双子の妹が残した、忘れられない思い出。


小学校4年生の春、双子の妹が入院することになった。

病名は脳腫瘍。母は、近所の診療所から紹介状をもらって、東京の大病院に妹を入院させ、手術を受けさせることにした。

妹は、私より社交的で、少しやんちゃなところがあった。一度、幼なじみのコウちゃんの顔にあやまって、はさみで傷をつけてしまったことがある。幸い傷は大したことはなく、コウちゃんのお母さんも気にしないで、と言ってくれたが、母は妹に一日食事なしの刑を与えた。

妹は入院を断固いやがった。泣いて家に帰ると言ったそうだ。

手術はうまくいかなかった。脳にある腫瘍がとてもとりづらいところにあり、治療はかなり難しいといわれた。

妹の本格的な治療が始まった。

東京の大病院まで、実家からは片道バスと電車を使って3時間はかかる。母は毎日病院まで通い、妹の面倒を見た。

当時私は、学校の体操クラブの強化メンバーに選ばれ、朝7時から夜6時過ぎまで、毎日練習していた。

秋になると、妹の2回目の手術の日が決まった。妹の髪型は、また丸坊主になり、それでも家に帰れることを願い、笑顔で妹は手術に挑んだ。

結果はやはり前回と同様、腫瘍は摘出できないところにできていて、もう完治は不可能と言われた。

投薬治療になった。母は父の実家の土地を売り、入院費と治療費をつくった。父は地主の長男だったが祖父と仲が悪く、私の曾祖父からわずかな土地を相続してもらい、家を出たのだそうだ。ある日父は、酒に酔って、オレの土地がなくなっていくな、とつぶやいたそうだ。

生活はどんどん厳しくなり、朝ご飯は、ハム2枚とごはん1膳、夜は納豆だった。母は、朝は6時に家を出て、夜9時、10時に帰ってくる。洗濯は日曜日にまとめてやった。といっても、当時私の着ている服は、ジャージに擦り切れたジーンズ。洗濯する服も多くはなかった。

ある日曜日、体操の練習が休みで、私は母と一緒に妹の病院へ見舞いに行った。東京は、田舎者の私には珍しいものばかりだった。小児科病棟は5階にあった。子供たちは、わいわい話していたり、おとなしくベットで本を読んでいる女の子もいた。びっくりしたのは、妹の持っている持ち物だった。20冊くらいはある絵本、全巻そろったサザエさん、いじわるばあさん、人形、オルゴール、ぬいぐるみ、当時まだ珍しかったCDカセットプレイヤーまであった。着替えのパジャマもたくさんそろっていて、妹はピンクのかわいいガウンを着ている。おやつの時間になると、たっぷりとクリームののったプリンとコーヒー牛乳が運ばれてきた。妹は、それを平気で残した。まだ死というものがどんなものかわからなかった私は、妹に猛烈に腹を立てた。私の機嫌が悪いことを母はそれとなく察し、注意した。妹は病気なのだからと。妹は、夕食の酢豚を半分のこして窓際に椅子を置き、ぼんやりと外を眺め始めた。


看護師さん
Yちゃんは、夕方になるといつもああなのよ。









面会時間が終わり、私と母が帰り支度をしていても妹は夕日を見ていた。

帰るよ。

妹はちょっとうなずいて、また外に視線を戻した。

家に帰れる私を、彼女はどんな気持ちでみていたのだろう。


その翌年の春、もうこれ以上は治療はできない、と東京の大病院からいわれ、妹は、家から車で約20分の脳外科病院に移された。

夏になると、さらにその病院からも出て、自宅治療となった。

母は子供部屋で使っていた2段ベットの一つを居間に移して、少しでも家族団らんの時間をたくさん作ろうとした。当時の妹は、言葉もうまくしゃべれず、1日寝たきりで過ごしていた。

ある日、妹は飼い猫の首輪と自分の手首をロープで結んで、と言ったそうだ。母が買い物に行っているあいだ、ひとりぼっちになるのが寂しいから、と言ったそうだ。


その冬の初めの朝、私はいつものようにバス停まで歩いていた。冬の朝、頬がカチカチに凍って、歩くつま先が痛い。水たまりに氷がはっている。ふと、電信柱を見上げると、カラスが妙な大声で鳴いていた。こんなカラスの鳴き声を聞いたのは、生まれて初めてだった。

その知らせを聞いたのは、3時間目の調理実習で、私がほうれん草を切っていたときだった。用務員のおばさんが、送って行くからすぐにうちにかえりなさい、とあわてて実習室に入ってきた。

訳が分からず、家に帰ると、居間で妹が眠っていた。あごから頭にかけて白い布が結ばれている。虫歯にでもなったのかな、と思っていると、母がやってきて、今朝早くだったんだよ、と言った。

親友であり、幼なじみであり、ライバルであり、けんか友達でもあった妹の葬式の日は、雪が降った。


雪のように真っ白いこころのまま、妹は逝ってしまった。


その後、私は体操競技会で何個かメダルをもらった。


その22年後、父も母も病気で相次いで亡くなった。


今、私はオーストラリアのメルボルンに住んでいる。恋人がいる。紹介する家族がいなくても、彼は私のそばにいてくれる。

でも、例えば、友人の家族が海を越えて彼らに会いにやってきたとき、小児科の子供たちを見るとき、ピンクのかわいいガウンを見かけるとき、私の胸がちくりと痛む。

失くしてみて、初めて分かる家族のありがたみというものを、今しみじみと感じている。


部屋の窓からは、ビンブラシツリーが赤く咲いているのが見える。

今度日本に帰ったら、父と母と妹のお墓に、私はメルボルンでも元気で生活しているよ、と報告しよう。













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