地球の歩き方の初取材でアフリカに1人で行ってきた獣医の話。

 タンザニアの田舎町キルワから、大都市ダルエスサラームに向かうバスの中、私は生きることを諦めることにした。

このままバスが横転したら、きっと死んじゃうんだろうな。

 スワヒリ語でダラダラと呼ばれる乗り合いバスから、私は窓の外を見ていた。すし詰めのバスでは、閉まりきらないドアの両側から人があふれていた。窓から見えるのは乾いた砂の地面だけ。明らかに傾いているバスの中で人の重量を感じながら、ぎゅっと抱きかかえたカバンに顔を押し付けつつ思った。

「もしもここで死ぬなら、それはもう仕方ない」

 約1か月の旅の終わり。毎日、今まで味わったことのない極度の緊張を強いられる生活で、私は生き抜くことに疲れ果てていた。キルワに着いてから熱っぽい体で、マラリアにかかっていないことを祈りつつ、ダルエスサラームからさらに北のアルーシャという町を目指していた。アルーシャには旅の始めに出会ったJICAの隊員さんがいる。現地で安心できる病院を紹介してもらう手はずになっていた。キルワからダルまでの約6時間の道のりを、ただ目を閉じて待つ。長い時間だった。

 アルーシャから始まった取材の旅は、キリマンジャロ登山で有名なモシ、さらに北東の田舎町タンガへと続き、バガモヨ、ザンジバルを経て南方へ。最も過酷だった南方の取材を終え、気のゆるみか体調を崩していた。暑い中全身を覆うウィンドブレーカーを身にまとい、帽子をかぶっていても、白い肌は目立つ。南の町へ行った時には、町に外国人は私しかいないような状態だった。

「声をかけてくる奴は信用するな」

 モシからタンガへ向かう長距離バス。モシまでは編集長やサファリでお世話になったドライバー、現地で偶然出会ったJICAの隊員さんなどに頼ることができたが、ここからついに完全に1人旅となった。長距離バスでは大きなバックパックを預けるのだが、「盗られることもよくあるので、大切な物は手元に」と注意を受けていた。実際、現地で荷物を盗まれた日本人観光客にも出会っていたし、預けた時点でなくなってもいいと覚悟を決めることにした。

 無事にタンガにたどりつき、預けていたバックパックも受け取れた。ぷち奇跡だと思った。予定していたホテルにチェックインしようと思うが、迷子で有名な私。事前に地図を読み込んでも場所が全く分からない。誰に声をかけたらいいかも分からなかったが、「声をかけて来る奴は信用するな」そう言っていたサファリドライバーのアドバイスに従い、自分から信頼できる人を探すことにした。
 ここまで連れてきてくれたバスの運転手なら信用できるのでは?
 根拠のない理由づけから、運転席に座っていた人に声をかける。ドレッドヘアーの若者だった。若者は英語が話せなかったが、行きたいホテルの名をいうと、すぐに降りてきて「ついてこい」というような仕草を示した。バスを降りた若者が周りにいた人といきなり小競り合いになったのには驚いたが、とにかくついていく。すると、そこには1台の白いタクシーが止まっていた。

取っ手が切り取られドアが開かないタクシー

 タクシーに乗り込んですぐ、「なんかおかしい」と思った。
 砂だらけの車内。白タクと呼ばれ、個人のタクシーは非常に危険だと言われている。車が進んだ後に人が乗り込み、左右からナイフで脅されて強盗される犯罪が多いのだ。そのことを知っていた私は、何かあってもすぐに逃げ出せるよう、ドアのすぐ横に座っていた。自分の右の座席にはバックパックを寝かして置き、人が入れないようにする。
 運転席に座った若者は何度かエンジンをかけようとしたが、車は動かない。舌打ちして何も言わずに出ていった。タクシーは高級ホテルで呼んでもらうのがいい。そう言われてすでに何度か使っていたが、こんなに砂ぼこりの多い車はなかった。・・・もしかしたら盗難車では?

 今、ここに大勢の人を呼ばれて、車ごと囲まれたら逃げ出せないのでは?

 不安がよぎり、外に出ようとドアを開けようとドアを見る。すると取っ手がなかった。正確にいうと、取っ手の部分が丸ごとカッターでくりぬいたように切り取られ、ドアの内側の空洞が見えていた。か細い針金が横から生えていたが、針金を引いてもドアは開かない。

 血の気が引いた。

 血の気が引く、という状態をリアルに体験した。急いで右側のドアから出ようとするが、自分が置いたバックパックが邪魔で出ていけない。そうこうしているうちに若者が戻ってきた。

「ウェイト、ウェイト」

 若者は白いボトルを抱えていた。どうやらガソリンがなくて車が動かなかったらしい。急いで買いに行ってたようだ。車が動き始めると、私はものすごい勢いでしゃべり始めた。
 私に何かあったら日本大使館が黙っていないだろう、旅行の取材できているからこの町にも人がいっぱいくるだろう、英語の分からない若者にとっては、ほとんど意味不明だっただろうし、言ってる私もなんだかよく分からなかったが、とにかく「この子に手を出すとやばい」と思ってもらいたくて必死に話していた。それが良かったのか、ただの親切な人だったのか、通常の料金を払うだけで無事に宿についた。宿は事前に、少し高いが安全そうなところで目星をつけていた。


崩れたコンクリートのホテル

 着いたホテルは震災にあったかのように、受付に椅子や机が折り重なって積みあがっていた。従業員はおらず、どうやらオーナーしかいないらしい。取材に来たと言うと、2階の部屋に通された。部屋はきれいに片づけられ、少し安心する。長旅だったので、取り急ぎトイレに行くと、水が流れない。お風呂場の蛇口をひねるが、そこもやはり水が出ない。受付に戻ってオーナーに聞くと「心配するな、水は汲んでくる」と言う。

 夜になって襲われるかも。。

 そう思って出て行こうとすると、オーナーは必死に引きとめてくる。「ここは本当にいいホテルだ。屋上から町中を見渡せ、ナイスビューだ」


▲ホテルの上のほうの階の様子(室内)

 ついてこい、というオーナーに連れられて屋上に向かう。階段を上がって上の階に行くごとに、コンクリートの壁が崩れてくる。屋上に上がる時には廊下はコンクリートの破片でいっぱいになっていた。

 屋上に出ると、オーナーは「見ろ、ナイスビューだろう」と言って町を指さす。そこには崩れたビルの茶色い町並みが広がっていた。穏便に出て行きたかった私は話を合わせ、「取材の仕事があるので、他のホテルも見てくる、また戻るから」と言って荷物を全て持って出て行った。トイレは結局流せなかったが、構ってられなかった。直感に従ってためらわない。ここではそれが大事だと、この数日で実感していた。


▲ホテル屋上付近

1,000人以上が亡くなった沈没事故

 タンガを去り、バガモヨの取材を終えて向かったのはザンジバル島だった。欧米からの観光客も多く、観光業が盛んなためか安全性も高い島だ。「取材者にとっては休憩になるいい島だよ」取材前にそう聞いていた。ところが、2011年9月10日、この島の周辺で大規模な事故が起こっていた。

 ザンジバルとペンバ島を結ぶ旅客フェリー「スパイス・アイランダーI」の沈没事故。2,000人以上が乗船しており、日本でもテレビで取り上げられていたらしい。

 バガモヨでメール報告ができなかった私は、ザンジバルでようやくインターネットに接続。取材経過の報告を入れようとメールを開くと、ものすごい量のメールが届いていた。

「無事ですか?」
「今どこにいますか?」
「沈没事故が起こっています、フェリーに乗る際には十分に気を付けて、高くても安全なものに乗ってください」

 私がザンジバル島に着いたのは事故から2日後。何も知らずに渡ったが、島全体が喪に服しており、夜間営業の店舗は閉まっていた。あまりにも大きな事故に実感がわかず、「早く喪があけてくれないと、取材ができないので困るな」などと思っていた。
 ザンジバルからダルエスサラームに渡るフェリーにはいくつか種類があり、早いものは1時間半で着くのだが、8時間半かけて深夜から早朝に着くものもある。多くのバックパッカーは宿代を1泊分浮かせようとそれに乗る。私も帰る時にはそれを使おうかと思っていたが、ザンジバルで店舗を構える女性に「危ないのでやめて。一番安全なので帰りなさい」そう言われて高速フェリーを使うことにした。
 遊びでなく、取材で来ているので資料に何かあってはいけない、そういう思いもあった。


▲紺碧が眩しいプリズン島の海


目の前に起こっていることのすべてが奇跡

 私にとっての初めての取材となった歩き方の仕事。事前に注意を受けていたし、現地でも指導があったが、実際にやるのとは大違いだった。停電になってもすぐに電気はつかない。誰を信じたらいいのかわからない。手動充電式の懐中電灯は持って行ってすぐに壊れ、ろうそくの灯りの明るさに思わず涙していた。電気がつくのも電話がつながるのも、ここでは奇跡のようなこと。

「今、この瞬間に起きていることを絶対に掴み取る」

 1人旅の最初に、そのことを痛感した。初取材だったが、私は運がよかった。取材開始の初日は、サファリドライバーさんが一緒についてきて、ダラダラの乗り方や町で気を付けるポイントなどを教えてくれた。英語が通じないところでは通訳もしてくれ、お金が盗まれないように体に張り付けられるウェストポーチも選んでくれた。
 ドライバーさんと取材したホテルの1つで、JICAの日本人隊員さんに出会えたのもよかった。すでに何か月も現地で生活している隊員さんは、次の町の隊員さんを紹介してくれ、その人がスワヒリ語で現地取材に付き合ってくれたのだ。旅の始め、とにかくいろんな人に、私は泣きついて歩いた。

 「JICAの車で次の町まで送るってできない?」

 出会ってすぐにそんなことを頼んできた人は初めてだ、隊員さんはそう言っていた。それでも、アフリカで出会えた数少ない日本人。バックパッカー経験もなく、初めてのアフリカで、少しでも安全に帰りたかった。すがれるものには何にでもすがりたい。毎日、寝る時でさえも恐怖でいっぱいだった。

 取材を終えてアルーシャに戻った時、旅の始めに泊まっていたゲストハウスに立ち寄った。1人旅になって初日に、シャワーを浴びていたら停電し、待ってても一向に電気がつかずに、恐怖の中、全裸で泣きながらろうそくを探したホテルだ。停電しているときにドアを破られたら。。気休めに過ぎないが、ドアの前に椅子を置いて寝ていた。

 1か月の旅の後、怖くて泣いてばかりだったのに、改めて訪れるとまるで自分が暮らした町の1つのように懐かしい感じだった。受付の人に「1か月前に来たけど覚えてる?」と声をかけ、レストランのスタッフとカレーを食べながら談笑する。安心できる、いいホテルだった。

 1か月の旅で出会った日本人のうち、半分は強盗の被害に遭っていた。そんな中、私はむしろ現地の人や出会った人に親切にしてもらうことのほうが多かった。

 休みを返上して取材に付き合ってくれたサファリの運転手さん。
 アルーシャの町で最初に出会えたJICAの隊員さん。
 初めて長距離バスに乗る際、バス停まで荷物を運んで案内してくれたタクシーの運転手さん。
 タンガへ向かうバスの中でみかんをごちそうしてくれた男性。
 バガモヨへ向かうバスまで荷物を運んで案内してくれた家族。
 バガモヨでスワヒリ語通訳をしてくれたJICAの隊員さん。
 ザンジバルで地元の情報をいろいろ教えてくれた現地在住の日本人の女性たち。
 ムトワラでコーラをご馳走してくれたホテルオーナー。
 キルワで出会ったJICAの隊員さんたち。
 ダルエスサラームのYWCAで出会ったタクシードライバーさん。

心から感謝するということ

 親切にしてくれた多くの人に別れ際「アサンテサーナ(ありがとう)」と声をかけた。そうして声をかけているのに、心のどこかで「だまそうとしているんじゃないか」「チップが目当てなんじゃないか」という疑念が生まれ、それは最後まで消えなかった。

 見返りを求める人は最初からそう言ってくる。親切にしてくれた人は、誰一人として見返りを求めては来なかったのに、それでもどこかで疑ってしまう自分がいた。それはもう布に落ちた黒いシミのように心にこびりついていた。



「FUKUSHIMA」のこと

  2011年。日本人なら忘れられない年だろう。タンザニアで私が日本人だと名乗ると、現地の人から「フクシマ、フクシマ」と呼ばれることが多かった。知っている日本語で、とりあえず声掛けたのだろうが、「コンニチワ」ではなく「フクシマ」


 乗り換えのオランダの空港では、これからケニアに行くというカナダ人女性に、「フクシマのことに心を痛めているわ。すべてがうまくいくように祈っている」と声をかけられた。世界の誰かが苦しんでいる時、それに心を痛める人が同じく世界のどこかにいるのだ。

 出会うことのないとしても、その思いはきっとどこかで繋がる、そう信じたい。


深夜23時にコンビニへ行けるということ

 帰宅してすぐ、洗濯してお風呂に入ると、いつものベッドで心ゆくまで眠った。起きると23時をまわっていて、おなかがすいたので何かを買いに行くことにした。家を出て真っ暗な空を見上げると、じわっと涙がにじむ。

 深夜に1人で外に出ていけること。こんな安全な国に生まれてきたというのは、それだけで幸福なことだ。


 初めてのアフリカの旅は、私に多くのことを教えてくれた。毎日がどれほど奇跡の連続でできているか、ということ。世界にはいろんな生き方や考え方があるということ。

 あれからずっと、再びアフリカに行った時には心から感謝ができるだろうか、と考えている。現地に長く暮らし、人との触れ合いの多いJICAの隊員さんですら、「どうしても疑っちゃうよね」と言っていた。

 「誰かを心から信頼できる」というのは、安全だから感じられることなのだろうか。疑う心があるなら、それはそれで構わない。でも、もしそうなら、正直に「疑う気持ちがあるんだ」と相手に伝えられたらいい。むかつくならむかつく、嬉しいなら嬉しい、そういう心からの気持ちを偽りなく伝えられるようでありたい。そうして受け答えをしながら、関係性を作っていけたらいい。

 世界中どこに行っても。

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