流産を乗り越えられた国際結婚の凄さ

2014年10月19日

生理が11日遅れたので妊娠検査薬をしてみたら結果は陽性。中々妊娠出来なかったので赤ちゃんが出来てとてもとても嬉しかった。


2014年11月3日

病院での初検査。初めて行った近くの産婦人科で超音波検査の後先生に呼ばれ深刻な顔で最終生理の初日9月8日から計算すると今8週目なのですが心臓の音もないし何も育ってない様子なので流産です。ときっぱり言われた。

この日はかなり泣いたがナイジェリア人で300回のお産を助けた元助産婦の姑にその先生は狂ってる流産ではない計算が狂ってるだけだと言われた。私はかなり落込んだが絶対それは間違えている!という100%の自信と直感があった。

仕事から帰って来た旦那もそれは間違えているといってあんまり気にもせずに上司が不思議な踊りをするといってその真似をしていた。その奇妙な踊りの真似をみた4歳の息子はガチョウみたいだね!といって大笑いしていた。


全然気にしてない。。。


でも私はやっぱり落込んでしまってでも絶対間違えだと自信があったので他の病院の産婦人科で予約を取った。この日から悪夢を毎日見た。そして4時間眠ると悪夢で起きる生活が続いた。


2014年11月14日

別の病院の産婦人科での検査。そこでは超音波検査はなく普通に検査が行なわれ多分9週目位ですね。おめでとうございます、と言われ普通に検査が行なわれた。いったいこの前の病院はなんだったんだ!


2014年11月18日

7年間働いた会社から解雇された。理由は何度かミスをしたから。

11月3日の誤診の後放心状態で仕事にいって集中できなくて涙をこらえていたのが悪かった。でも7年も働いて今まで頑張ってきたのにどうしたの?大丈夫?の一言もなく解雇された。まあ人生色々。解雇された後4時間半働けと言われ嫌だと断ったが代行がいないから駄目だと断られた。クビにするなら仕事の終わった後にして欲しいと思ったが後の祭り、泣き泣き仕事をした。凄いストレスになった。


2014年11月19日

病院での超音波検査。赤ちゃんはしっかり生きていた!前の病院は完璧な誤診。11月3日に8週目と言われたが実ははまだその時はたった4週目だった、何も見える筈がない!


「6週と3日です。予定日は7月10日です。おめでとうございます。」と言われてとても嬉しかった。旦那と4歳の息子は不安だった私の手をずっと握っていてくれた。そして超音波検査で頂いた写真を大切に飾った。


2014年11月20日

朝8時半きっかりに病院から電話があった。

「昨日の超音波検査の結果赤ちゃんの心拍が79で普通だったら120−160なければいけないのですが普通の数値よりかなり低いので流産の可能性があります」と言われまた涙が溢れて来た。そして血液検査の結果甲状腺の異常も発見された。病院から2日後にまた検査をしましょうと言われたが断った。


2014年11月21日

この日は友達に紹介された助産婦さんに連絡。助産婦さんはお医者さんと違いとてもリラックスした様子だった。今までの事情を話すと赤ちゃんが生まれてきたいかそうじゃないかを決めるの、今はあなたは何もできないからとにかく12週目までまって電話を下さい。大丈夫よ。と落ち着いて説明してくれた。その後心配しないように元気をだしてクビにならないように普通に仕事に通った。そして12月の最後の週が12週目なのでその時に助産婦に電話をするとカレンダーに書き留めた。


2014年12月7日

9週目に入ったこの日職場で少し出血していたのを確認。でもほんの少しだったので特に気にしなかった。


2014年12月8日

朝起きたら真っ赤な出血があった。ビックリして仕事に出かけた旦那に電話をすると直ぐに帰ってきてくれた。大丈夫だからと泣いてる私に優しくハグをしてくれてまた仕事に戻っていった。この時点で11月3日の誤診の時とは全くちがった物凄い嫌な予感がした。ネットで流産の兆候を調べてみた。腹痛、腰痛、出血、悪阻がなくなる、体温が下がる。全部当てはまる。その後息子を体操のクラスに連れていったがやはり出血が気になる、ケンブリッジバースセンターという助産婦さん専門のところを友達が勧めてくれたのでそこに電話をすると数時間の午後1時に予約を入れてくれた。軽く食事をすませ1時に到着する。色々質問され検診が始まる。特に異常はない、妊娠中の出血はよくあることなので心配ないと言われたが11月19日の超音波検査で心拍が79だったと伝えると話は一変。念のため超音波検査をしましょうという事になった。病院から帰宅すると助産婦さんから電話があった。その電話は多分人生で出た電話の中で一番辛い内容だった。

「赤ちゃんの形が正常ではありません。そして心拍が停止しています。残念ながら流産です。明日手術にきますか?」と言われた。

涙が洪水のように溢れ手足が震えだした「と、とりあえず主人と相談してから考えさせて下さい」と言って電話を切った。


旦那の仕事場に電話をするとその20分後に帰宅してくれた。

そして二人で号泣した。きっと人生の中でこんなに泣いたことはない。涙ってこんなに流れ続けるなんて知らなかった。何がどうしてこうなったのか何がいけなかったのかそしてどうして私は赤ちゃんを助けてあげられなかったのか守ってあげられなかったのか本当に沢山の答えのない疑問が涙と比例して頭の中でどんどん溢れていった。


この様子を聞いた姑が家に来なさい!といってくれて旦那と息子と涙の止まらない私と車で30分程離れているの旦那の実家を訪れた。太陽の様な寛大な笑顔でハグをしてくれた義理の母。大丈夫。オクラスープを作ったから沢山食べなさい!!と言ってくれた。しばらく泣いているとナイジェリア恒例のオクラスープとガリ(酸っぱいお団子のような)を振る舞ってくれた。


物凄い辛いそして一体どの部分のお肉なのかなぞな固くてぶつぶつしたお肉を噛み切れずに泣きながら食べた。旦那と姑は何の困難もなくシャキシャキと音をたててお肉を噛みちぎっていた。火を吹く辛さのネバネバしたオクラスープを手で食べながら天国に行ってしまった赤ちゃんの事を考えていた。


姑にはもう泣かないでもっと沢山オクラスープを食べなさい!と言われたが噛み切れない内蔵との格闘で顎が痛くなって諦めた。これはきっとナイジェリア式の励まし方なのだろうか。


2014年12月9日

朝から痛みと出血が酷くなった。旦那と相談してそして助産婦さんと相談して翌日の10日に手術をお願いする事にした。一週間色々あった仕事をキャンセルしてとりあえず今日は一日ゆっくり赤ちゃんにお別れする時間を作ろうと手術の前に気持ちを整理することにした。だがゆっくりしようとする間もなく旦那は「お腹が空いた!」と言って来た。この時点での腹痛は陣痛に近いもので普通の生理痛より下腹の全体が絞られているような痛さでとても料理をするのは無理だと思ったのでインド料理の食べ放題に旦那と一緒に行った。この日は豪雨警報が出ていたが気にせず家族でインド料理を食べに行った。そして息子がレゴーが欲しい、旦那が靴を買いたいと行ったのでモールへ、、痛みに絶えながらアメリカの巨大モールを歩くのはとても辛かったがとりあえずミッション達成。翌日病院での待ち時間で息子が飽きないようにレゴーを買ったのだが家に帰ると4歳の息子はレゴーで遊んで欲しいと叫んでいる。旦那にちょっと痛くて辛いからレゴーで遊んであげて!というとソファーに横たわって「疲れたからやだ!」と普通に断られた。。あ、っそう。ちょ、ちょっと流産の真っ只中なんですけれど、、まあ男の人には痛みは分からないだろうし息子も流産なんて分からないから泣き泣きレゴーで遊んだ。しかもそのレゴーは230ピース!大人でもかなり集中力がいる。


心配してくれた友達が夕飯を食べに行こうと誘ってくれた。そして旦那に友達がわざわざお見舞いにきてくれて夕飯に誘ってくれたから出かけようと誘ったら「嫌だ」と言われた。流石ナイジェリア人どんな状況でもはっきり意志を伝える。じゃあ私が運転するから!と強く出たが動こうとしない。なんとか説得してというかとても料理ができる状態ではなかったので必死にお願いする。友達と会う10分前になってやっと重くて黒い腰をあげてくれた。


友達に会うと凄い笑顔で”来てくれてありがとう!”と話している。なんだこいつ!とちょっとむかっとしたがもうこの時点でかなり出血してたので言い返す余裕もない。

友達と会ってまた泣き崩れたが7年間ずっと私を支えてくれた友達に翌日の手術の全身麻酔が不安だと言うと色々アドバイスをくれてそのうちの一つが英語でSedation 日本語で鎮静状態という選択があることを教えてくれた。日本の妹が出産の際自然分娩だったお母さんと全身麻酔で帝王切開になったお母さんの回復が全く違ったことそして全身麻酔の副作用(吐き気、頭痛)でとても苦しんでいた様子をみた事を電話で教えてくれた。その後色々ネットで調べたがやっぱり全身麻酔のリスクも色々あって翌日はなんとか全身麻酔を避ける事を目標にした。


2014年11月10日(手術の日)

朝から痛みと出血が増していた。夜も痛みと不安で眠れなかった。

でも心は落ち着いていた。もう赤ちゃんの魂は天国にいて今感じている痛みは私一人のものだから赤ちゃんは痛くないから大丈夫と心に言い聞かせる。

不安な気持ちで病院に行く準備をしてる時旦那はシャワーを浴びながらオリンゴというナイジェリアで流行っている歌を大声で歌っていた。なんとかかんとかオリンゴ、オリンゴ!!と盛り上がって大声で歌って踊っている。流石アフリカン!妻の手術の日もぶっ飛んで明るい!そしてオリンゴって何?と質問すると「女ったらし」との答え。へ〜〜もう絶句。これから手術なんですけどオリンゴですか。。しかも旦那はグッドダンサーだがバッドシンガーで歌いながらかなり転調する。オリンゴがどんどん変な調でもうぐちゃぐちゃなので私も思わずぷっと笑ってしまった。


病院への道中旦那は愛車のタイヤを冬用に今日変えたいんだけどと言ってきた。

これには流石に私もビックリして「いや〜〜今日はちょっとやめて欲しいな。。。手術の後どうなるか分からないし、、」といって何とか私と一緒にいてくれるように説得。


病院に着いて色々説明を受け涙しながら手術用の服に着替えた。


凄いダサイガウン、工場見学に行く時にかぶる様な大きなブルーな簡易帽子、簡易下着に枕の様なサイズのナプキン、ガウンの後ろが自分で出来ないので旦那にお願いしようとトイレから出てくるとその姿を見て旦那に大笑いされた。


それ本当にダサイね!しかもその簡易下着、それってもしかして防弾チョッキ?あ〜パラシュート?お空に飛んで行けそうだね!!とかなりコケにされた。。そしてトヨタで働く旦那はトヨタのコローラを買ってあげようか?(コローラは老人に大人気)そして助手席にはキチンと歩行器を用意するから心配しないで。と言ってきた。


なんなのこの人!!やっぱりナイジェリア人、日本人の旦那さんだったら手術の前にここまで普通に何も考えずに話すのか??日本人と結婚したことがないから分からないがまあ手術の不安もこんな会話で吹き飛んだので良かったのかもしれない。


旦那と息子とお別れして麻酔薬を打つ準備。全身麻酔はなんとか避けてもらい鎮静状態と子宮内の局部麻酔という手段をお願いした。この交渉で初めてしったのは全身麻酔と鎮静状態に使う麻酔薬の原材料は全く同じ。違いは量。鎮静状態は全身麻酔の10分の1程の量。全身麻酔だと手術後2時間程意識が戻らないが鎮静状態だと直に意識が完璧に戻る。


ここで腰が抜けそうにビックリしたのが麻酔師に何年この仕事をしてるのですか?と質問すると「数学で博士号をとって数学の教授をしてたがつまらなくなって医者になったのが40歳。医学部面接試験であなたは他の医者より10年以上キャリアが少なくなりますがどうしますか?との質問が大好きな質問でなぜなら僕は長生きしてそれは違うと証明するから!もうこの仕事を初めて30年以上だよ。お嬢さん計算してみな。そう僕は今72歳の現役。凄いでしょ。」との返答。72歳のおじいちゃん麻酔師。ぶよぶよしてて声も震えてて麻酔剤を胸のポケットにペンと一緒に入れてて"おいおい!おじいちゃん麻酔師さんお願いだからペンのインクを私の体に注入しないで下さい!”と意識が朦朧とするまでずっと麻酔薬を凝視していた。


手術は無事に成功して面会可能な部屋に移動させられ看護婦さんにご主人と面会できますかと聞かれた。はい、と答えると看護婦さんが旦那を呼びに行ってくれた。そして手術の前にコケにされたのでお返ししてやろう!と旦那の陰が見えると全く意識がない芝居を。そして薄目をあけてとっても不安そうな旦那をがベッドの近くまできて私を心配そうに見てるのを確認してからバンと起き上がって”冗談だよ〜〜!!大丈夫”といったら旦那は泣き崩れた。強がってたのに相当心配してくれてたようだ。

そして手術後だったのできっと血の気が引いて真っ青になってるだろうと思って”私どう?大丈夫そう?”と聞くと”本当に奇麗だよ!!”と言われ、わ〜〜ここって所はやっぱり押さえてると関心させられた。


帰宅後やっぱり麻酔薬の副作用で物凄い睡魔が襲った。多分3〜4時間位深く眠った。

そして起きたのは夜の10時。かなり空腹。旦那に何か食べたいと言ったら”僕も食べたい。お腹が空いた!”との返答。え〜〜ちょ、ちょっと今日手術をしたんですが、、、料理は無理。。旦那は叫んで僕は何も作れない!と文句を言う。どんどんお腹が空いてきてしかも息子は相変わらず元気で家の中で走り回っている。そして遊んで欲しいと言う。もうこれは飢え死にするしかない。と諦めて寝ているとキッチンからなぜかキンキンキ〜〜ンと包丁を研いでる?タタキ合せている音がする。や、やっと何か始めてくれた!!既に夜中の12時を過ぎている、お腹が空いた。。息子は相変わらず駆け回りケラケラ笑っている。そして旦那がドアを開けて「豚肉ってどうやって調理するの?茹でるの?茹でた後炒める?と聞いてきた。もう私は痛みと麻酔薬で朦朧としていてなんだか分からないので「あなたの直感に任せるわ」と適当にかわした。

そして時は夜中の1時「ご飯で来たよ〜〜!」との声が。


起きてみるとチャーハンと豚肉のソテーが用意されていた!!

やれば出来るじゃん!!!


凄い美味しい、あなた天才ね!!手術後だけじゃなくてもっと作ってよ!との褒め言葉に


「オイオイ、俺はカーセールスマンだぜ、そんな簡単な心理作成なんて通用しないよ」

と一喝された。


本当に不安だった手術、そして手術の後そして悲しかった流産も旦那のなんだか本当にぶっ飛んだ会話と行動でなんとか乗り越える事が出来たので国際結婚に感謝?


天国にいる赤ちゃんもきっとこんな様子をみてケラケラ笑ってくれている気がする。


今回の事で私の家族や友達が本当に支えてくれた。そして愛のこもったメッセージを沢山沢山受け取った。本当に感謝している。


赤ちゃんはたった9週間と3日という命だったけれど私達に海より広く宇宙より大きい愛を与えてくれた。


赤ちゃんがどうして天国に帰ってしまったのかは誰も知らない。でも一つだけ断言で切る事。それは私が母として妻として人間としてこの9週間と3日で学んだ事は人生の中で本当に大きな糧になったこと。


家族の愛、友達の愛、そして天国の赤ちゃんの愛を毎日感じられるようになった。


そして自分をもっと愛する事、家族を友達をそして周りの人を愛する事を天国の赤ちゃんが教えてくれた。


赤ちゃん本当にありがとう。

たった9週間でしたが私はあなたのお母さんになれて本当に本当に幸せでした。


そして最後まで読んで下さったあなたへ私達の天国の赤ちゃんからのメッセージです。


あなたの命を大切にして下さい。

毎日精一杯生きて下さい。

命を無駄にしないで下さい。

そしてもし命を絶とうしている人がいたら伝えて下さい。

あなたが生きている事は奇跡なんですよ、と。

そしてご両親に特にあなたのお母様にありがとうと伝えて下さい。

ご健在でなければ天国にメッセージを送って下さい。

40週間頑張ってお腹の中で私の命を守ってくれてありがとうそして無力だった自分を育ててくれてありがとう、、と。



日本では若者の自殺が死因の多くを占めていると聞きます。


私も若い頃は命を無駄にしようと試みました。


でも本当にそれは愚かなことでした。


そしてその事も天国の赤ちゃんが教えてくれました。


天国の赤ちゃんどうかこれからもずっと私達を見守って下さい。

本当に色んな事を教えてくれてありがとう。

これからは頑張ってあなたの命の分も生きるからね!


〜母より〜


ナイジェリア人との国際結婚(ブログ)

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