独立など夢にも描かなかった自分が40歳で起業するまで


はじめに


まず自己紹介をしますと、今年45歳。熊本県の天草の出身です。天草四朗という歴史的人物で有名ですが、最近イルカウォッチングが流行ってまして、芸能人の来訪が放映されて、少し全国に知れ渡ってきています。


私の両親はそこで30年ほど喫茶店を営んでいます。ぜひ天草に旅行に来られたら立ち寄っていただきたいです。苓北という町の国道沿いの緑の看板のお店です。


ここから、当時の自分がどういう職業を選んだかという話しになるのですが、私は機会工学科でコンピュータも多少は学びましたが、そこから職業を発想できるほど、マジメな学生ではありませんでした。


工学部というと、足繁く学校に通うというのが一般的なイメージのようですが、私はアルバイトや右翼左翼とか経済論争に明け暮れていました。ただ、就職を考えたときは、何十年か栄える産業を選ばなければいけないと強く思っていました。


時代が変われば、栄える産業も変わる。石炭が花形の時代もあれば繊維の時代もありました。産業と就職はワンペアだとすると、稼ぎ続けられる分野を選ばないといけない。当時の私はそれがコンピュータ産業だと思いました。


それで最初に入ったのが富士通というメーカー。もともと電話の交換機を作っていた会社ですが、私が入社するころはコンピュータに関するありとあらゆるものを総合的に扱うメーカーになっていまして、私はそこで4年間コンピューター基礎を学びました。その後、コンピュータ産業の中にあるいろいろな会社を転々としまして、40歳を迎える手前で2007年に今の会社を創りました。第一子誕生と同じ年でしたので、そのタイミングで独立というのも振り返れば、良く許して貰えたなと思います。


そこに至るまでの心情風景をストーリー致します。

これ以降、日経連載の「私の履歴書」っぽくになりますが、生きてるうちに一回やってみたかったということでご容赦ください。




時代に翻弄された幼少期


私は昭和42年の大阪生まれ。小学校に上がって間もなく、祖母の他界をきっかけに、母の故郷の天草に移住。両親は家業を継くため、祖父の商売を手伝ったが、地元の主力事業であった炭鉱の閉山により年々人口が縮小。閉山に伴う転校で、私は親しい友達との別れを経験した。


商売が先細ってきたため、両親は店舗兼住居であった個人商店を手放した。当時は外食できる場所が少なかったため、飲食店を開業。再び借家住まいを始める。その頃、町が火力発電所を誘致。景気が活気付き、両親が切り揉みする飲食店もおおいに盛り上がった。


しかし好景気も束の間、発電所の完成に伴って出稼ぎ労働者は、まるで潮が引くように撤収。町の景気がどんどん下向き、家業も打撃を受け始めた。


一方、私はと言えば、中学高校を通じて、部活には全く興味が持てず、学校が終わるとまっすぐに家に帰り、釣竿を担いでせっせと海に通った。地元では無類の釣り好きとして通っていた。将来は本気で漁師になりたいと思っていた。


しかし高校入試の時期に奇しくも地元唯一の進学校に合格。今思うと運命の分かれ道だった。



上京の志、そしてバブル


地元の県立高校に進学、周囲では地元での就職や家業を継ぐ者が多い中で、上京したいという思いが日々高まり、やがて大学進学を志すようになった。


地方出身の何も無い自分が、唯一武器とできるものがあるなら学歴しかない、そういった世の中知らずで曖昧な想いから発したものだった。家系代々が商売人であり、大学を出て企業に入るという生き方は血筋の中で異例であった。


経済面で両親が支援してくれると言ってくれたのは心強かった。幅広く成績が良くなかったため、可能性があるのは私立理系のみだった。そこで偏差値が高い順に学費が安い大学を探して、目標とする東京理科大学一本に定めた。


受検勉強では、過去問題の研究のみにあけくれた。最初から、学力で勝負するのはあきらめて、対策だけに集中したことが功を奏し、無事合格した。


二留を経ての就職活動では、売り手市場の好景気であったため、苦労無く、東証一部上場の富士通に就職が決まった。その翌年、バブル景気が弾けて、学生の就職市場が一気に冷え込んだ。自分の卒業時が、まさしくバブル入社組の最終バスであったことを後で知った。



出会いに満ちた流浪


富士通で4年奉公したのち、外資系ITのオラクル社や、独立系コンサルティング会社を転々とした。いすれも刺激的な環境だった。片端に出会う人から感銘を受けた。


いろいろ外的環境を変えて刺激を受けるのは悪くないと感じる一方で、年齢を重ねる度、個々の人間が解き放つ光と影の世界に、自分を写し取る鏡を感じて、内観的にならざるを得なかった。


仕事ではいろいろなことを自ら積極的に取り組んだ。片道切符を手に渡英したこともあった。1 ヶ月間の渡英生活で、現地の人たちから影響を受け、食事無し、ビールだけで夜を過ごすという習慣が身に付いたのはこの頃だ。



実家の全焼


私が漂流人生を歩んでいたころ、実家が火事で全焼。店舗と自宅が離れていたのが不幸中の幸いだった。現場を見て言葉を失った。想い出の数々が灰になってしまった。形あるものはいずれ無くなる。実感せざるを得なかった。


地元での人望が厚かった両親は、周りから救援物資を受けて店舗裏の事務所に寝床をつくり、翌日から営業再開。古びた天井配線からの漏電が出火の原因だった。その後、地元の力強い支援のもと復活を果たした。



頂上が見えない坂道


35歳で人生最後の転職。着地させるのが苦手な前任者から引き継いだ窮地案件を同時に4本抱え込み、火消しのために修羅場をくぐることになった。


納期遅延に対するお詫びに走り回り、少しでも利益を残せるように交渉を重ねた。たった1人で顧客先を訪ねて、大勢を目の前に、真剣勝負で臨むことも少なくなかった。


度重なる納期遅延に怒り狂う経営者から、損害賠償の圧力をかけられたこともあった。夜遅くまでお詫びや調整に駆けずり回ったあと、プロジェクトをまとめて、明け方に30分ほどうとうとし、すぐ顧客先に向かう日々が続いた。


出口が見えないトンネル。止まない偏頭痛。生きることの辛さを噛み締めた。なぜこうも辛いんだろうと思った。


1年かけて全てを収束させた。最終的には利益を残すことができ、顧客との関係も取り戻すことができた。その後、大口契約を続けて受注することに成功。追い風を受けトップセールスを達成した。



ある時もたげた疑問


私はシステム開発を受託している会社の営業マンであるのにかかわらず、なぜか顧客のビジネス戦略に関する提案など、本業から逸脱した動きが出来るようになってきた。


私という個人に興味を持って頂ける方も現れ、徐々に人脈が拡がっていった。その人脈から新しい情報や知識がもたらされ、その刺激によって新しいアイデアや提案を思い付き、それをまた人脈にフィードバックする。という好循環が生まれるようになった。


行動範囲が拡大し、顧客からの信頼が集まるにつれて、組織の一員であることへの不自由感が高まっていた。


組織の方向性と折りあえないのがはがゆかった。もっと顧客と向き合った事業展開をしたいと思い始めていた。




海辺で過ごした2週間

海辺への旅行でのある夜、波の音を聴きながら、ふと暖かい感覚に包まれた。不思議な感覚だった。この原始体験が頭を完全にリセットしてくれた。


自分の歩むべき道が輪郭がふっと見えた。今ふうに言えば気付き。そんな感じにしか表現のしようがない。とにかく心の声に素直に従おうと自然に思えるようになっていた。



それは頭の中にどんどん浮かんできた


ふと浮かんだ道筋、それは助けを求める声に報いなければならないという使命感であった。


私はIT 業界の裏も表も知り尽くしている。もちろん窮状を嘆くだけではない。窮地と新天地の両面を見てきたことを、事業の根底に据えることで、今まで世の中にはなかったサービスを生み出せるという不思議な確信が湧き上がっていた。


そうだ、会社が必要だ、急速にいろいろな考えが頭の中を廻り始めた。社名に「オーシャン」という言葉を付けたいと思った。大きな海のような包容力と、きっかけが、海辺の散策からもたらされたという想いがあった。


それから映画の「オーシャンズ11」。ふだん離れているが、仕事のたびごと、専門分野を持ったツワモノが集い合って、大きな仕事を成す。私のイメージとぴったりだった。仕事の依頼を集めることと、ツワモノたちを集めて仕事を達成するのが、私の役割だ。


「パートナーズ」は、私の協力者とのパートナーシップという意味と、もうひとつ大切な意味がある。それは顧客との関係を中長期的なものにしたいという想いである。最後まで仕事を果たすのは当然のこととして、お客様の未来のことも見据えて提案と実現を果たす。このような想いを「名は体を表す」で社名に託そうと。



ライフワーク


私にとってプログラマは、単なる制作者以上の存在だ。私が影響を受けたシリコンバレー文化では、プログラマがイノベーションの主役だった。そころが日本はどうだ。付加価値がどんどん下がって、インドやベトナムなど仕事が海外に流れてしまう。


これは国策以前の問題ではないか。「プログラマの復権」つまり、これまでもこれからもIT産業を支えるのはプログラマだという信念を持って活躍の舞台を創ることを、自分のライフワークにしようと考えた。


そこで私がマーケティング活動を担って挑戦的な仕事をガンガン取ってくる。その直下でフリーランスのプログラマが思う存分動くというという体制を作ろうという、現在の発想に辿り着いた。


プログラマという仕事は本来、医師やスポーツ選手と同じ、専門知識や技能が必要な職業。もっと光があたっても良いはず。次世代を担う子供たちに誇れる、子供たちが憧れるような職業として、復権することがミッションと肝に銘じている。


文 オーシャン・アンド・パートナーズ http://www.ocean-ap.co.jp/ 代表 谷尾 薫



後記


私的には、思い立ったときが「吉日」だと思っています。

何とかなるものです。

締めが浪花節調ですみません。でも事実そう思ってますから。

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