17歳のある日に出会った女性について



17歳のある夜のこと、新宿をぶらぶらと歩いていると知らない女性に声を掛けられた。

美術関連の仕事をしているというその女性は見たところ24,5歳だろうか。当時も今も女性の年齢は皆目見当が付かないが、17歳の僕からすれば十分に大人に見えた。

「何してるの?」「何処に行くの?」たわいもない会話をしていると、ふいに彼女は「君に会わせたい人がいるんだ」と言った。

あまりにも唐突な話だったので一瞬間が空いた。

誰に?とはあえて聞かなかった。僕は、面白いことになってきたぞ、と思った。今考えると無謀にも程があるが、若かったせいか怖さよりも興味が勝っていた。唐突に始まったこの事件は17歳の僕には何よりの刺激だった。僕は促されるままタクシーに乗り彼女の家に向かった。


タクシーに乗りこんだ彼女は、何故か一言も話さなくなった。僕は流れる街並みのネオンを眺めながら、今日の終着点はどこになるのかをずっと考えていた。怖い人たちが待ち構えているのか?それとも彼女のちょっとした気紛れの相手になるのか?いや待て、そもそも僕は童貞じゃなかったのか?初めての人は好きな人とじゃないとちょっと••••••そんな事がグルグルと頭の中で巡っていた。

こんな時、いつも祖父の口癖を思い出した。

「正吾。この世はケ・セラ・セラだ。なるようになるんだ。」

これが祖父の座右の銘だった。お酒を飲んでは暴れていたのに何故か皆から好かれていた祖父。僕も祖父のことは大好きだった。家族にも相当に迷惑を掛けていたはずなのに、今でも皆笑いながら他界した祖父の思い出話をする。人は苦しいことや悲しいことがあっても、心に残るのは楽しいことばかりなんだろうかと不思議に思った。

辛かった事や苦しかった事は記憶の彼方に消えてゆき、幸せだった思い出だけが残ってゆく。それはそれで幸せなことだろうな、と思った。

「まあ、なるようになるよ。ケ・セラ・セラさ。」

祖父の口癖を心の中で反芻していると、タクシーは目的地に到着した。


彼女の自宅は新宿から20分程の場所にあった。ごく普通のマンション、と言えばよいのか。外観からは特に特徴も無いどこにでもある住宅街のマンションだった。

「どうぞ上がって」

彼女は鍵を開けると僕を招いた。

今も昔も、知らない家にお邪魔をする瞬間のあの独特の感じが僕は好きだ。この時は格別だったように思う。今日、この場所で何かが起こるのだ、という期待と不安が入り混じる中、緊張を隠すように涼しい顔をして奥へと進んでいった。

リビングは特段可愛く飾られているわけでもなく、質素というわけでもなく、マンションの外観と同様にごく普通の生活感のある内装だったと思う。緊張していたせいか、ここに関する記憶は曖昧だ。

「座って」

彼女に言われるままにクッションに腰を降ろした。彼女はバッグを置くと隣の部屋に向かった。

「カルピス飲む?」

隣の部屋から声がした。いきなりカルピスか、と僕は心臓が跳ねた。僕は自分がカルピスという単語だけで驚愕するほど緊張していた事に可笑しくなった。

今では「うんこ食べる?」と言われても「ウェルダンで頼むよ」と真顔で返答出来るくらいには汚れた大人になっているのだが。

とにかくも、僕は平静を装いながらうん、と返事をした。


――何故、今この瞬間にカルピスなのか。

メッセージ、或いは暗号なのだろうか?暗号と言う割にはストレート過ぎではないか。僕は17歳の頭をフル回転させて不毛な解読を試みていた。

暫くすると台所から二つのカップをお盆に乗せて彼女がやって来た。

「はい、どうぞ」「ありがとう」手渡されたのは普通のカルピスだった。僕は肩透かしを食わされたような気分だった。

僕はカップに浮かぶ氷をクルクルと弄びながら、カルピスなんて飲むのはいつ以来だろうかと考えた。当時はまだカルピスウォーターが発売される前だったので、お中元やお歳暮で目にする以外、カルピスを飲むことなどは少なかった。カルピスウォーターが発売された時は、これが公式の薄め方なのかとひどく感心したものだった。

「よく来たね」同じくカルピスのカップを持ちながら彼女が言った。自分で呼んでおいてよく来たもないものだと思いながら「うん、面白そうだったから」と返答する。

「会わせたい人がいるって言ったでしょ。今、呼ぶから待っててね」

トクン、と鼓動が少し高くなる。いよいよ本日のメインイベントだ。彼女は立ち上がると自宅の電話を掛け始めた。この当時、携帯電話はまだ殆ど普及していなかった。

「もしもし? うん、私。あのね、ちょっと会わせたい人がいるんだけど。••••••うん。うん、そうなの。じゃあ待ってるね」

電話自体は1分くらいだっただろうか。ロクな説明もないまま電話の向こうの相手は了解していたようだ。この事態を相手は理解しているという事なんだろう。突発的な事件ではない、それはつまり••••••やはりこれは美人局だったのかもしれない。

「すぐ来るって。ちょっと待ってて」

今更ながら、少し面倒なことになるかもしれないなと思い、非常事態に備えて玄関と窓の位置を確認する。幸いなことにこの部屋は一階だった。最悪、靴さえ諦めれば何とかなるな、と僕は楽観的に考えていた。

「そういえば、名前まだ聞いてなかったね」「秀人だよ」偽名である。当時の僕は、外の友達用と中の友達用の二つの名前を使い分けていた。外とは地元ではない場所で知り合った友達で、中とは地元や学校などの友達だ。中二病真っ盛りだった僕は、そのようなルールを自身に設定する事を好んでいた。電車に乗る際は尾行の確認のため扉が閉まる直前で降りる、というような類だ。その一つが鳴神秀人という偽名だった。

今だに古い友達の実家に電話を掛けると相手の母親から「鳴神君から電話よ〜」と電話口で聞かされ当時を思い出し暗澹たる気持ちになる。

「私は○○」

仮名、という訳ではない。実はもう彼女の名前は忘れている。どこにでもあるような普通の名前だったように思う。

「秀人君はいくつなの?」「17」「ハタチくらいかと思ってた」「○○は?」「いくつに見える?」

改めて部屋の明かりの中で彼女を観察してみると、自分よりずっと大人かと思ってた顔は、どこか幼さが残っているように見えた。

「19くらい?」「どうしてそう思うの?」「メイク、下手くそじゃない?アイラインはみ出てるし」

僕は被っていた猫を片腕分だけ脱ぎ捨てて言った。実際、彼女のメイクは17歳の僕から見ても少し下手くそに見えたからだ。

「なにそれヒドイ。初めて言われたよそんなの」メイクが下手だと言われ憤慨している彼女を見ながら、名前も知らない女性の家に来たのはこちらも初めてだ、と心の中で笑った。もしかしたら本当は年下なんじゃないのかと思い始め、精神的に少し持ち直した。

「来る前にちょっとシャワー浴びちゃうね。ゆっくりしててね」

――たった今、持ち直した精神が僅か数秒でガラガラと音を立てて崩れていった。

シャワーと言ったのか。何のために?ああ、あれか。シャワーから出た所で怖い人が登場してキャーみたいな流れなんだろうか。それとも本当に三人で何かとてつもなく禍々しいサバトのような行為に及ぶのだろうか。

彼女は言うが早いかバスルームに入り、すぐにシャワーの水音が聞こえてきた。


――待てよ。

今、帰れば良いじゃないか。シャワーを浴びている間に。それが最も危険が少なく、最も賢い選択だ。なんだか随分簡単に正解に辿り着いてしまったようで不思議な気分だった。しかし、本当にそれで良いのだろうかという想いが迅速な避難行動を妨げていた。

答えを知らずに去ってしまって良いのだろうか。誰が来るのか知りたくはないのか。彼女の本当の歳はいくつなのか知りたくはないのか。やらないで後悔するよりもやって後悔する。そうルールを決めたのは自分だったはずではなかったのか。

結局、僕は思い留まり、どのような結果になろうとも終幕まで見届けることにした。まったく、好奇心は猫をも殺すという諺を知らないのかね、と他人事のように心の中で呟きながら、僕は改めて部屋の中を見回してみた。

場所はもう忘れてしまったが、タンスだか鏡台だかの上に更新された古い免許証が無防備に置いてあった。最近、更新したのだろうか?僕はすかさず生年月日を確認した。

生年月日、○年○月○日。計算すると彼女の歳は38歳だった。何度計算しても間違いはない。歳下であれば何とかなるだろうと思っていたが、この分だと今からやって来る第三の登場人物も歳上の可能性が高いだろう。果たして二人がかりで来られたら対処出来るのか。

いや、もう考えるのは止めよう。映画ハートブレイクリッジでクリント•イーストウッドが演じていた鬼軍曹の言葉を思い出した。戦場では臨機応変に対応しろ、だ。もし何かあった場合に備えて、身近に武器になるようなものに目星を付けると、僕は座して待機した。


10分くらいたった頃、彼女がバスルームから姿を現した。

ラフな格好に着替えた彼女は、濡れた髪をタオルで包みながらこちらの部屋に戻ってきた。てっきり、秀人君も入る? と聞かれるかと思っていたがそのようなことはなかった。

彼女はテーブルを挟んで僕の前に座ると、鞄から手帳を取り出し無言で確認を始めた。僕も無言でその所作を見つめる。

――ドアのチャイムが鳴ったのはその時だった。


あ、来た、と彼女は手帳を置いて立ち上がると玄関に歩いていった。ドアが開けられる音に続いて話し声が聞こえてくる。

「お待たせ」「早かったね」「なんだ、お風呂に入ってたの?」「汗かいちゃったから」

こちら側からは壁が死角になって姿は見えない。いよいよか。僕はもう一度周囲を確認し、ケ・セラ・セラを唱えた。

「こんにちは。彼なんだ?」笑顔で部屋の中に入ってきた男は、予想とまったく違う色白で線の細い若者だった。薄っすらと化粧をしているような肌はビスクドールを思わせた。

「○○ちゃんに連れて来られちゃったんだね」

「彼は秀人くん。メイク、下手くそって言われちゃった」

「はははは、言うね秀人くん」

「秀人くん、ソース顔のいい男でしょ。○○は醤油顔のいい男。だから二人を会わせたかったの」

「そうだね。秀人くんはソース顔だね。ははは」

何が"だから"で何が"ははは"なのか。二人は並んで腰を下ろして話を続ける。

「○○ちゃんから電話があったから、きっと誰か会わせたいんだろうなって。この間もね、夜の渋谷で車を停めて、歩いてる人たちを○○ちゃんとずっと眺めてたんだ」

「色々な人がいたね」「うん、いたね。マンウォッチングだね」「朝まで見てたよね」

僕は二人のかけ合いに翻弄されていた。そして翻弄されている自分が少し悔しかった。

「僕はマンハンティングされたわけか」

「はははは、そうだね」

妙に人懐こい笑顔で彼は笑った。そこには嫌味も馬鹿にした様子も無く、僕は彼が好きになった。

聞けば、彼は劇団に所属している俳優の卵だという。一度だけ彼の舞台を見にいった事があった。僕はあまり演劇などには詳しくなかったが、アングラな公演を行う割と有名な劇団だった。

「僕もね、舞台を見にきてくれていた○○ちゃんに声を掛けられて遊ぶようになったんだ」

彼もまた僕と同じように彼女にハントされた一人だった。彼が言うには他にも何人かそのように声を掛けられ、この部屋で紹介されていたようだ。

「でも秀人くんは今まで会った人とは感じが違うね」

彼が視線を送るが彼女は笑みを浮かべているだけで何も言わなかった。今回は彼女の気まぐれだったのだろうか。確かに彼は僕とは真逆のキャラクターだった。

当時の僕は、何か怒ってるのかといつも人から言われるような顔をしていたらしい。自分ではそんなつもりは無かったが、17歳の頃の僕は自分自身の将来の事やまわり

の事、その他、様々な不安に囲まれ押し潰されそうだったと記憶している。そういったものが表情に出ていたのだろうなと今では思う。

結局、その日は朝まで彼と話し、高揚感と気怠さの入り混じる中、始発の電車で帰路に着いた。

何故、彼女が僕に声を掛けたのか、何をさせたかったのかは結局分からず仕舞いだったが、こうして僕は彼女の部屋の一員となった。


それから僕は彼女に呼ばれ、何をするでもなく朝までその部屋で過ごす事が増えていった。そして、平日も週末も関係無く、彼女の部屋にはいつも誰かがいた。

その度に新しく何処かで声を掛けられ連れて来られた子達が増えていき、彼女は皆にお披露目をした。一度切りで二度と姿を現さない子もいれば、転がり込むような形で居つく子もいた。

お披露目された子達は、皆、最初は何処か不安そうな表情で、この不思議でどこか奇妙な集まりを眺めていた。道で拾われた捨て猫の気持ちとはこんなものなのだろうか。僕も最初はそうだったな、と思い出す。

時には僕も彼や彼女と一緒に夜の街に出掛け、彼は良いね、彼は今ひとつ、というように誰を連れて帰るか品定めをすることもあった。

彼女のお気に入りは十代〜二十代前半の男の子だった。そうして声を掛け連れ帰った子達を皆に紹介し、それを満足そうに眺めていた。

その中でも特別なお気に入りは最初の晩に会った彼であった。彼はいつも彼女の側にいて、あの屈託のない笑顔を見せながら話をしていた。彼女の仕事が終わると、何が目的というわけでもなく部屋に集まり朝を迎える。そんな日々を過ごした。

当時はまだ携帯もインターネットも無く、テレビは夜中の1時か2時には終了していた。大晦日などは全てのチャンネルで「ゆく年くる年」という同じ番組が流れていた時代だ。

学校にも行かず音楽活動という名の無為な生活を送っていた僕は、同じ歳の若者とは違う人生を歩んでいるという不安や恐れを朝方まで何冊もの本を読むことでひたすら抑え付けていた。何日も起きていたかと思えば、一日中寝ているというような事も多かった。その頃の僕は漠然とした得体の知れない不安感から逃げる事で精一杯だった。

そんな時に出会ったのがその部屋であり、僕にとってそれはとても有難かった。行く所があるということが僕を安心させた。

ただ、そんな日々も長くは続かなかった。


彼女に出会ってから数ヶ月くらい経ち、そろそろ冬の足音が聞こえてくる、そんな季節のある日。

何時ものように彼女の部屋に集まり、談笑する皆を眺めていた時、ふと彼女を見ると、その表情には今まで見たこともない表情が浮かんでた。焦燥、絶望、諦め、寂しさ、なんと表現したら良いのだろうか。彼女が部屋にいる我々を見つめながら、そのような表情をしていたことが僕には衝撃だった。

その瞬間、僕は彼女の悲しみを知った。

彼女は猫を拾う代わりに、僕等を拾っている。彼女も彼女なりに将来に対する不安や恐れを抱きながら、それを忘れるためにこのような事をしているのだろうなとは思っていたが、その表情を見てしまった時、僕はとても寂しい気持ちになった。

そして、ここにいてはいけないと思った。

その日から、僕はじょじょに彼女達と疎遠になっていった。なんとも素っ気ない別れだったが、僕が彼女に呼ばれても行かなくなった事について、彼女から何故?という質問が出ることもなかった。


こうして僕と彼女達との関係は終了した。

数年後、久し振りに最初の晩に出会った彼を見た。笑顔の彼だ。それは街に貼られたポスターの中だった。有名な劇団の一人として、彼は舞台に立っていた。

僕自身は、祖父の言葉通りケ・セラ・セラの末、その時はコンピュータ関連の仕事に付いていた。

彼もあの部屋から出ていったのだろうか。集まっていた他の人たちは?それとも、今もまだ彼女達とあの部屋に居るのだろうか。

彼女は幸せになれたのだろうか。


冬が近付く度、僕は17歳の時を思い出す。そして冬が訪れる度、僕は人生の新たな一歩を踏み出す。

41回目となる今年の冬も同様になりそうだ。僕にとっての門出は春ではなく冬なのだと決定づけた彼女の幸せを今年も想っている。

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