世界は苛立ちに満ちているのかもしれないという話

世界、そして、私たちの社会は苛立っている。フランスで、中東で、そして日本で。

言論の自由も暴力の行使も一種の「表現行為」であるとすれば、フランスでは人々が挑発的な風刺絵に、それに対する暴力に自らの苛立ちを託してお互いを傷つけ合っている。

日本では、隣国に、政権与党に、特定の民族グループに、異物を混入させてしまった食品会社に、某音楽グループのパフォーマンスに、園庭で騒ぐ幼稚園児に、接客態度が悪い店員に、苛立ちをつのらせ、社会全体が臨界点に達し崩壊寸前といった様相すら感じられる。

この苛立ちに満ち満ちた世界の中で、マスメディアも、原理主義者も、国粋主義者も、一般消費者も、「正義」を僭称した上で他者を裁こうとし、本来存在すらしなかった苛立ちと憎悪を煽り立てる。そして、このような「表現行為」も一種のコミュニケーションであるとすれば、世界はこうした苛立ちと、それによって流された涙と血によって「つながって」いる。

このうんざりするような苛立ちの熱源は、おそらくは世界に蔓延する閉塞感だろう。だとすれば、この閉塞感をじわりじわりと分泌するシステムはどのように構築され、脈動しているのだろうか?

世界を疾風のように駆け巡る金融資本は、わずかな人々を一夜のうちに過剰に富み肥やす一方で、多く人からは何もかも奪い去っていく。資本主義という共通の価値基準によって世界は単純でわかりやすくなったかもしれない。が、この世界を貫く価値基準は逆説的に人々の間におけるあらゆる平等性の解体を押し進めているとは言えないだろうか?

今を時めく経済学者であるトマ・ピケティは資本の高度な集積が経済格差を拡大させることを世界各国の納税データの分析により明らかにした。また、文化人類学者であるレヴィ・ストロースは主著『悲しき熱帯』で、インドのカースト制度の欠陥を「共通に測り得るものを持たないという意味で平等であり続けるという状態」に至らなかったことであると指摘した。カースト制度の分析はともかく、人々の間での究極的な平等は、実はこの「共通に測り得るものを持たない」という状況によって担保されているのかもしれない。

というのも、「わたし」と世界のどこかにいる「あなた」は交換不可能な存在であり、それぞれ固有にかけがえのない存在であるとすれば、そもそも比較自体が成り立たず、優劣も勝ち負けもない。ゆえに平等であると。

しかし残念なことに、現在のおせっかいなこの資本主義(あるいは民主主義、西欧近代的な倫理観でもよいかもしれない)というシステムは、好むと好まざるにかかわらず「わたし」と「あなた」を共通の価値基準によって結びつけ、無機的な交換価値に還元し、何らかの交渉を強要する。例えば、廉価な労働力としての「あなた」と、それによって生み出された商品やサービスを消費する「わたし」のように。

そしてこの役割分担は固定的で、めったなことでは変化しない。そこで生み出された格差は閉塞感を分泌し、それが苛立ちの熱源となっていく。

とにかく、このシステムはもともと「共通に測り得るものを持たないという意味で平等であり続けるという状態」であった私たちに資本(またはイデオロギー)を媒介とする世界的なコミュニケーションへの参加を強要し、世界共通の価値基準のもとで人々をわずかな勝者と無数の敗者に分割する。

このような状況の中で煮えたぎる鍋の中のスープのように苛立ちが沸騰し、無数の敗者の中には、勝者に対して自滅的な戦いを挑む者が現れる。

こんな意味で世界は狭く小さくなったと言えるのかもしれない。

(つづく)

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