アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート10

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「ただ足が悪くて、車いすに乗っているだけかと思っていた」


多くの方は、僕の姿を初めて見てこういう印象を持つようです。

僕が抱えているのは「頸髄損傷」という障害ですが、歩けないだけでなく、さまざまな二次障害があります。


例えば感覚障害により、熱い、冷たい、痛いなどが分かりません。僕の頸髄損傷の友人はこたつで足の親指をやけどしました。こたつの熱い部分に親指が触れていたそうですが、やけどによる焦げ臭いがするまで気が付かなかったそうです・・・


普段、障害を持っている人と関わる機会がないと、このような症状を知ることはまずないでしょう。

障害を持っている人とそうでない人がともに幸せなるためには、お互いの「慣れ」が必要だと思います。障害者に対する疑問が「心の壁」を作り出してしまいますが、その疑問が解かれ、障害者に対する「慣れ」が生まれたときに「心のバリアフリー」が実現されると思います。


そのためには障害を持っている人とそうでない人が一緒に遊んだり、出かけたりすることが一番なのではと思うようになりました。車いすであっても、どんどん外へ出ていろんな人と接することが、障害を持っている僕の役目かなと勝手に思っています。笑




 

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2009年12月に天理大学で講演会をすることが決まった。

早速、準備に取り掛かろうとしたがこれまで大勢の前でスピーチをしたり、長時間話すような経験は全くなかったため、何をすればいいのか分からなかった。


結局、一人で90分間喋る自信はなかったので、伊藤部長、僕と同期のアメフト部のマネージャー、僕の母親の3人に協力してもらい、トークセッションという形で実施することになった。


そして事前に原稿を用意し、当日はそれを読み上げることになり、まずは、当時の様子を振り返りながら原稿を作成することにした。


しかし、不思議なことがあった。

それはなぜか入院中の記憶をあまり思い出すことができなかった。

その後、心理カウンセラーの方から、心に傷を負わせるような出来事は、抑圧や解離といった、心の防衛メカニズムがはたらいて、その辛い記憶が、意識に上って来られないようすることがあると教えていただいた。恐らく当時の僕は入院中の出来事と向きあう準備ができていなかったのかもしれない。


 

このときに役に立ったのがひとつの日誌だった。

それは、母親や兄が入院中の出来事や僕の状態を記録してくれていたものだった。もちろん僕自身はその日誌を見たことがなかったため、このときに初めて当時の家族の心境を知った。



1ページめくるごとに、僕は胸を鋭いもので貫かれるような衝撃を感じた。そこには家族が僕の事故によってどれだけ苦しみ、悩み、涙を流してきたのか綴られていた。

暗い悲しみと苦しみに閉ざされていたのは自分だけではなかった。

客観的に考えれば当たり前なことだが、僕は自分の被害者意識に包まれこの当たり前な事実に気づいていなかった。


そしてこの日誌や資料を参考にしながら、事故の経緯や入院中の出来事、リハビリに関することや自分の体の状態について文章をまとめ、伊藤先生の添削と内容の訂正を繰り返し、原稿を作成した。


 

講演会当日-

天理大学の控室で、僕は緊張で顔がこわばり笑顔も作れない状態で待機していた。

あまりの緊張にこの時からトークセッションが始まるまでは緊張しすぎて挨拶もろくにできなかった。


 そして、150人以上の聴衆に囲まれトークセッションが始まった。

「原稿を読み上げるだけだから大丈夫!」と思っていたが、自分が原稿を読む順番が回ってきた瞬間 

(あれ、なんて喋ればいいんだっけ…)



いわゆる「頭が真っ白になった」状態だった。そのため最初の10分は何を喋ったのか、どんな風に振舞っていたのか覚えていない。原稿を噛みまくっていたことだけは覚えている。


徐々に緊張がほぐれ、落ち着いて原稿を読める頃にはトークセッションの3分の1が過ぎていた。このトークセッションはビデオで撮影していたが、今でも恥ずかしくてとても見れない。おっさんになったときに当時のチームメイトとお酒を飲みながら見ようと思う。笑


 

こんな状態で幕を開けたトークセッション。

自分が入院中に経験したこと、障害の後遺症で体がどういう状態なのか、家族以外には話しづらいことも可能な限り喋った。


この講演会の目的は以下のことを知ってもらうことだった。

①車いすの学生が復学するということ

②頸髄(けいずい)損傷という障害について

③復学後の学校生活で手伝ってほしいこと


 ①と③に関して喋ることは自分の願うことだったため特に抵抗がなかった。


問題は②の内容だった。

前述のとおり目に見えない後遺症の恐怖が僕らを社会復帰から遠ざけている。



まず頸髄損傷になると損傷レベルによるが鎖骨から下の機能はほぼ麻痺を受ける。そのため僕も腹筋と背筋が麻痺しているため自分で体幹を保つことができない。簡単に説明すると背もたれがないとバランスをとり座ることができずバタンと倒れてしまう。大げさに言うとイカやタコのような状態だ。


また後遺症により、尿意、便意も失うことになる。

皆さんは尿が膀胱に溜まるとトイレに行くだろう。便意を感じるとトレイへ行き用をたすだろう。頸髄損傷になると、この両方の感覚を失う。 


この数行を読めばどのような状況になるか想像できるだろう。

つまり頸髄損傷患者は尿が漏れていようと便が漏れていようと感じることはできない。漏れたあとの匂いでしか知ることができないのだ。この排泄物の処理という問題は人間の尊厳に一番関わる箇所であり、頸髄損傷者が社会復帰する上で一番のネックになる。


授業中に便が漏れたら・・・

考えるだけで体中の血液が凍るような心地になる。


ここで皆さんに知ってほしいことは頸髄損傷者は単に立って歩くことができないのではなく、常に人間の尊厳に関わるような問題の恐怖と戦っているということだ。そしてこのようの合併症が社会復帰の妨げになっているということを知ってほしい。


幸い僕は退院後の立位を中心としたリハビリのおかげで、頚髄に新しい神経回路が構築されたのか、尿意と便意がわずかだが回復した。そのため外出中に大きな失敗をするこはほぼない。こういう意味でも新しいリハビリに取り組んでよかったと思う。


 

トークセッションではこのような内容を包み隠さず全て喋った。全てを喋ることはとても勇気のいることであり、どんな反応が返ってくるかとても怖かった。もしかしたら喋らなくてもいいことだったかもしれないが、学生の皆さんに僕の現状を知ってほしかった。


自分が勇気を振り絞り一歩を踏み出すべき時だと思った。そして大成功とは言えないかもしれないが、僕の思いを精一杯伝えたトークセッションが幕を閉じた。緊張の糸がほどけ体中の力が抜けていくような安心感に包まれた。


数日後-

実家へ戻った僕のもとへ、伊藤部長から荷物が届いた。その中身はトークセッション後に参加してくれた皆さんの感想文だった。どんなことが書かれているか不安で、封筒を開けることが怖かったが、恐る恐る封を開け感想文に目を通した。


するとそこには嬉しい言葉が並んでいた。


「喋りにくいことも話してくれて嬉しかった。」

「中村くんと一緒に過ごす日を楽しみにしています。」


心がほのかに温まり微笑みで頬が緩んだ。

素直にこのトークセッションをやってよかったと感じた。新しい一歩を踏み出す場合、そこには必ず恐怖がついて回る。

何かを手に入れたいのであれば、勇気を出してこの一歩を踏み出すしか他に道はない。言い訳をしようと思えばいくらでもできる。


しかし、それでは現状は何も改善しない。時間をもとに戻せないことを嘆くのではなく、一歩を踏み出す勇気を持ち、今できることをひとつずつ取り組むことが明るい未来を手に入れる唯一の方法だと感じた。



そして2年半の休学に幕を閉じ、第二の大学生活が目の前まできていた。



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