やりたいことがない若者は、田舎へ行こう!

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~人生で大切なことはすべて、粟島で学んだ~

「もうだめだー」


 その日、僕は倒れた。。。。








 「何でこんなに生きづらいんだろう?」


 「何で、毎年3万人以上も自殺者が出続けるんだろう?」


 「何で、こんな世の中なんだろう?」


当時の僕は思い悩んでいた。


 いわゆる「名門」と呼ばれる早稲田大学を卒業し、「優良企業」と呼ばれる一部上場企業に入社し、「いい大学 ⇒ いい会社 ⇒ いい人生」という、「エスカーレーター式幸せな人生」が歩めると思っていた僕は、社会に出て、社会の厳しさ、自分の考えの甘さを思い知った。


 大学までは、部活の同期の中では、頼られる存在だと思っていた。

 入社したときも、同期からは「困ったときの西畑頼み」「一家に一台西畑が欲しい」などと言われ、「自分はできる」「頼られる存在だ」と思い込んでいた。


 ところが…。


 いざ、新入社員研修が終わり、支店に配属になると状況は一変した。


「田舎がいい」「関東からは離れたい」と思っていた僕は、希望して福岡支店に配属された。

 ちょっと行けば海、ちょっと行けば山。食も豊かで、人柄もいい。

「福岡に来れてよかった」と思っていた。

 しかし…。



 いざ、仕事となると、先輩たちに比べて、何もできない自分がいた。


 メーカーの新人営業マンとして、ルート・セールスで販売店を回るも、何をしたらいいのかがわからない。ただ、お話したり、情報と思われるものを持って行って喜ばれても、それが売上につながっているのかわからない。そもそも、製品自体は勝手に売れていくような仕組みが既に出来上がっており、「自分はいなくてもいいんじゃないか」と、だんだんと思うようになっていった。


 そして、ちょっとしたミスの連続。生まれつき、短期記憶に苦手意識があった僕は、記憶をメモで補おうとするも、仕事量の多さ、情報量の多さについていくことができず、頭の中は常にパンク状態。自分が何をやっているのか、わからないようなモヤモヤした感覚を味わっていた。


 そして、連日の飲み会。

 先輩たちと、毎晩のように10時くらいから飲み始め、解放されるのは12時、1時が当たり前。

 朝は眠い目をこすりながら出社。お昼は極度の睡魔に襲われ、昼寝を欠かすことができなくなり、寝すぎて罪悪感に襲われることもしばしばだった。


 だんだんと、何のために生きているのかさえもわからなくなり、「ここから飛び降りたら楽になれるかも」と、マンションの13階にある自室から、外を眺めることも度々あった。


 「このままじゃダメだ」


 そう思った僕は、自分の軸を探し求めるために、2年で会社を辞める決意をした。





「軸」


 かつての僕には、「箱根駅伝」という軸があった。


 大学を卒業し、その軸がなくなって、「何のために生きているのか」わからなくなった。


 毎晩のように浴びるようにお酒を飲み、楽しさを求め、翌朝は眠い目をこすりながら出社。日中も、ただ何となくお客様を訪問する日々。


 意味が見い出せなかった。


 だからこそ、「改めて自分の軸を定めよう」と思って退社したのだった。


 そして、「熱い想いを持って生きている人に会いに行こう」と思い、興味のあるNGOやNPOに足を運び、熱い方々と出会う日々が始まった。


 




 最も長期間関わったのが、NGOピースボートだ。


 ここではまさに、熱い人たちとの出会いがあり、また、同じように悩んでいる若者との出会いがあった。


 ブッ飛んだ人では、小学校時代から学校に通わなくなり、中学入学前に、おじさんを頼りにメキシコに渡った同世代のレオくんがいた。


 元暴走族、元不良なんてざらだった。


 でも、みんな、過去は関係なく、今を、熱い想いを持って生きていた。


 「すげぇ!」「かっこいい!」という想いを持つ一方で、「自分とはどこか違うな」という気持ちは拭いきれなかった。


 他にも熱い想いを持つ人たちとの出会いがあり、一方で「自分とは違う」という感覚を感じながら、「自分はどう生きたいんだろう?」ということを突き詰めて考えていた。

 あっという間に半年が経過した。


 そんな中、ピンと来たのが教育だった。


 自分自身、学校教育が嫌いだったというのも理由の一つだったのかもしれない。

 特に中学校時代には、「何でもっと自由にさせてくれないんだろう?」とばかり考えていた。


 そんな自分だからこそ、「教師になって、もっとのびのびと子どもが育っていく環境を提供できれば、死ぬときに『いい人生だった』と思えるんじゃないか」と考えたのだ。


 それで、教員免許を取得するため、通信制の大学に入り直すことにした。




 通信制の大学で学びながら、教育現場で働くことも意識的に行った。


 1年目は、小学生の放課後児童クラブ、2年目は、不登校の中学生が通う相談室で学習支援員として働き、夕方からは塾で講師として働いた。


 教育学を学びながら、実際に子どもたちと向き合い、「どうしたら子どもたちがまっすぐ育つ支援ができるか」を考えていった。


 また、熱い先生方や、熱い教師の卵にも会いに行った。

 元中学校の体育教師で、陸上の全国チャンピオンを7年連続育て上げたカリスマ体育教育。

 元暴走族のヤンキー先生。

 一般人として、初めて東京都内の公立中学校長に就任された方。

 教師は教えず、子どもたちが主体的に学ぶ『学び合い』という授業スタイルを考案され、教えない授業を全国に広められている大学教授。そして、その実践者。


 熱い先生や熱い若者と出会うことで、僕も触発され、貪欲に学んでいった。




 一方で、既存の学校現場で働くことの限界も感じつつあった。


 「もっと自由に子どもたちが育っていける環境を提供したい」という想いがある一方で、「教師の役割は、まず、学校の秩序を保つことだ」という気付き。学習指導要領という縛り。大声を出して子どもを動かす先生方・・・。


 もっと自由に伸び伸び、楽しい日々を子どもたちと過ごしたいのに、それがすぐにはできそうにない状況。


 理想と現実の狭間で、僕の心は引き裂かれていった。

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