僕の器と、やりたいことの話

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 自己啓発とか、起業とか、ビジネスモデルとか、トップ○○になったとか。

 凄いな、と思う。

 羨ましくもあるし、見習わなければと思うし、尊敬もする。

 だけど僕はきっとそう「思う」だけで、実際の行動に移したりはしない。僕はいわゆるそういった「成功」に対して憧れを抱くことはあっても、自分でそれを勝ち取りたいとは思わない類いの人間なのだろう。

 誤解されたくないので最初に言っておくけど、頑張っている人達を否定するつもりは全くない。

 むしろ、努力の果てに「成功」を勝ち取った人達は本当に素晴らしいと思う。その成功体験には価値があり、未来があり、希望があると確信している。

 ただ、僕は「成功」をそれほど熱望しているわけではないというだけのことだ。



 頑張りたくても頑張れない人がいる。

 努力するしない以前の問題。たとえば健康や財政、家庭環境やその他諸々の問題によって、頑張ろうとするその志を折られてしまう人達がいる。

 そういう人達の助けになりたいと思うようになった。ごく最近のことだ。それこそ僕はどこにでもいる馬鹿で無思慮な若者の一人に過ぎない、ボランティアだの奉仕活動だのに対しては「否定はしないけどわざわざ関わるつもりはない」というスタンスの人間だった。

 今、三十路も真ん中に至り、ようやく自分以外の人達に対して目を向ける余裕が出てきた。

 遅いよ、と言う人もいるだろう。

 だけど僕にはこれが精一杯だ。僕はまったく凡人なので、めちゃくちゃ語学に打ち込んで海外の一流企業に就職したりとか、斬新な企業を立ち上げたりとか、そういう才能は一切ない。残念ながら、そういう星の下に生まれなかった。多分どれだけ努力しても、そういう方向での僕は「打ち止め」「頭打ち」になるだろう。それも結構早い段階で。

 これに関しては、まあ、仕方ないと言えば仕方ない。

 ないものを望んでも意味はない。今手の中にあるものを大切にするしかないのだ。



 僕の人生に、とても大きな影響を与えた人がいる。

 とある重い病気と闘ってきた人だ。二十代後半で発症し、その後二十年以上の長きに渡る闘病生活を続けた。何度も何度も大きな手術を受け、一年の大半を入院していたこともある。

 僕にとっては家族同然、肉親同然だった人だ。

 その人は、今はもういない。


 優しい人だった。

 家から出ることができない生活で、だからこそなのか人と話すのが大好きで、人と関わるのが好きで好きでたまらないと言っていた。

 保母の資格をもっていて、けれど病気のせいで実際に働いた期間は三ヶ月もない。いつか自宅を改装して、障害のある子や病気で通学の難しい子のために開放したいと語っていた。

 決して治らない病気と闘っていたのに、いつでも「いつかやりたいこと」「将来取り組みたいこと」の話をしていた。現実逃避ではなかったと思う。本当にあの人の中にはやりたいこと、チャレンジしたいことが溢れていて、そして数少ない「できること」を真面目にやり続けていた。



 僕がまだ、掃いて捨てる程いるライターの一人だった頃。

 果たしてこの道を続けるべきなのか、それともまた別の人生を見いだすべきなのか悩んでいたときに、「違う道に進むのもいいよ」と言ってくれた人だった。


「一回こっきりしか生きられないんだから。向いてないな、って思ったら、ちょっと寄り道してみるのもいいかもよ? 何をしても元の道に戻れないことなんてないでしょ。生きてるんだから、思いつくこと全部やってみて、ダメだったらまたうまくいきそうなことを探せばいいよ」

 そんなことを言ってくれた。

 生きてるんだから、という言葉が、これほど重いものだとは思いもしなかった。



「あなたは気持ちが優しいから、人を助ける仕事が向いてるよ」

 人嫌いで、誰かと話すのが下手くそで、一人でいるのが大好きな僕に、言ってくれた言葉。

 僕が今、介護職なんて仕事をやっていられるのは、この言葉があるからだ。


 人の助けになりたいと思う。

 やりたいことが溢れて、保母さんの仕事がしたくて、けれど叶わなくて冬のある日に突然逝ってしまったあの人は、きっと天国で子供達の世話におおわらわだろう。

 地上にいる僕は、地上で困っている人に助けの手を差し伸べたい。

 それが世間一般で言うところの「成功」でなくても全然構わない。それは別の人が成し遂げてくれたらいいことだ。僕よりずっと才能に満ち溢れ、実行力に富み、知恵に優れた人は幾らでもいる。彼ら彼女らが作る世界は、きっととても素晴らしいものになるだろう。

 だけど、こぼれ落ちる人はいるのだ。

 素晴らしい世界から取りこぼされてしまう人はいる。

 その人の責任ではない。

 たまたまだ。たまたま、こぼれ落ちてしまう。

 そういう人をすくい上げたり、落ちる寸前で受け止めるような、そんなことができたらいい。



 一人救うのが僕の器なら、一人救いたい。

 百人救う器があるのなら、百人救いたい。

 僕は僕の器にあるだけの人の助けになれたら、これほど嬉しいことはない。



 僕以外の人が「成功」するのは喜ばしい。

 社会的、経済的な「成功」は、尊ばれるべきものだと思う。

 僕はまた違った形で、願いを「実現」したいと思う。僕の願う僕でありたい。

 社会的に顧みられることがなくても構わない。無名の人、路傍の石で構わない。多分、そんな僕でなければ助けることができない人だっているのだろうから。



 ひとまず、できることを探すことから始めようと思う。

 「こんな取り組みがあるよ」「こういう奉仕活動のグループがあるよ」……そんな情報があれば、是非、教えて欲しい。

 参加するしない、できるできないに関わらず、今、僕はそういう情報を探している。                          

読んでよかった
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素晴らしかったです。 読んでよかった。
応援しています。

私は欲張りでせっかちなので、"1人救えるのが僕の器なら1人救いたい
百人救う器があるのなら百人救いたい"という所で、じゃあどうしたらその自分の器をもっと大きくできるのだろうと瞬間で考えます。それはそれで良いと自分で思うのですが、このストーリーの雰囲気から感じる武藤さんの考え方は私とは違う優しさがあって、本当に人それぞれで
私にしか救えない人、武藤さんにしか救えない人、いるんだろうなあとしみじみ感じました。
応援してます!

ちなみに国際NGOワールド・ビジョンが行っているチャイルドスポンサーシップはとても良い活動だとおもいます!

清瀬さん、コメントありがとうございます。応援していただけることが、僕にとっての幸いです。何が自分にできるかまだわからないことも多いですが、少しずつ、できることをクリアしていこうと思います。

Sekitoさん、コメントありがとうございます。僕も、自分の成功ばかりずっと追いかけていた気もしますよ。最近ようやく、自分が本当は何をしたいのか、どうやって生きていくべきなのか、わかってきた気がします。自分と向き合うことも大切ですよね。

佐藤さん、コメントありがとうございます。人はそれぞれですよね。自分の器をより大きくしていける──というのも、それはそれで、その人なりのキャパシティなのだと思います。何が良い悪いではなくて、できることなのだろうと。人それぞれ、できることを精一杯やれればそれが一番なのですよね。情報ありがとうございます、調べてみますね!

武藤さんのストーリーに共感しました。
わたしに大きな夢はありませんが、家族7人健康で暮らせていてこれ以上の幸せはありません。神さまわたしをつかってくださいと願っているところへ傾聴ボランティア講座を知り申し込みました。
人に話を聴いてもらうだけで気持ちが軽くなることあると思うんです。
気持ちの底にいる人にどうやって話してもらえるのかわかりませんが、とりあえずやってみます。
どんな活動ができるのかわかったらまたレポートしますね。

渡邊清美さん、コメントありがとうございます。
自分も仕事柄、傾聴ボランティアの方達には何度もお世話になっています。ただ話を聞くというそれだけのことが、高齢者の方にとってどれだけ救いなのか、いつも目の当たりにするたびに「僕もまだまだ至らないなあ……」と思わされます。
家族で健康に過ごせることは、最上の喜びの一つと思います。是非その幸せを大切にしながら、新しいことへ挑戦し続けてくださいませ。傾聴ボランティアのお話も是非聞かせてくださいね!

武藤 聡

元ライターだったりWebデザイナだったり。今は介護職員。 映画と演劇と漫画と小説をこよなく愛する、空想世界に行きたい人。

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武藤 聡

元ライターだったりWebデザイナだったり。今は介護職員。 映画と演劇と漫画と小説をこよなく愛する、空想世界に行きたい人。

武藤 聡

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