25歳の楽天的眉太男がワーホリでカナダに渡り、念願のブロンズ彫刻を学ぶ為に彫刻家の弟子となり、現地で師匠と2人展を開催。その後アーティストになった話。

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次話: ギャラリーと決別した眉太男が、ペットボトルで作ったスパイダーを背負って、ニューヨークでストリートショーを開催する話。02


若者諸君!感性が豊かで身軽な若いうちに、冒険の旅に出てみよう。


私がお勧めするのは、ワーキングホリデー(外国に1年滞在でき、就労も可能)などの制度を利用して、一人で外国に行ってみるという事だ。誰一人知り合いのいない見知らぬ土地で、異文化の中で言葉さえもろくに通じず、全くのゼロから始まる生活が刺激的でないはずがない。そこで出会った人々や体を張って経験した様々な出来事は、必ずあなたの血となり肉となり、一生の大きな宝になるだろう。

そういう事が伝えたくて、自分の体験を書いてみた。

 

 ワーホリでカナダに渡る

「もうたくさんだ・・・。」

小雪のちらつく寒空の下、バイクにまたがったまま男は打ちひしがれていた。彫刻家になる為のきっかけにしようと考えていた美大受験が、3浪の末に全滅に終わったのだった。

精神的にボロボロだった彼は、すぐ沖縄に避難して、とりあえず野宿をしながら自転車で、沖縄本島と離島を回った。わずかな所持金はすぐに尽きたが、リゾートホテルで住み込みの仕事を見つける。その後、那覇市に引っ越して夜はバーテンとして働き、昼は瑠璃色の美しい海を眺めながらじっくりと考えた。自分が最も興味のあるブロンズ彫刻を、どのようにしたら学べるのだろうか?ブロンズの本場フランスへ行こうか?いや、その前にカナダで英語と仏語を学ぼうと単純に考えた。カナダではこの2つが正式な共通言語であることだけは知っていた。


上京して、バイトを2つ掛け持ちして週7日働き金を貯めながら、カナダのワーキングホリデービザを取った。目的地はバンクーバー。教わった英語教師の出身地だった事と、英語系と仏語系のコミュニティが有ること、そしてその語感が良かったのが決め手となった。


2001年5月、25歳の楽天的眉太男は期待と興奮に鼻を大きく膨らませて、(本当に鼻だった)ありったけの荷物を詰め込んだバックパックを一つ背負い、バンクーバーに渡った。

♪勇気一つを友にして♪



バンクーバー

ここからは、彼をタケシという名で呼ぼう。

空港から乗り込んだバスの運転手に、どこで降りるのか聞かれたタケシは大声で答えた。

「ダウンタウン!」

(ダウンタウンは超広いのだが・・・。)という運転手の心の声が聞こえる様だ。

「確かにこれはダウンタウン行きのバスなのだが、どの停留所で降りるのか教えてくれ。」

運転手の英語が良く聞き取れなかった彼は、地図を取り出してユースホステルの場所を指差した。日本で英語の基礎は学んできたつもりだったが、実際の英会話はライブであり、まず相手の話すことが理解できなければ、返すことさえもできない。気が付くと、自分の語学力不足を少しでも補う為に、ジェスチャーと笑顔が自然に出ていた。バンクーバーはアジア系の移民が多く、現地人も慣れていたのか、優しい人が多かった様な気もする。

 

ユースホステルに5泊だけ予約を入れてあったが、混雑期であったのでそれ以上の延長はできない事を知り、何としてもすぐに住むところを見つけなくてはならなくなった。

早速、タケシは中古の自転車を手に入れ、現地の案内板を見て回り、英語及び日本語新聞の情報欄を見て空き部屋を探した。Eメールはやったことが無かったし、電話は会話力のみの勝負なので大苦戦した。何度も聞き返して、まともな会話にならず切られることもしばしばあった。5日目に初めて面談のアポが取れ、ホステルで知り合ったオサムが助けてくれたこともあり、ようやく、カナダ人宅の半地下部屋に間借りをすることになった。

翌朝、ブレーキの利きが悪い自転車に、バックパックを背負ったまま乗り、歌いだしそうな気分で、(実際に歌っていた)バラード橋を渡って下宿先へ向かった。

 

そのカナダ人家族との生活は、本当に素晴らしかった。部屋はカナダでは良くある半地下部屋で、窓からは庭の草花が良く見えたし、夏は涼しく、冬はガスボイラーによる暖房で家中暖かかった。一階のリビング、ダイニング及びキッチンは共同スペースで、週に一度食材を買ってきては、毎日自炊して普通に和食や中華を食べていた。

奥さんはケベック(カナダ東部のフランス語圏)出身の英語教師で、笑顔が素敵な優しい人であり、旦那さんはポーランド出身の山師(貴金属の鉱脈を探す仕事)、ジョークが好きで十徳ナイフの様に何でもできる器用な人だった。彼らには、かわいい子供が3人いて、その子たちは良い英語の先生になってくれた。途中から人懐っこい犬も家族に加わり、その犬はのちに作品のモチーフに選ばれて、ブロンズ像になる。

   

それから語学学校を探して、気に入ったところに決め3か月間そこに通い、朝から晩まで英語漬けの生活を送り、頭痛がする期間を経て、カナダに行って5か月経った頃、ようやく英語が聞こえだした。英語を言語として脳が本当の意味で認識し始めた瞬間だった。

ひとつ分かった事は、言語は勉強するものではなく、慣れるものだという事である。まずはとにかくよく聞いて耳を慣れさせるとともに、ネイティブと話しまくる。文法や書き方は二の次だ。(もちろんそれらも大切だが)初期に英語のリズムや発音を身に着ける為には、とにかく人と話す事、すなわち会話をすることが重要なのだ。気に入った言葉はすぐにまねをする。間違いや勘違いもどんとこい。そういう経験は一生忘れないものである。

 

9月11日、朝テレビを付けたら、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに、旅客機が突っ込む映像が映っていた。それは一瞬、ハリウッドの新作映画かと思うくらい、非日常の出来事だった。この日を境に世界は大きく変わり、新たなる混沌の時代に突入してゆく。なぜ、あのようなことが起きたのかを、様々な人種の友人達と語り合うことで、自分の視野が大きく開けた。物事は一つの方向から見て判断するものではなく、多方向から見るのがより良く全体の形が把握できるところは、彫刻と似ていると思った。

 

10月中旬から3週間ほど、日本から会いに来てくれた彼女と、カナダ大陸横断鉄道に乗って、バンクーバーからプリンスエドワード島まで旅をした。ジャスパーでは、マウンテンバイクで山道を下る際に、彼女が前輪をロックしてしまい、一回転して頭からひっくり返ってケガをするハプニングもあったが、トロント到着前夜には、列車の2階展望席からオーロラを見られたし、ケベックの城塞の中に泊まって中世にタイムトラベルする気分も味わうことができた。ナイアガラの滝を見に行く日(彼女の誕生日)には、彼女にプロポーズする予定で手彫りの指輪を準備していたのだが、朝急いでいたのでそれを宿に忘れてしまった。しかし、プリンエドワード島(赤毛のアンで有名)でアンの家の裏の小道を散策中に、無事プロポーズをすることができた。この旅は、2人にとって忘れることのできない特別な思い出となった。のちに、その彼女は嫁さんになる。

  

11月からバイトを探し始める。ダウンタウンのめぼしいカフェやレストランに履歴書を配って回り、その数が100を超える頃、3度目の面接で、やっとカフェで働けることになった。ニュースブレイクデリという店で、そこでは日本人とカナダ人の従業員が仲良く協力して働いていた。給料は安かったが、昼飯がただで食べられるのが嬉しかったし、友達も増えた。また、お客との真剣勝負で英語力が鍛えられた。

 

12月には、バンクーバーアボリジニセンターで、アボリジニデザインの基礎を学んだ。生徒は全員アボリジニの子孫や縁者で、自己紹介の時に皆順番に

「どこどこ村(部族)がルーツです。」

などと言っていたのだが、タケシは一人だけ

「日本から来ました。」

と言って少し浮いていたことを覚えている。

 

12月末になると、北半球の北部に位置するバンクーバーは、極めて日が短くなり雨や曇りの天気が多くなる。時間を持て余して少し気が滅入ったタケシは、友人のエマニュエル(バンクーバー到着初日に本屋で出会った人で、カナダ生活のキーパーソン)の勧めで、コミュニティスクールのクラスを2つ受けることにした。仏語は初心者クラスが満員だったので、中級者クラスから始めたものの、全くちんぷんかんぷんで、お試し期間に挫折した。だいたい、英語力もまだまだなのに、いきなり仏語の授業を英語で受けたのだから、無謀にも程がある。代わりに仏語を話せるエマニュエルに、少しだけ基礎を教わることにした。

彫刻家の弟子になる

しかし、同時期に始めたブロンズ彫刻基礎のクラスはとても面白かった。Jean-Guy Dallaire(以下ジョンギ)という先生は、サハラフォームを利用したブロンズ抽象彫刻のパイオニアであった。サハラフォーム(オアシスの一種)で彫刻を作って、それをワックスに浸して原型とし、そこから型を取り、その型を元に石膏像(ブロンズも可能)を作るという授業は、大変興味深いものだった。

 初めてサハラフォームに触れた時、子供の頃に遊んだ砂団子の様だと感じた。サハラフォームで卵形を作る授業では、いち早く完全な卵形を作り、さらにその卵に美しい顔を彫って、先生を驚かせた。

彫刻のクラスが終了した後も週に1~2回、ジョンギのアトリエに通って、制作や会話を楽しみ食事を共にした。彼の子供のような純粋な物の見方、彫刻に関する深い知識と高度な技術が、作品ににじみ出ていた。彼はタケシの彫刻に対する考え方を180度変えて、具象から抽象への道を開いてくれたのだった。

3月のある日の昼下がり、アトリエの庭でジョンギと雑談していた時、ふと会話の途切れたその瞬間に、タケシはありったけの想いと覚悟を込めてその言葉を口にした。

「私をあなたの次回作のアシスタントとして使って下さい。」

しばしの沈黙の後、彼があっさりと答えた。

「いいよ。」

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