かける先を探した。



続きのストーリーはこちら!

雑誌を作っていたころ(40)

著者の山崎 修さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。