大切な人を失った女の10年+αの話

今から十数年前。
3年と少し付き合ってる彼が隣にいる。

『彼』がそばにいること。

それはすでに当たり前になっていて、その当たり前がどんなに幸せかまだ若かったわたしにはわからなかった。
失うことなんて考えもしなかったし、この日常がずっと続くものだと思ってた。

お互い久しぶりの休日で、彼が趣味としているサーフィンをするために海へ向かってる途中。
移動が嫌いなわたしは機嫌が悪い。

わたし
『もっと近い海でいいじゃん。○△海岸で良くない?』

23歳のわたしは、ワガママ放題。
この一言が、彼の運命を変えることになるなんて全く思わなかった。

着いた先の千葉県某所。
機嫌が悪いわたしは車で寝たふりを決め込んだ。
彼はエアコンで冷えないようわたしに白いブランケットをかけてくれてから、サーフボードを抱えて海に向かった。

薄めで見た後ろ姿が、彼を見た最後。



彼は、悪天候の高波で亡くなった。



わたしが行き先を変えなければ。
わたしが『もっと近い海でいいじゃん』なんて言わなければ。
わたしがワガママ言わなければ。
わたしが。
わたしが。


彼の運命は確実にわたしの一言で変わった。

自分を死ぬほど責めた。
彼の親もわたしを責めた。
『あなたが一緒じゃなければ息子は』と。

数ヶ月の間、休職した。
もう何も考えられなかった。

10数キロ痩せた。
何をしていたか、記憶がほぼない。
共通の友達から、心配の電話が鳴って我に帰る。

『大丈夫だよー!うん、元気!』

こんな返事をしてるうちに、すっかり偽の笑顔が身についた。

社会復帰して、毎日を偽の笑顔で過ごすようになった。
誰も辛い出来事に触れなくなった。
今考えると、腫れ物を触る感じだったのかな。
生きてるのか死んでるのかわからないような感じで毎日を過ごした。

毎年命日の翌日、必ずお墓参りに行った。
命日にお墓参りに行って、彼の家族に会うのが怖かった。
自分が生きてることが罰ゲームだった。

神様がくれた一番のプレゼントは
『忘却』だと聞いたことがある。
わたしは残念ながら、そのプレゼントを授かれなかったらしい。

生きてることが、苦しかった。



ー10年後。
わたしは33歳になった。
この10年で、わたしはおたふく風邪にかかって片耳の聴力を失っていた。

例年と違わず、お墓参りに行く。
なんとそこには、彼の家族がいた。
毎年わたしが命日の翌日にお墓参りへ行っていたことを、友人から聞いたらしい。
10年ぶりの再会に、何も言えなかった。
ただただ驚いたし、彼の両親は驚くほどに老け込んでいた気がする。

彼の家族はこう言った。
『あの時はあなたのせいにするしかなかった私達の気持ちをわかってください。本当にごめんなさい。そろそろ前を向いて自分の人生を楽しんで』
と。

この10年、恋愛も出来ず相変わらず偽の笑顔を浮かべて暮らしてきた。
大丈夫!が口癖になった。
泣くこともなかった。

けれどこの日。お墓の前で、盛大に泣いた。

この10年、人生を『罰ゲーム』『消化試合』としか思えなかった。
左耳の聴力を失った時、治療をすることを選択しなかった。
緩やかに死んでいきたいと思った。

わたしはこれからどうしたらいいんだろう。
彼の両親の中で大きな葛藤があったと思う。
結果彼の両親はわたしを赦してくれた。
けれど、わたしは自分を赦して、前を向いていける…?
答えはNoだ。

*  *  *

さらに2年後。
現在。

彼のことを、過去の自分の出来事として親友に話すことが出来るようになった。
好きな人も出来た。すごく優しい人。

でも、いまだに誰にも『自分の希望』を伝えられない。
わたしが発してしまった一言で、誰かの人生が狂ってしまうことが怖かった。

前を向いて生きること。
思い出に縛られないこと。
自分の気持ちに素直に生きること。

まだどれもきちんと出来ていない。
壊れた自分を取り戻すのにはまだまだ時間がかかるというか、壊れる前の自分を思い出せない。

これからは人生を『消化』するのではなく『生きて』いこうと思う。

死ぬ時に、自分を赦してあげられるように。

ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

著者の三上 優貴さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。