目の辺りにした津波で流される実家(宮城県亘理町)。親は大丈夫だろうか?猫は生きているか?しかし自分は中国の上海。なすすべがなかった・・

1 / 2 ページ

第一回「授業が終わり見たもの」


私、阿部は2011年当時中国上海の漢語学習留学生だった。実家は宮城県亘理郡である。2011年3月11日午後3時半、ちょうど上期の授業が開始されていた。「ふぅー!」疲れて家に帰り、ヤフーニュースを見たときであった。当時の日記をそのまま転記します。中国人の友人にもわかるよう日中の言葉で表現致します。非常に長いので読み疲れたらお休みくださいね!(笑)


3月11日

午後14時50分、私は口語の授業を終え、上海師範大学の学思園にある自宅へ戻った。ちょうど新学期が始まったばかりの時期で、その最初の1週間が終わった。私の履修科目は中二という比較的難易度の高い中国語課程であり、クラスには何人も中国語ペラペラの学生がいる。その中で半年を過ごさなければならない。事実その前の学期は中一という中級クラスの授業を履修していたが、自分のあまりにも低い中国語レベルに辟易して半分授業を放棄していた。前年の後半12月くらいは授業にも出ず部屋でギターの練習をしていたくらいだ。その為12月に受けたHSK試験(中国語検定)は散々な出来で終わってしまった。その前期の反省を踏まえ、心機一転新たなクラスにて授業を開始できる事を心待ちにしていた。
「あーあ、疲れた」私は教科書の入ったバックをベットの上に置き、部屋でしばしくつろいでいた。そういえば今日は金曜日、7時には友人と交通大学そばのライブハウスに行きロック演奏を聴きに行く予定だ。中国人のチェンという友人が無料のチケットを私にくれた。6時には食事を終えたらバスに乗って交通大学に行かなければならない。とりあえずまずはネットを見てそのライブハウスの場所を地図で確認しなければならない。私はパソコンの電源を入れネットに接続した。そしていつものようにヤフーのニュースを見ようとした。
最近ネットの開き具合が異様に遅いことに私はいら立っていた。何故なら世界中で勃発している近年の民主化運動の影響で、どうも中国当局の検閲が厳しくなっているような感じを覚えたからだ。特にヤフーの接続が非常に遅い。時によっては開かない日もあった。その中で今日はヤフーが開くかな?そんな希望の中ヤフーを開いた時だった。

ある一つのニュースが目に飛び込んだ。
「東北でM9の大地震発生。震源地は宮城県沖」
私は自分の目を疑った。


3月11日
下午14点50分,我刚下口语课了,我就回在上海师范大学的学思园自己的家。那时正好新学期开始了,最初的1周结束了。我学习的课程是中二的难易度比较高的中文课程,中文流利的学生比较多。我必须在那个班度过半年。事实上我上个学期在中一的课学习,不过,我感到对自己的中文水平不满意,常常不去上课。去年的后半12月我不上课在房间里练习吉他。为此考的HSK考试(中文审定)成绩也是不好的结果了。我开始反省去年的课,终于开始新学期了。
「啊啊!太累了」我一回家就我把有课本的书包放在床上面,在房间暂时放松了。今天是星期五,晚上7点我和朋友一起去交通大学旁边的live house去听摇滚演奏。我中国朋友给我那个live house的免费票。因为我必须6点吃饭后乘坐巴士去交通大学,所以首先看网络地图查那个live house的地方。我一打开笔记电脑就上网。我平时在家上网查阅雅虎的新闻。
我感到最近的网络的速度非常慢,原因在于在全世界上发生的民主化运动的影响。特别雅虎的连接非常慢。也有完全不打开雅虎的时候。
在那个情况下今天可以打开雅虎吗?我开雅虎的时候。一个新闻跳入了我的眼。
「在东北M9大地震发生。震源地宫城县海上」我怀疑自己的眼睛。


第二話「激震が走る」

そういえば母から昨日M5の地震があったとメールが来ていたからだ。それにしてもM9とはあの数年前のスマトラ沖くらいの規模ではないだろうか?津波が起きるはずだ。すぐにニュースの詳細を確認しようとしたが、ネットが思うように開かない。次の画面に進もうとしても「接続不能」の文字が出てしまうのだ。仕方がなくMSNの画面に切り替えた。そこにさらに悲惨な情報が飛び込んできた。「大津波が太平洋岸に到来」「各地にて津波被害」「推定8mの津波が宮城県沿岸に到達」
そこから別の画面に進もうとしたら、また接続不能の文字が出る。そしてとうとうなにも開かなくなってしまった。誰か学園の中でこのことを知っている人間はいるだろうか?私はある宮城県出身のクラスメートに電話を掛けた。
「TVのニュース見ましたか?宮城県沿岸でM9の大地震です。大津波も発生しています。」
しかしそのクラスメートは何も事実を知らなかった。そしてほかの人間にも電話をかけたが、だれも聞いていないとの話だった。なぜ日本人はこのことを知らないのか?
私は次に母に電話を掛けた。母は宮城県亘理郡亘理町に住んでいる。ちゃんと非難できたのだろうか?そして電話をかけたが全くつながらない。次に兄にも電話を掛けた。駄目だ。電話はもうどうにもならない。電話もダメ、ネットもダメ。他に方法があるだろうか?TVを付けた。しかし一般の中国放送のみで日本の情報が見れるはずがない。その中でCCTV(中国中央放送)の英語ニュースに接続できた。そこで見たものは世にも恐ろしい光景だった。大津波が宮城県名取市を襲い次々に家や田んぼを呑み込んでいく。その中継は上空のヘリコプターからであった。そして英語の記者が話をしている。「この恐ろしい光景は本当に日本で起きていることなのでしょうか?」名取といえば私の実家から10kmもない場所だ。これが事実だとすれば、実家はとうにやられている。海岸から僅か3kmしかないのだ。
私は頭を抱えた。ネットも電話も何もつながらない。もう手がないのだ。
「いったい日本で何が起きているのだ!!!」
海を隔てた中国にいる私にはもはや対処の方法はなかった。冷静になるしかない。気持ちを落ち着かせ、まず何をしようかと考えた。そうだ、今日はライブに行く日だ。まず友人の誘いを断らなければならない。そしてチェンにメールをした。「今日は大変な事が起きて行けない。チケットはどうすればよいか」彼女から返事が来た。「誰か行けそうな人にチケットを譲って」そんな・・・それはこの状況から見て無理だ。ではもうこのままチケットを放棄しよう。
その時だった。一通の電話が私に入った。電話の主は上海の新聞社にいる友人だった。
「大変なことになりましたね。身内の方は無事ですか」
私は答えた。「いやネットも電話もつながりません。何が起きているのかわかりません」
「そうですか。実は私の新聞社でも同様の事態が起きています。今外電を調べていますがなかなか詳しい情報が入ってきません。新華社やAPから入ったらお知らせしますね」
その新聞記者の友人の電話で少し心の落ち着きを取り戻した。とにかく何をすべきか何の手を打つべきか、冷静に考えるしかない。パソコンを操作してみたがネットの画面が地震の情報を映し出すことはなかった。
時間は刻々とすぎ、6時を回っていた。私は一つ方法を考えた。日本の友人に一斉にメールを流そう。もしかすると私のメールを社内や家から見ている人がいるかもしれない。そして私は次のような文書を友人たちに送った。
「今回の地震は大変な被害をもたらしています。しかし私は中国におり現在の地震の情報を入手することが出来ません。どなたか日本のTVなどを見られている方何でもよいので情報を頂けませんか?私の実家の住所は宮城県亘理郡亘理町・・・」
すぐに1通の情報が来た。東京都渋谷区に住む友人からだった。「実はTVでは全般的な内容しかやっておらず、宮城県亘理郡という特定の情報が入手できていません。何かあったら送ります。」次に別の人から来た。」東京の商社にいる元同僚だった。「私は地震の影響で東京の電車が全て止まっているため社内に暫くおります。何かあれば送ります。」
しかし、母や兄からの情報が何もない。いったい彼らは今どこで何をしているのだろう?ダメもとで兄の携帯にメールを入れることにした。何かあれば返事がくるかもしれないだろう。
ようやくネットの画面が動き始めた。なんと気仙沼市では漁港が大火事に見舞われている。その写真は実に生生しかった。陸前高田市、気仙沼市、南三陸町、石巻市は完全に町が水没しているとの情報が入った。そのネットから繰り出される写真はまさに地獄絵だった。私は何とか亘理町の情報を手に入れようと画面をのぞきこんだ。しかし亘理町の情報は皆無だった。8時、その時兄から1通のメールが入った。「実家が津波にのみこまれました。今から救助に行きます」
私はそのメールを読み錯乱状態に陥った。部屋の中をうろうろしていたうち、ついに何も考えず部屋を飛び出した。部屋の外はまさに平和そのものだった。その中で1人発狂状態の男性が学校の中をうろついている。まるで糸の切れた凧のような感じでふらふらと宿舎の外を歩いていた。
家庭教師のリリーに電話をしよう!そう思い電話を掛けた。
「リリー、僕だ、いま日本では大変な地震が起きている。僕の母が…母が…」
涙声になっていた。リリーは私に言った。「わかった。今宿舎に行く。あなたはご飯を食べたの?今から行くから待っていて」


我就想起来我母亲昨天发给我一封电子邮件。在邮件中昨天在宫城县发生M5地震。
就是那样M9规模的大地震相当于那个数年前的印呢苏门答腊海上发生的大地震吗?这应该发生海啸。我马上看新闻的详细,不过,网络一切打不开了。只在电脑的屏幕上「不能连接」的文字出来了。我觉得没有办法,所以我把网页转换到了MSN网页。
那里更加悲惨的信息跳入了。
「目前大津波来到太平洋沿岸」「各地受到海啸受害」「推定8m的海啸宫城县沿岸到达」

即使从那里打算前进,也再出来在画面上不能连接的文字。并且终于什么都开不动了。
谁在学校中知道这个事情吗?我就跟有的宫城县出身的同学打了电话。
「你看了电视的新闻吗?在宫城县沿岸发生M9大地震。海啸也发生着。」
可是那个同学什么都不知道。并且我给另外的人也打了电话,不过,谁也都没听到这样的消息。为什么日本人不知道这件事?我其次给母亲打了电话。母亲住在宫城县亘理郡亘理町。
她好好地避难了吗?可是我打了电话也完全打不通。其次我给哥哥打了电话。不行!
打几个电话都没办法了。电话也不行,网络也不行。还有其他方法吗?我看了电视。
可是在电视上只有普通的中国节目而没有日本的信息。只有CCTV(中国中央广播)的英语节目播放日本的信息。在电视节目上我看到了令人可怕的景象。大海啸袭击宫城县名取市一个接一个吞没家和稻田。那个画面是从高空的直升飞机播送的。并且英语的记者说。
「这个可怕的景象是真的在日本发生的景象吗?」这么可怕的景象在离我母亲的家只有10km的地方。如果这个是事实,应该是老家也被海啸袭击了。因为房子从海岸仅仅只有3km。
我抱了头。网络和电话都什么都不通了。没有办法了。
「在日本到底发生了什么事!!」
因为我在隔了海的中国已经没有应对的方法。只有用冷静的态度。我要把心情安定下来,想一想我首先做什么。对了,今天我要去看摇滚演奏了。我必须首先拒绝朋友的邀请。
我给朋友发邮件。「今天我有一个严重的事。给我的门票怎样办才好」她来了回答。
「你可以把门票转让给其他的人」我觉得在这么严重的状况下那样做肯定是不行的。我就决定放弃门票。那时,一个朋友给我打电话。是在上海的报社工作的朋友。他说「这次你遇到了这么严重的事。你家里人没事吗?」我回答了。「因为网络和电话都不通,我不明白在日本发生着什么事」他说「是这样的。其实我的报社也有同样的事情发生起来着。现在进行调查能不能通过外电受到详细的信息。如果从新华社和AP收到了信息就告诉你」
收到新闻记者的朋友的电话我心里稍微安心了。不管怎样是应该做什么,我只要冷静地考虑。我拼命地查网络的信息也找不了具体的地震信息。时间一刻一刻过,就到6点了。我想到一个方法。就是我给日本朋友发电子邮件。说不定有些人在公司里和家里看我的邮件。我就给朋友们发送了下面的文件。
「此次的地震带来严重的灾害。可是我不能在中国得到现在的地震信息。如果有人看到日本的电视收到具体的信息,不管什么都好能发给我信息吗?我老家的地址是宫城县亘理郡亘理町•••」马上1封信息来了。是住在东京都涩谷区的朋友。
「其实在电视上除了全部的内容以外没有你老家的信息,就是宫城县亘理郡的特定的信息没能得到。如果有什么发送给你。」其次其他人的邮件来了。他是东京商社的同事。
「由于地震的影响东京的电车全部暂时停运行,我还在公司看网络。有什么信息送给你」
可是,什么都没有关于母亲和哥哥的信息。他们现在到底在哪里做什么吧?
我决定发邮件到哥哥的手机。说不定他回给我邮件。不久我能看到网络上的信息。
在气仙沼市渔港遭受着大火。那个照片确实非常鲜明。陆前高田市,气仙沼市,南三陆町,石卷市的城市被海啸淹没了。那个网络陆续放出的照片确实是地狱的样子。我想办法无论如何地得到亘理町的信息。可是亘理町的信息一直没有。晚上8点,终于有哥哥的1封邮件来了。「我们家被海啸里吞没了。从现在开始去救助」
我一看那个邮件就陷入了混乱的状态。在房间里走来走去,然后什么都不考虑就出了房间。
房间外边确实是非常和平的气氛。那种只有一个人在精神错乱的状态。就好像是断开了线的风筝一样的感觉晃里晃荡地走来走去。我无可奈何地给家教丽丽打电话!
「是丽丽啊,我,阿部。我国家发生了严重的地震。我母亲…母亲…」
我的声音渐渐变成为含泪欲哭的声音。她跟我说了。
「明白了。现在我去你的宿舍。你吃饭了吗?我去见你好不好」


リリーがやってきた。私はもう彼女に今にも抱きつきたい気持ちになった。眼には一杯の涙を浮かべ、何一つ言葉が出なかった。彼女が私に言った。「あなたまず食事をしていないでしょ?まず食事にいこう。それから話をして何が日本で起きているのか教えて。」私は彼女に従い、近くの食堂で食事をすることにした。カレーか何かを頼んだが思うように食事が口に入らない、はいってものど元を通り過ぎてくれない。結局半分以上は残してしまった。食事中に彼女にいろいろ聞かれても「わからない、何が起きているかわからないんだ」としか言えなかった。実際ネットは良くつながらないし、電話はほぼ不可能、頼りになる情報は先ほど送った友人あてのメールの返信しかない。食事が終わり彼女と一緒に部屋に行った。部屋に入るとTVは事の重大さを認識したのか、地元の放送局でも日本の大地震の事を取り上げていた。そしてパソコンを見ると、そこには10通以上のメールが寄せられていた。皆具体的な情報を寄せてくれたのだろう。しかしよく見ると確かに情報は情報なのだが、ほとんどのメールにはユーチューブやツィッターのリンクが貼り付けてあったのだ。中国ではこの2つは全く閲覧ができないことを皆知っているのだろうか?そのうち部屋の電話が鳴った。電話機を取ると、声は昨年一緒に上海で勉強していた日本人の学生であった。彼女は兵庫の三田に住んでおり。95年の阪神淡路大震災を経験している人だ。「どうですか?お母さんの安否はわかりました?」そう彼女が聞いたが「なにもわかりません」としか言いようがなかった。事実兄は現地へ向かっているようだし、連絡が取れるほどの通信状態に現在の日本は置かれていない。すると彼女は言った。「日本の安否伝言ダイヤルに電話してみましょう。お母さんの名前を教えてください」というと私は母の名前を教えた。そして電話を切った。23時、TVではもう日本の地震津波のニュースで一色になっていた。リリーは私に言った。「私は帰るけれど明日また来る。今日は酒など飲まずにゆっくり休みなさい・あなたは疲れているのよ。」そういって彼女は去って行った。しかし酒を飲まずにとても寝れる状況ではない。先ほど買ってきた白酒を飲みながらニュースを見た。TVでは気仙沼の漁港が煌々と燃え続けている画像を流し続けていた。あたかも戦争中に空襲を受けた日本の東京を彷彿させるような状況であった。目の前で信じられないような状況が繰り広げられていたが、私は母の安全だけを信じ床に就くことにした。すでに翌日の2時を回っていた。


不久丽丽来了。我一看她就好像有马上抱住她的心情。我眼睛热泪盈眶,一个话也没说不出来。她对我说了。
「你没吃饭了?首先你要去吃饭。然后给我说说什么在日本发生的事情。」我听她,我们去宿舍附近的食堂吃饭。我点咖喱饭可是由于受了冲击什么都也吃不下去,结果剩下了一半。我们在吃饭时,她问我在日本发生的事情,但我只能说:我什么都不知道,什么都不知道。」实际网络不能连接,电话也打不通,只能依靠我日本朋友发给的回信。我吃好以后与她一起去我的房间。一进入房间,就看到在电脑上播放着日本的大地震的新闻。并且能看笔记电脑,有10封以上的邮件到了。这些都是大地震的具体信息。
我好好地看了日本朋友发送给我的邮件,不过大部分邮件都是you tube twitter等连接粘贴的。大家都知道在中国看不到这两个网络吗?不久房间的电话响了。我接电话,声音是去年在上海一起学习的日本学生。她住在兵库的三田。95年的阪神•淡路大震灾的时候她也遇到了严重的灾害。「现在怎么样?你收到妈妈的信息吗?」我回答「什么都不知道」。
事实上我哥哥好像去了灾害的现场,而且现在的日本的状态还是不能随意通讯。于是那个朋友说。「你知道日本NTT的平安与否确认服务吗?我马上就打电话吧。请告诉我妈妈的名字」我告诉他母亲的名字。然后我挂了电话。晚上23点,中国电视节目陆续播放日本的地震和海啸的新闻。丽丽告诉我了。「我回家了。可明天再来。今天你不要喝酒好好地休息吧。你实在太累了哟。」她这样说就走了。可是我不喝酒怎么能好好睡觉呢。所以我一边喝酒一边看电视或网络。在电视新闻上有气仙沼的渔港持续燃烧的画像。这简直好像在第二次战争中,被美空军轰炸的日本东京的状况一样。我无法相信眼前一切的状况,不过,我一直相信母亲是安全的。时间已经到2天的2点了。


3月12日

9時に目が覚めた。ネットを早く見ようと二日酔いの頭でパソコンのスイッチを開けた。何か昨日より幾分つながりやすい。そしてヤフーを開けると、昨日と同じようにニュースは全て大地震や津波のニュース一色となっていた。ただ、その時私は1つ気になるニュースを見かけた。そこには昨日のニュースとは別の内容で「福島第一原発の減圧作業を開始」とあった。減圧作業?この場に及んで原発の減圧とは何か?地震と関係あることだろうか?ニュースを開けると原発の配管内に閉じこもった水素ガスを抜く作業という内容で書かれていた。つまり、何かの理由で配管内のガスが高濃度化し、逃がさないと危ない状況になっているというのか?しかし何が原因だろう?他の情報を見ても何も書かれていない。ヤフーのニュースだけそれが書かれてあったのだ。不思議だ。何が起こったのか?私は宿舎を出て朝の運動場付近を歩きながら考えた。
「減圧作業をするということは何を意味するのか?考えられる事はいくつかあるが、何らかの要因で原発が損傷したということになる。何故なら通常の運転では圧が溜まらないように中の装置が絶え間なく循環しているからだ。ガスが充満しているということは何かの原因で原発内の装置が停止しているとしか考えられない。これ本当だとすると、やばいことになるぞ。地震が原因か?津波が原因なのか?」
1人で黙々と考えていた。事実私は過去配管の設置業務を以前の会社で担当していたこともあり、比較的知識は持っている。また20代の頃に原発の仕組みを勉強したこともある。それにしても今度は福島で何が起こっているのか?あの場所も地震と津波は受けているはずなのだ。しかし新しい情報が何も来ない。いったい日本はどうなってしまったのか!!
11時にリリーから電話があった。「食事をしよう」私は一緒に学内の欧米レストランに行った。スパゲティを食べながら会話をした。「まだお母さんは見つからないの」そういう言葉に素直に「はい」というしかなかった。事実東日本自体が極度の被害に遭い、私の友人たちも自らの生活に追われ私に構う余裕などなかったからだ。朝のメールはたった2通にとどまっていた。
私とリリーが部屋に入り、TVのスイッチを付けた。すると中国のメディアはなんと日本の原発に関するニュースをやっているではないか。やはり朝見た「減圧作業」の記事はここから来ていたのか?あわてて私はネットを覗いた。すると「福島第一原発で白い煙が発生している】とのニュースに私は驚愕した。いったい何が起きているかすら想像の域を超える事はなかった。ネットのメディアもあまり詳しい状況を報道していなかった。それなのに中国のTVは既に原発損傷のニュースを報道している。これは一体どういう事なのか?「日本の原発で何が起きているの?」リリーが言うので、私も想像の中で白板に絵を描きながら原発の構造について簡単に説明した。しかし彼女はあまり理解していなかった。無論、私自身が何が起きているかわからないのに何を説明しろというのだ?「たぶん大事には至らない」としか言えないではないか?
2時になって彼女が帰った。私はTVを消し、少し昨日の疲れた体を休めることにした。そういえば昨日は白酒を飲んだのに6時間しか寝ていない。おまけにあの地震津波だ。母の何の安否情報すら確認出来ていない。さすがに疲れた。机の上でうとうとしていると、リリーから電話が入った。
「なんだよ」と私が言うと彼女が絶叫した。「爆発よ!爆発した!あなたTV見ていないの?」
私が慌ててTVのスイッチを入れた。すると中国のTVがあの福島第一原発一号機の爆発シーンをありありと報道しているではないか!
なんということだ!これを本当に信じるべきなのだろうか?絶対に事故は起きないと豪語した東京電力の福島第一原発が私の目の前で爆発しているのだ。しかも白い煙を上げながら。これは広島なのか長崎なのか?それよりももっと大きな事件に違いない。これで日本は終わってしまうのだろうか。夢なら覚めて欲しい。母の消息も分からないまま、今度は兄や身内、友人たちへの気遣いをしなければならなくなった。はたして次は何が起きるのか?今度は東京仙台が吹っ飛ぶのか?神は何の恨みがあって日本にこれほどまで過酷な仕打ちを課すのか?これは大変なことになった。

3月12日

早上9点醒来了。我有点宿醉的状态地打笔记电脑上网。今天的网络比昨天连接得容易。
并且雅虎的网络好像与昨天一样在网络中全部有关于大地震和海啸的新闻。可是那种是一个与其他新闻不同的新闻。我看着那个新闻。那里有「福岛第一核电站正在进行减压工作」。的文章。减压工作?核电站的减压工作是什么?为什么核电站进行那种工作?这是与地震有关的工作吗?我再看这个新闻,据说,在核电站的配管内充满了氢煤气,所以进行排气煤气的工作。这是由于什么原因配管内的煤气变成高浓度,除非排掉这些,不然核电站面临危险的状态。有什么样的原因呢?我查阅其他的信息也没有什么与这个同样的信息。这个信息只在雅虎的网页里。真是不可思议。发生了什么事?我出了房间一边在运动场附近走一边考虑。
进行减压工作到底是什么意思?我考虑到几个原因,说不定核电站由于什么原因损伤了。就是说如果没有特别的原因,核电站的配管设备通常不断地循环下来以免在配管里产生高压的状态。配管里有充满煤气的状态意味着由于什么原因核电站内的装置可能停止了。如果这是真的话,将是非常危险的事。这是地震的原因吗?还是海啸的原因吗?
我一个人一直考虑这件事。说实话我以前在东京做过与配管设置有关的工作,我对配管设备比较熟悉。并且我20岁的时候学过核电站的设备的知识。所以我非常担心在福岛发生了什么事?那个地方应该受了地震和海啸等灾害。可是没有什么具体的信息。在日本有什么样的事情?
11点丽丽给我打电话。「一起吃饭吧」我们一起去了学校里的欧餐厅。我们一边吃意大利面一边聊天。她说「你妈妈还没找到吗?」我只回答「没有」。事实上东日本地方受了严重的灾害,我朋友们也关心我,因为他们也应该照顾自己。我早上只收到了2封的邮件。吃完以后我和丽丽进了房间,我一开电视就看到与日本的核电站有关的新闻!这个新闻是与早上的时候看的「减压工作」的报道一样吗?我非常惊讶地凝视网络。在网络上有「在福岛第一核电站有白色的烟」我吃惊了。在那个地方发生的任何事也没超过我想象的范围。
网络的媒体也没有详细的状况。尽管如此中国的电视台已经播放核电站损伤的新闻。这到底是怎样的事?「在日本的核电站有什么事发生?」丽丽说,我把自己的看法在白板上给她一边画画儿一边简单地说明一下。可是她不能理解。因为我也不明白在那个地方什么样的事情发生了。我只能说「没有什么大不了了」2点她回家了。我决定关电视,休息了。我非常累了。因为我昨天喝了白酒只睡6个小时的觉。而且那样的地震和海啸发生。即使我找母亲的信息也什么都找不到。在桌子上我迷迷糊糊的时候,丽丽突然给我打电话了。
我跟她说「有什么事?」她喊叫了。「爆炸哟!爆炸了!你没看电视吗?」
我惊慌地开电视。在中国的电视上清清楚楚地上映那个福岛第一核电站一号机的爆炸情景!
是什么事!怎么能相信这个情景?我眼前有东京电力的福岛第一核电站爆炸的画面。!而且那边一直冒着起白色的烟。这里是广岛还是长崎的?这里比那些地方肯定是更大的事件。这样的话日本结束吗?我希望要是梦醒。我不仅仅担心我母亲,而且要担心哥哥和朋友们。下次到底发生什么事?难道东京爆炸吗?上帝为什么给日本这么残酷的行为?这真是严重的事。


そして何とかネットで亘理町の情報を手にすべく、つながりにくいネットにて検索作業を開始した。何か必ず情報があるはずだ。家や沿岸部がどうなっているか1つや2つくらい情報があってもよいだろう。そのうえで母がいるだろと思しき避難所に日本から探しあててもらえばよいのだ。おそらく何とか見つかるだろうと。ただもしネットでの情報を1日中探し続けることになれば、学校の授業は全て犠牲になる。これはもう仕方がない。1か月くらい勉強が出来ない事は覚悟しなければならない。
そして作業が始まった。日曜もネットにくぎ付けになった。しかしなかなか亘理町に関する情報が見つからない。あまりに地震の被害範囲が広すぎて個別の地域情報が見つからないのだ。「2チャンネル」にある地域版「東北地方」を開くともはやネット情報が全て人探し情報に変わっていた。「宮城県亘理郡の情報がありません。荒浜地区の情報を提供してください」「山元町の事誰か知っている人はいませんか」中には涙を流しながら書いている掲示板まであった。みんなどんな心境なのだろう?恐らくここに書かれている情報は全て県外者が書き込んでいるもので、地元はネットの通信まで不通になっているのだろう。まるで遠く砂漠地帯に連絡を取るような感覚に近い。ましてや中国にいる私が簡単に情報を捜し当てるなんてほぼ不可能な事なのだ。この苦境を打破するには、人と人との連携しかありえないだろう、と私は思った。

日曜日の夜兄からメールが来ていた。「母を探しに東北本線で宇都宮まで行きましたが、そこからは自衛隊の車両しか入れません。道路はところどころ陥没しており、橋が落ちている場所もあるとのこと、宮城県へ行く手段がないため、東京も引き返しました」
つまりもう自衛隊や消防の連絡を待たなければ、何も情報が入らないという事なのだ。他に手段はない。やはりネットでできるだけ詳しい情報を手に入れるしかないのだ。そんな中日曜の明け方5時までネットでの検索作業に明け暮れた。中国のネットは夜中が一番つながりにくく、深夜明け方が一番つながりやすい。こうなれば昼間寝て夜中ネットをするしかないのだ。こんな生活が実際10日間以上も続くとはあの時まさか思わなかっただろう。

为了收到具体的亘理町,我开始了检索工作的网络连接得慢。在网络里面应该有具体的信息。在网络里对关于我房子或海岸部的情况只有一两个左右的具体信息都行。而且我可以搜索现在母亲住在的避难所就行了。我一定找到些信息。可是如果我整天继续寻找网络的信息的话,我不能上学校的课。可是没有办法了。我下决心有大概一个月的时间不上课。所以开始搜索了。我星期日也一直看网络的信息。可是怎么也找不到亘理町的信息。因为由于地震受害的范围太宽广所以具体的地域的信息找不到。我在「2频道」中看到地域版「东北地方」的网络信息都是寻找人信息。
“找不到宫城县亘理郡的信息。务必提供我荒浜地区的信息!””有人知道山元町的事吗”有那种一边流眼泪一边写文章的人的公告牌。他们到底是怎样的心境呢?恐怕在这里写的信息都是县外者写的信息,应该是本地人不能学因为那里的网络完全不通。那好像是靠近沙漠的地方一样的感觉。何况是连住在中国的我也不能简单地搜寻到这种信息。我想要打破这个困境,而且我认为人和人的合作是最重要的。星期日晚上我收到了哥哥的邮件。
“为了寻找母亲我坐火车去宇都宫了,不过,从那边除了自卫队的车辆以外其它的车不能进。道路到处发生塌陷,连桥也掉下来了。所以没有办法去宫城县,我回东京了」
就是除非我们等自卫队和消防的联络,否则一封都收不到日本东北的信息。没有其它方法。
我们目前只能通过网络得到尽可能详细的信息。于是我那天到第二天的星期日黎明5点一直查网络了。中国的网络有晚上时连接得最难,深夜黎明时连接最容易的。就是我要过白天睡觉夜晚上网的生活。我没想到从那以后10天多只能过这样的生活。


3月13日

朝は数本の電話で起こされた。まずは師範大学事務室のヨウ老師からであった。彼女は大変私のことを心配してくれた。そののち留学生センターから電話が入った。留学生全体のビザ対応を担当する男性だった。「あなたは確か宮城県出身であることをこちらのデータベースで確認しました。よろしければ今日昼の時間でも留学生センターへお越しいただけませんか」
次に日本人の取りまとめ役である渡辺氏から電話が入った。「火曜日の13時にICCS303室で日本人の会合がありますから来てください」
明け方5時までネット検索をしていたのに、朝9時から電話が入りとても寝ていられる状態ではない。しかし学校はみな自分のことを心配してくれている。その為にも何とかしなければならない。
昼間留学生センターに行き掲示板に「人探し」という名目で張り紙をした。日本語中国語英語の3か国語で書いたが「何か今回の地震で情報を持っている方、私に情報を提供してください。母が見つかりません」
14時に留学生センターで打ち合わせに行った。師範大の対外語学院の責任者の老師が出席された。他にも日本人が数人出ていた。私は素直に「母の消息がわかりません」というと、老師たちも「学校も全力を挙げてあなたに協力します」と言って下さった。そして数人の日本人とも協力を誓い合った。
家に帰るとまたネットでの情報検索が続いた。同時に福島宮城茨城3県の風向きを探していた。原発が爆発したため、放射性物質がどのように流れたか、日本の気象庁のデータを集め計算を始めた。ロシアのチェルノブイリ事故のときも風向きにより、様々な場所で放射線量の著しく高い「ホットスポット」という地域が現れたからである。その計算によると第一原発1号機の爆発から風向きが北西西の流れで動いていたことが分かった。たぶん地図上では福島市付近に風が流れた計算となる。ここ3日間の風向きや雨情報を兄にメールを流した。
ネットでの検索作業は極めて難航した。まず亘理町の情報が全く入らない。ネットでは福島、宮城県気仙沼市、石巻市、岩手県沿岸の情報ばかりが目についた。その日ようやく亘理町の隣町である山元町の情報が手に入った。山元自動車学校の送迎バスが津波にのまれ、中にいた生徒全員が亡くなったとのことだった。「ああーもうだめか」その時私は完全に落胆していた。山元がこのような状況では、海により近い亘理町にある実家付近はおそらく壊滅しているだろう。しかし、もし母が助かる可能性があるとすれば次の幾つかの原因が存在する。すなわち①地震が起き津波警報が鳴り津波が来るまで1時間は最低あること②車で逃げず、歩いて近くの小学校に行くこと。あそこなら5階建ての建物だから逃れる事が出来る③津波が起きた時点で家におらず、内陸部へ買い物等で出かけていることなどなど。おそらく地震が発生した時間が14時45分程度だから、買い物に行く可能性がある。母がよくいくスーパーはかなり内陸にあるから、タイミングが合えば被害は受けていない。ただその場合、実家の猫のミーは犠牲になっているだろう。一体どういう動きをしていたのか?通信が完全に遮断されている宮城県でどうしたら具体的な情報が手に入れられる事が出来るのか?
月曜は非常に疲れていたため、夜のネット検索は夜中2時で切り上げ、就寝した。


3月15日

地震発生から5日が経過していた。この日は一応授業に出て老師に現状を報告しなければならない。閲読の授業の終了間際に出て老師に現状を伝えた。「暫く授業は出れません。日本の地震津波のため、いま母を探しています。」同学が皆教室から出ていく中、私も最後に教室を出ようとしたとき、1人の女性から声をかけられた。「さっき聞いていたけれど家族の人は大丈夫なの?」その彼女はソフィアといい、ベネズエラからの留学生だった。親身になって話を聞いてくれる彼女に対し、私は教室から部屋に帰るまで歩きながら実情をすべて話した。彼女は私の部屋の近くに旦那と一緒に住んでおり、何かあれば協力すると言ってくれた。
13時、ICCSの303教室に入った。今日は日本人向けの説明会が開かれるとのことだった。私以外にも恐らく東北関係の人間がいるに違いない。何か生の情報が手に入ったら、という期待があった。ヨウ老師が話し始めた。「いま日本は大変大きな地震や津波に見舞われていると聞きました。何か私達学校側で皆さんの協力が出来る事があれば何でもおっしゃってください。」
私はヨウ老師に聞いた。「私はFビザ出来ていますが、もし日本に帰る場合、東京の中国大大使館でなくてもビザの再申請が出来ますか?」
ヨウ老師が答えた。「中国側でビザの申請をしてから帰国した方がよいと思います。」
もう一つ聞いた。「いま日本の空港は中国人の帰国ラッシュで大混乱しているとの話ですが、例えば福岡の空港でも同じような状態ですか」
ヨウ老師に代わり別の老師が答えた。
「いま現状を話ししますと日本の各地の空港はみな大混乱です。恐らく日本へ一時帰国できても中国への再入国は暫く難しいと思います。」
そんな話をしている中、私を除き日本人の誰からも質問がないことに気が付いた。もしかすると東北に関係のある人間は私ともう1人の留学生かもしれない。そして会合が終わると、彼らは異口同音に「飯食べた?」「今日はどこで遊ぶ?」「今夜さ、あいつのところで酒飲もうよ」と話し出したのだ。つまり、彼らはみな西の出身で誰も家族が被害に遭ったということがないのであろうか?不思議だ。私は数人の日本人に「会合後にちょっと話があるから残っていて」といった。会合後私は学校関係者から質問攻めにあい、もみくちゃ状態で質問に答えていた。しかしその質問が終わると、何と会場に1人の日本人も残っていないことに気が付いた。あれだけ会場に残っていてくれと嘆願したのに、あたかも自分とは関係ないとわかればどうでもいいのだろうか?なんという人間たちなのだろう?この国家非常時に、何一つ今回の地震に関心を持てないのであろうか?本当に彼らは日本人なのだろうか?私は信じられない。そしてひどい孤独感に陥った。
もういい、私1人で母を探し出してやる。その為にはどんな手段でも使おう。家に帰るとネットの作業を開始し始めた。夕方お腹がすき、ふらふらと部屋の外に出て食事を買いに行こうとすると、後ろから声をかけられた。クラスメートのソフィアだった。隣に男性がいた。男性は中国に来たばかりで言葉が自由に使えないため、英語で話しかけた。私が英語で対応すると彼らは遠慮なく英語で会話を始めた。昼に日本人のあの態度に絶望感を抱いたため、彼らの助けはとてもうれしかった。
ソフィアが聞いた。「家で、twitterで調べていないの?」
私が答えた。「できないよ。だって中国ではtwitterは無理だろう」
ソフィアが答えた「出来るわよ。部屋にいらっしゃい」私は彼ら夫婦に案内され、部屋に入った。部屋には大きなパソコンが2台あり、それぞれ使ってもよいと言われた。私はPCで検索を開始したが、やはりtwitter は無理であることが分かった。それでも、彼らは私に言ってくれた。「こちらでも検索してみるから何か必要な検索事項があれば教えて。」
私は彼らに感謝をし、必要に応じ検索をお願いすることにした。私は部屋に帰り、パソコンを開け、ある掲示板で情報を確認していた。すると、1つ興味のある記事に出会った。「日本の国土地理院が宮城県上空での撮影に成功し、公開」もしかすると亘理町上空の写真が手に入るかもしれない。私は喜び、サイトをクリックした。しかしエラー表示が出てみれない。やはり中国でこの写真を見る事は不可能なのだろうか?それでも何回もトライした。全く開かない。そこで開きやすくなる夜中12時の時間を狙い開くことにした。
12時再度挑戦してみたがやはり開かない。もうだめか、と思っていた矢先少しずつ画像が開けるようになった。そして10分後に宮城県亘理郡荒浜地区の写真がようやくすべて開くことに成功したのだ。私は大きな画像を海側から丹念に観察した。確かに海側2km程度は完全に全てやられていた。しかし、その時、実家のある地域は家が全壊しておらず建物自体も残っていることに気が付いた。これはもしかして、と希望を持った。そして鳥の海側からゆっくり画像を見ていき、家の路地付近が確認出来ると、その隣の建物が実家であることに気が付いた。何と家は水没こそしても建物は残っていたのだ。やった!これは発見だ!すぐさま家の周辺図をトリミングして、兄と親戚にメールで送信した。メールにはこう書いた。「この写真を見ると家は残されています。推察するに、津波で一気に流されたほど波の勢いはなかったことがわかります」もしかすると津波発生からしばらくの時間はあったかもしれない。そうであれば母が避難する時間は十分にあった可能性がある。今度は亘理町荒浜地区での津波到達時間を探せばよい。そう思っているうちに睡魔が襲ってきて、3時には寝てしまった。

3月15日
自地震发生以来5天过去了。这天我上课告诉老师。阅读的课下课后,我就告诉了老师自己的情况。「我暂时不能上课。因为在日本发生地震海啸,现在我在寻找母亲。」在同学都陆续走出教室中,我也最后出教室的时候,一个女生向我打招呼。「刚才我听着,你家里人没事吗?」那个女生叫索非亚,来自委内瑞拉的留学生。因为她很关心地听我说的话,我从教室到房间的时间一直告诉她了我的情况。她和丈夫住在一起我的房间附近的房间,她跟我说如果有什么事就配合我。
下午1点,我去在ICCS的303教室了。
今天据说,对日本人召开说明会。我觉得在那里肯定有来自日本东北的人。就是可能收到日本大地震的具体信息。我一进去教室尢老师就说话了。「听说现在日本遇到非常严重的大地震和海啸的灾害。我们学校会给大家帮助,不管什么情况都请说。」我问一下尢老师。
「我现在有F签证,不过,如果我回日本,我不去东京的中国大使馆。去别的地方的中国大大使馆,能再申请签证的吗?」
尢老教师就回答。
「我想最好的办法是在中国提前申请签证以后回国。」我再问一下。
「听说现在日本的机场由于有很多中国人,在大混乱的状态,不过,如福冈机场也是同样的状态吗?」别的老师代替尢老师回答了。
「现在在日本各地的机场都有大混乱的状态。我想即使你可以回国也不知道你能不能再回中国来。」
在那样的话中,我发现除了我没有日本人表达自己的意见。也许来自日本东北的人一个人也没有。并且散会后,他们异口同声地说起来「饭吃了?」「今天在哪里玩?」「今夜,在那个家伙的房间喝酒吧」等等。总之,他们都是来自日本西部的人,所以不要担心自己家里人的事吗?因为日本西部没有遇到受了那样的灾害。真是不可思议。我跟几个日本人说「我有事跟你说,散会以后在这里留一下,好不好」。
散会后我跟学校老师谈谈,乱七八糟地回答了。可是那些问题结束后,一个日本人也没有在那里了。虽然我要求他们留下,反正与我的关系无论如何也不在乎吗?
是什么人呢?在日本面临着这么严重的危机时,什么都没有关心吗?
他们真是日本人吗?我无法相信。并且陷入了严重孤独中。不管怎么说,我一个人找母亲。为此无论要用怎样的手段也找到母亲。我回家开始搜索网络。
那天晚上我非常饿,我出房间然后走外面的的时候,后面有人打了招呼我。
就是我同学索非亚。还有一个他丈夫。他因为刚刚来上海所以他几乎不会说中文,我们用英文一起谈。我用英文说他们也没客气地说英文。因为白天我对日本人的态度有些绝望的感觉,我对他们的帮助非常高兴。索非亚问我了。「你在房间用twitter吗?」
我回答。「没有。在中国不可以用twitter吧?」索非亚回答「可以啊。你来我们的房间看一下好不好」我接受了他们的邀请,进了他们的房间。在房间里有大的两台电脑,他们俩使用。我开电脑搜索,不过,我还是不可以用twitter 。尽管如此,他们跟我说。
「你有什么问题我们帮你,随时告诉我们。」我对他们表示感谢。
我一回房间就开电脑,开始搜索信息。我终于找到了一有趣的信息。
「日本国土地理院正在宫城县高空上成功摄影,给大家公开一下」说不定我可以找到亘理町高空的照片。我感到高兴,接下来我单击了网站。
可是在网页上又出现错误的表示,不能连接网络的照片。我还是不能打开照片吗?尽管如此好试了几次。还是打不开。我决定在那天的12点再试打开。12点几次再试着也试打不开。我觉得还是没有办法,可那时画面渐渐出现了。于是大概10分种后我成功打开宫城县亘理郡荒浜地区的航空照片。我仔细地查着那张画面。看照片我知道在海岸的2km范围什么都被淹了。可是,看老家的地方,有些建筑物没被淹了。这是什么样的事。我有着希望。然后我从鸟之海的地方慢慢地看着画面,我确认看老家附近的小路,而且看到老家附近的建筑物。我以为老家被海啸冲走了,可老家的建筑物还在那边。有了!这是我家!我高兴了!我马上把家的周边图片剪裁一下,然后把这个送给哥哥和亲戚了。我在邮件上写下来了。
「你看在这个照片上家还在。我推测,虽然海啸一口气冲走我们的房间,可我觉得海啸的水势不那么强。也许是海啸发生以后有一段的时间。就是查到母亲避难,可能有充分的时间。
这次我通过网络,找寻在亘理町荒浜地区的海啸到达时间就行了。由于我那样想了想就非常困。早上3点睡觉了。


3月13日
早上我被几个电话吵醒了。首先师范大学事务室的尤老师给我打电话了。她非常担心我。
不久留学生中心给我打电话。是负责留学生处理签证的老师。
「我现在通过办公室的留学生数据进行调查有没有宫城县出身的学生。你老家在宫城县吗?如果今天中午你有时间的话能不能来留学生中心」后来作为日本人班长的渡边先生给我打电话。
「星期二13点你可以来ICCS303室吗?ICCS召开日本人的会议」
虽然我昨天晚上一直上网,早上9点接电话就是没有时间睡觉。可是学校的老师非常担心我。
为此我必须告诉他们。我下午去留学生中心把自己的广告贴上公告牌。我写的广告用日语和中文和英语3国语言「有什么地震和海啸的信息,请提供我信息。我母亲没找到」
我13点去留学生中心跟日本人一起交流。那时侯师范大的对外语学院的负责人出席了。
大概4个日本人也参加这个会议。我坦率地说「还没收到母亲的消息」,老师们跟我说「学校会尽努力帮助你」。并且我们日本人一起做出相互帮助。我一回家就开始上网搜索日本的信息。
同时我查福岛宫城茨城3县的风向。因为核电站爆炸了,放射性物质吹向哪个方向,我按照日本气象厅的数据开始计算。俄罗斯Chernobyl事故发生的时放射能的专家们根据天空的风向进行调查,于是他们发现在各个地方有核辐射量太高的「hot spot」情况。根据气象厅的数据我明白了爆炸风从福岛第一核电站1号机向西的方向流去了。风向越来越靠近在地图上福岛市附近的地方。我把这3天的风向和雨信息发给哥哥。我继续查网络的信息也没有什么进展。在网络上没有亘理町的信息。在网络上只有福岛,宫城县气仙沼市,石卷市,岩手县沿岸的信息。当天我好不容易地查到亘理町旁边的山元町的信息了。据说,驾驶驾校的校车被海啸吞没,其中坐车的学生都死了。「哎呀-没有办法吧」那时我完全失望了。
在山丘也这样的状况下,恐怕海近的亘理町也被海啸毁灭了吧。可是,也有母亲被救的可能性,,下面有几个原因。

①发生地震到海啸警报响,海啸来到之前至少有1小时②如果不开车,走去附近的小学校。
那个建筑有5层比较安全③发生海啸的时候母亲不在房子里,母亲去内陆部的商店买东西还行。恐怕地震发生了的时间是14点45分左右,她可能去买东西。
母亲常常去内陆部超市,如果那时侯她在内陆,没受灾害。可是在那个情况下,母亲的猫可能会死。那时侯他们到底在做什么?在通讯完全被断的宫城县我怎样收到具体的信息?星期一我非常累,夜晚的上网晚上2点结束,就寝了。


3月16日

地震が来て6日目。その間にも様々な事があった。日本にいる友人たちの大半は私に協力的だったが、一方で被害に遭ったと聞いた時点で音信不通になり姿をくらますものまで出てきた。その中には数年以来の付き合いをしてきた友人もいる。このことは私の心に大きな影を落とした。私の付き合ってきた人間関係というのは、本当に浅はかなものであったに違いないと思った。たぶんそういう人たちは、私がとても好調の時には喜んで手を差し伸べるのであろうが、いったん形勢が悪くなると一斉に関係を切るという特性があるのであろう。私は今まで生きて生きた人生の中で、友人の選び方を間違えていたことに気が付いた。もうこのような人たちと付き合いをするのはやめよう。やはり友は本当に信頼関係がありいざとなった時に頼りになる人こそ友達といえるであろう。
 水曜にある人からメールが届いた。上海の留学をあっせんしてくれた業者の担当者である。この方がメールを私に送ってくれた。
「何かお困りのことがあったら、私たちのできる事であればお手伝いします。」
私がメールを送った。
「実は中国では twitter, facebookが見れません。もしできるならこれらを使い、宮城県亘理郡の情報を集約してワードかエクセルに落として送っていただけないでしょうか。」
 すぐに担当者からメールが来た。
「わかりました。どこまで具体的な情報が入るかどうかわかりませんがやってみましょう。」
それを見て少し私は安心した。何せ中国各地どこからも情報が調達できない中、やはり頼りになるのは日本の情報のみであったからだ。
 その間にもネットでの検索は続けられた。とにかく亘理町に関する情報が少ない。果たして実家付近の住民は救助されたのかどうかすら、何もわからない。あくまで推察の範囲でしか判断できない。一体亘理町はどのような状況なのか?何人亡くなって何人助けられたのか。
  1つ興味深い情報が見つかった。「2チャンネル」の東北版に遭った記事だ。
「この前荒浜地区から救助された友人が言っていた。地震が発生して津波が来るまで随分時間があったそうだ。避難所にたぶんいるはずだから皆安心しろ」
 これは本当か?だとすれば母が助かる可能性は非常に高い。あの航空写真から見ても港付近の住宅建物は壊滅的被害を受けているが、実家周辺は建物が多く残っている。あくまで推察だが、津波で一気に流されたという雰囲気には見えない。恐らく津波の一波が来るまで推定1時間以上はあったに違いない。母が家でもたもたして逃げなかった限りはあの場所を必ず脱出しているはずだ。それだけ母の判断力そして行動力は年齢以上のものがあるはずだ。もっとネットで調べてみよう。
 その時あの東京にある留学斡旋会社からメールが届いた。「twitter で調べた亘理町関連の情報を送ります」見ると添付ファイルにワードがあり、事細かく亘理町の情報が掲載されていた。その数30頁!私は必死になってこの情報を見た。確かに身内探しの情報は多いが、ポイントポイントに亘理町の状況が手に取るようにわかる。つまりわかったことは①電話のネット局が崩壊し、電話がつながらない②亘理町の避難所には推定400人以上の人が避難している③自衛隊がいち早く亘理町に到着して救助活動を始めた④津波は海岸部から5km程度のところまで及んだ、などあった。その中でひときわ目を引いたのが「仙台東部道路が津波の勢いを食い止めた」という情報であった。仙台東部道路とは実家のそばを走っている高速道路である。これはあの道路の土嚢が津波を止めたのだろう。これなら、あの道路から西へ少し行けば確実に命は助かっているはずだ。これで母が生存している可能性が高いと私は思った。恐らくどこかの避難所に収容されているに違いない。私はこの情報をすぐ兄と親戚に送った。母が連絡を取れないのはたぶん電話の基地局が崩壊しているためであるからだ。たぶん避難所に行けば自衛隊の作る暖かいご飯にありつくことが出来る。これはすごい情報だ。あとは母がどの避難所に逃げているか、それを突き止めれば大丈夫だ。この日の夜はなぜか気持ちよく眠れたことを今でも記憶している。

3月16日
大地震发生后第6天。这段时间也有各种各样的事。
大部分的日本朋友们热情地帮助我,可有人一听说了我遇到灾害,就不仅不发给我回信,而且没有任何音信。那种有交往几年的朋友。这件事在我心里上有难过的事情。我觉得与这种朋友的关系肯定是浅薄。应该是那样的人我非常好的时候,很乐意跟我在一起,不过我有一旦陷入不利的事情就断绝友谊。他们都有这样的特性。
我在至我的人生当中,搞错了交朋友的方法。我再也不跟这样的人交往了。我可以说好朋友是平时珍惜信赖,而朋友遇到困难的时候就帮助。星期三我收到了一封某个人寄的邮件。寄的人是在东京办我的上海留学手续的负责人。
「如果你有什么为难的事,我们尽可能帮你的忙。」我发给她邮件。
「其实在中国 twitter, facebook等不能看。你能把这些与宫城县亘理郡的信息复制和粘贴Word或者在Excel上然后可以发送给我吗?」
马上负责人发给我邮件。
「明白了。我不知道能不能收到具体的信息,试试看吧。」
看她的邮件我感到稍微安心了。不管怎么说我在中国收不到日本的信息,还是只能依靠日本本地的信息。我一直继续查阅。
不管怎样与亘理町有关的信息太少。我什么都不知道到底老家附近的邻居也被救助了。我不能推测。亘理町是不是怎样的状况?几个人死了或几个人被救助了?在网络上有一个很有趣的信息了。在「2频道」上的东北版报道里有。
「上次在荒浜地区被救助了的朋友说。据说,地震发生后海啸来到的时间内有充分的时间。应该是避难民在避难所,你们放心吧」这是真的吗?
那样的话母亲被救的可能性非常高。从那个航空照片来看,港附近的住宅建筑物受到毁灭性的灾害,不过,老家附近的建筑物残存着。
这只是我的推测,这个地方不是被海啸一口气冲走。恐怕海啸的第1次波浪来到以前有1小时以上逃离的时间。除非母亲呆在家要不然必定逃避到别的地方。
所以我认为母亲的判断力和行动力比她的年龄出色的多。我继续深入地查网络吧。那时候那个留学代办公司的负责人发给我邮件。
「我把通过twitter收到了的亘理町有关的信息发给你」我看在邮件上附加的Word,那里有详细的亘理町信息。而且有30页!我拼命地看这个信息。
确实那里有很多寻找家里人的信息多,不过,我看到一点点亘理町的状况。
我知道的是①手机电话的网络局崩溃,电话现在不通②在亘理町的避难所推定有400人以上的人避难了③自卫队很快地到达亘理町,开始了救助活动④海啸从海岸部达到5km左右的地方。那里格外引起我眼的信息是「仙台东部道路控制住了海啸的水势」所谓仙台东部道路是在老家旁边的高速公路。应该是那条道路的土袋控制海啸的水势。这样的话,母亲从那条道路向西边的地方,确实没事。
我认为母亲生存的可能性很高。可能是她在某个避难所。我马上给哥哥和亲属发送了这个信息。我们跟母亲不能联系的原因,是因为电话的基地局崩溃了。如果她去避难所就可以吃自卫队做的热饭。这是很好的信息。
要是我们查到母亲去哪个避难所,就没有问题。我还记得我那天的晚上心情很舒畅地睡觉了。


3月17日
この日は授業に行った。少し気持ちの余裕が出てきた。午前中授業を終え、午後は留学生センターのコンピューター室で中国の新聞記事を日本語翻訳して日本に送っていた。その場所でパソコンを操作しているとき、同僚の日本人男子学生が声をかけた。
「放射能の事を教えてもらえませんか?」
私は過去原発の事を勉強したのと、衛生管理者の国家資格を持っているので放射線については一定の知識がある。ノートに図を描きながら過去ロシア・チェルノブイリで起きた原発事故の事などを話しながら、彼に説明をした。恐らく1時間くらいは費やしただろうか?彼と夕食を食べる約束をして、私は翻訳作業に専念した。私のブログに新聞記事の残りを掲載したとき、MSNのメールに一通のメールが届いているのに気が付いた。送り主は親戚のおじさんの奥さんからであった。
「お母さん、亘理小学校に避難されているようですね。今お兄さんから電話がありました。よかったですね」
私はその画面を凝視した。何度も何度も読み直した。本当か?!何が何だかわからない状況に陥り、すべての荷物をその場に残して、宿舎に向かって全力疾走した。途中私を呼び止めた友人がいたが、その顔を見ても何もしゃべれない。ただ自分自身涙をボロボロ流しながら口をパクパク動かしているだけであった。すぐさま部屋に入ると日本の携帯電話と国際電話カードを手にし、兄に電話をした。思うようにダイヤルが出来ない。3度間違え何とかつながった。
「母は助かったのか?!」
兄はその私の声に声が詰まったのか、涙で声が出なかったのか、小さい声で私に言った。
「うん、助かったよ。」
私はその事実を確認すると、思い切り肺に空気を入れ気張るように「やったー!!」と叫び声をあげた。その声は上海師範大学の構内に響き渡っただけではなく、遠く日本の東北に届いたかもしれない。周囲にいた中国人学生も私の大声を聞いてびっくりしている様子であった。さらに兄がこういった。
「猫のミーも元気だよ。」
なんと!猫を連れて逃げたのか。なんという度胸だ!!!
以下兄から聞いた一部分だ。
「母が地震に遭遇したとき、実家の中にいた。あまりに大きな地震だったのでTVをつけると震度7と出ていた。おまけに大津波警報が出ていた。急いで必要物資を車に乗せて猫を車に入れエンジンをかけ山の方へ向かって逃げた。本来車で逃げる事は町の指導ではタブーだったが無視した。車で比較的高台のコンビニについたときものすごい揺れの余震が来た。どこへ行ったらいいかわからないので地元で聞いて亘理小学校に避難した。それから6日かが経過していた。ようやく携帯の基地局が回復して携帯で電話が出来た」
つまり、車も猫もほぼ無傷であったという事なのだ。これは奇跡としかいいようがない。すぐに老師に電話を掛けた。さらには友人の上海の新聞社の記者、友人、家庭教師、ありとあらゆる人に電話をかけ祝福を受けた。そしてその夜の食事は同僚と祝賀会となった。人生ではあまりなかった祝福が私の年齢となってようやく機会を迎えた。兄もゆっくり今宵は眠れるだろう、いいことだ。
 しかし、私の頭の中にはさらなる課題が残されていた。母を避難所からどうやって救出させ東京に連れてくるかであった。今考えるとこれが一番困難な状況であったように思える。鉄道、空路、道路、海路全てが使えないなか、どうやって災害地の宮城に入るかだ。思い切って自衛隊から戦車をお借りしようか?何故なら災害地は完全に戦場と同じような状況に置かれているからだ。しかも宮城県の下にはわずか50kmの場所にあの原発事故を起こした福島第一原発がある。ここを通らずしてどうやって助けに行くのか?やはり私が帰国して助けに行こう。そう思った。



3月17日
这天上课了。我心情稍微放松了。下午去留学生中心的计算机室开始把中文的新闻翻译成日文,然后把文章发送给日本朋友。
我在那个地方用电脑的时候,日本同学向我打了招呼。「你能不能告诉我放射能的事?」
因为我以前学习过核知识,还有在日本取得卫生管理者的国家资格所以对放射线比较熟悉。
我一边谈一边画画告诉他过去在俄罗斯•Chernobyl发生的核电站事故等,跟他说明。大概有1个小时左右我跟他谈。我约定今天晚上跟他去吃晚,我继续翻译工作。
我把文章写完在自己的博客上,我看到在MSN的邮箱里有一封邮件。这封邮件是我舅舅的夫人发送给我的。「我获悉你妈妈避难在亘理小学校。刚才你哥哥给我打电话了。」
我凝视着电脑上有那个消息,重新读了好多次。这个信息真的吗?!
我一看了邮件,就把所有的东西在那里,莫名巧妙地在学校里跑起来了。
有人给我打招呼,不过,看她的脸我什么都说不出来。只是很多眼泪然流下来。
马上进房间我把日本的手机和国际电话卡拿出,给哥哥打了电话。可我不能打电话。我搞错了3次然后好不容易地打通了。
「母亲被救了吗?」
哥哥听我到我的声音,他声音罗嗦地说不出来,好像他眼睛有眼泪地说不出来,他的声音小小地跟我说。
「哼,没事啊。」
我听他的话,尽情地呼吸兴奋地喊叫了。「呀黑!!」
我的声音在上海师范大学中不仅响遍,说不定到达了远方日本东北。周围的中国学生听我的大声很吃惊。接下来哥哥说了。
「猫的宓也没事了。」哎呀!妈妈带猫逃跑了吗?她是个多么有胆量的人!!!
以下是哥哥的一部分。
「母亲遭遇了地震的时候,在家里。不久她看到电视有刚才发生的地震烈度7的信息。
加上大海啸警报响声出来。她急忙把必要东西放到在车里,就开车去山丘了。本来开车逃避被市政府禁止的,但她无视了,然后她开车去比较高的地方,在便利店的停车场停车的时候,非常可怕的余震发生了。因为她不知道去哪里才好所以无可奈何地去亘理小学校。六天过去了。手机基地局恢复后可以用手机,打电话了」总之,妈妈和猫都没受伤。这真是奇迹啊。马上我给尢老师打电话。接下来我给上海的报社的记者,朋友,家庭教师,打电话,受了祝福。并且那天晚饭成为跟同学地庆祝会。我没想到在我的人生中会有这样开心的机会。今天哥哥也能慢慢地睡觉。可是,我的头脑里有新的问题。就是在那里怎样救出母亲然后回东京去。现在我考虑这个问题,我觉得这个救出母亲的过程中最困难的状况。因为在铁路,航空路线,道路,海路全部不能使用的情况下,如何进入灾害地域, 难道借自卫队坦克吗?据说东北的灾害地好像是与战场一样的状况。而且离宫城县南边仅仅50km的地方就是那个核发泄漏事故的福岛第一核电站。不去福岛县如何去救出母亲?我还是回国救出母亲。我想是那样。


 

3月18日

朝兄に電話を掛けた。

「俺やっぱり帰国するよ。やはり俺が助けに行きたい。」

そういうと兄がこう言った。

「いや帰国するな。母は俺が助けに行く。お前は勉強に専念しろ。」

私はこういった。

「なぜだ!!」

「お前はせっかく中国にいて助かったのだ。日本は危険だ。絶対に帰ってきてはいけない。全ては僕がやる。ではお元気で、さようなら」

その兄の話を聞いて電話を切ると、私は自分の部屋で膝を地面に落とし泣き崩れた。なぜだかわからない。自分の無力さが情けなかったのだろうか?そうか、自分は日本に帰ってはいけないのだな?では、日本に帰らなくても母をきっと救助してやる。その為に徹底的に策を練って兄に情報を提供してやろう!!私は決断した。

 私は宿舎の自室で一枚の紙を取り出し、そこに一句を描いた。名づけて

「オペレーション(作戦)宮城」壁にその紙を貼った。

 私の決意は固まった。ネットにて道路が封鎖されている場所を全て調べ上げ、車で被災地から母を救出出来るルートを確保することだ。その為には時間がかかっても安全に確実に東京までの道のりを確保することであった。兄は車に関しては素人だ。私は4トントラックまで運転して冬の北陸を横断した経験がある。日本の雪国の状況は非常に細かいところまで知り尽くしている。その為の何をすべきか考えた。

  • 母の車はある。それが動けばあとは給油ポイントの確保が必要となる。

  • 南から宮城に入るルートは完全に遮断されている。別ルートを確保する必要がある。

  • 兄が宮城に入る最短安全ルートの確保が必要だ。

  • 放射能が漏れている福島県を避け迂回する

  • 宮城県の道路がどの程度使えるか、避難所から安全地帯までの道はあるのか

  • 母の疲労を考え何処で休息を取るか

  • どれを見ても困難な方法ばかりだ。まず兄がどこから入るかを検討した。方法としては新潟まで上越新幹線を使い、鉄道で山形県の酒田付近まで行くことだ。これなら福島を経由しないし道路鉄道は使用が可能だ。問題は酒田から山形、そして仙台までのルートがあるのか?私はネットで調べた。山形県鶴岡市から山形までバスは動いているか分かった。問題はここからである。山形市から仙台市までのバスはあるか?ネットで検索していたら「バスの路線は復興している】とあった。よし!これなら大丈夫だ。そして仙台から亘理小学校まではどうするのか?私は調べた。バス、鉄道はすべて閉鎖されている。道があればタクシーで行くしかない。道路情報を調べていたら、国道4号線、6号線は通行が可能であることが分かった。もっと詳しい情報はないだろうか?ヤフーや2チャンネルで検索を進めていたところ、一つの興味深い記事を発見できた。それは仙台から亘理町までタクシーで行った人の話である。これなら仙台駅からタクシー飛ばせば亘理小学校までは行けるであろう。すぐに私はその情報を兄にメールした。非常に時間はかかるがこれなら宮城県に入る方法は確保できたのと同然だ。しかし更なる問題が目の前にあった。被災地から東京までの給油の問題であった。実は当時東北地方は深刻なガソリン不足に陥っていた。兄が被災地に入れても給油が出来なければ車を放棄して東京に行くしかない。そんな無謀な事が出来るのであろうか?母の車にはどれくらいのガソリンが残っているのであろうか?

     この日は疲れがひどく、土日に検索しようと3時には寝ることにした。

     

    318

    早上我给哥哥打电话。「我还是回国哟。我还是去救妈妈。」

    我跟哥哥这样说,他回答。「你不要回国。我一个人去救出妈妈。你继续专心地学习。」

    「为什么?!」我说。

    「你是在中国学习没受害的人。日本太危险。不要回日本。我来做所有的事。要多保重,再见!

    听哥哥的话然后挂电话,我在房间里把自己的膝贴近到地面放声大哭。不知道为什么。我觉得自己很无力。那样的话,我是不可以回日本的人吗?我看来救不了母亲了。

    为此我决心彻底向哥哥提供信息!!

    我下决心。我在自己的房间拿出一张纸,在那里写了一句话。这名称就是「宫城作战operationMiyagi」把那纸贴上了。

    我的决心下定了。

    我通过网络仔细收集到宫城县的道路信息,甚至被封锁的道路,我必须确保开车救出母亲的途径没问题。为此我花时间确保到东京的路程安全。哥哥对开车不太熟悉。我以前在日本北陆冬天时开过4吨卡车。于是我对日本多雪的地方非常熟悉。我应该考虑以下的事。

  • 现在有母亲的车。开车的时候我应该查加油站在哪里。

  • 从南边进入宫城的道路完全被切断。我需要寻找别的途径。

  • 我需要寻找进入宫城的途经最短最安全的。

  • 我寻找迂回福岛县到宫城县的途径。福岛县由核电站事故非常危险。

  • 宫城县内的道路安全多少程度,那里有没有从避难所到安全地方的道路

  •  应该考虑母亲的疲劳,到东京在哪里休息好

  • 不管怎样,这些都是困难的方法。首先应该考虑哥哥从哪里进入宫城县好。我想到一个方法。就是哥哥在东京站坐上越新干线到新泻,然后坐火去山形县酒田市附近。这样去不要经由福岛县比较安全。问题是从酒田到山形,有没有公共汽车路线,并且有没有到仙台的路线?

    我通过网络调查了。我知道了从山形县鹤冈市到山形有公共汽车路线。还有一个问题。有从山形市到仙台市的公共汽车路线吗?我查网络最终看到山形县到仙台的公共汽车路线已经恢复的信息。好啊!要是这样我不紧张了。还有一个问题。有从仙台到亘理小学校的途径吗?

    我查网络。巴士,铁路全部都不使用。就是只能坐出租车去。我查宫城县的道路信息,我知道了国道4号线,6号线都可以通行。还有详细的信息吗?我通过雅虎和2频道查信息,查到一个很有兴趣的信息。那里有从仙台到亘理町坐出租车去的人, 就是他从仙台站到亘理小学校坐出租车去。马上我把这个信息发送到哥哥。虽然这个方法花金钱或时间,但是现在是去避难所最好的方法。可是我眼前有非常棘手的问题。就是从灾害地到东京在哪里,可以加油的问题。其实当时东北地方陷入严重的汽油不足。即使哥哥安全地进入宫城县,也不能加油, 那样只能放弃车回东京。那样的方法是绝对行不通的。现在我母亲的车有多少汽油剩下?这天我太累,3点睡觉了。,;

     

    3月20日

     

     ほぼ母を救出する計画がまとまった。これは、次のとおりである。

    宮城亘理小学校―角田―白石―国道4号線―郡山―会津若松―新潟―東京 という迂回路を使った方法である。給油ポイントは会津若松、新潟新発田市を考えていた。新潟は比較的給油が可能という情報を見つけた。会津若松までガソリンが持てばこのルートは比較的安全だ。国道4号を下り宇都宮市から東北高速道に入ることも考えたが、福島原発事故により自衛隊や物資運送車、そして福島からの非難者の車で大渋滞を起こしているというニュースをネットで見たので、この方法は現実的ではないと判断した。しかも福島を南下して通るというのは危険性が高いのではないか?時間がかかっても新潟経由の方が安全だろう。この内容を兄に送った。しかし返事はこの日は来なかった。私はおもむろにパソコンで検索を続けていた。そこで発見したのは、やはりガソリン不足で日々スタンドに多くの車が大渋滞を起こしているというニュースであった。これでは車で東京に戻るのは容易ではないだろうと思った。確か母の車は軽自動車だ。ガソリンが何リッター入るのか?そこから燃費計算をすればタンクに半分残っていればどこまで運転できるかがわかる。これは被災地に兄が入った時の判断勝負ということになる。もしガソリンが途中給油可能であれば、新潟を通らず東北自動車道を南下するか、会津若松から山を抜け日光ルートで東京に行く方法もある。いずれも私が実際に車で運転したことのあるルートである。

     その夜親戚のおばちゃんからメールが来た。

    「お兄さん、いま山形に入ったそうですよ。明日お母さんに会うそうです」

    え?随分早いじゃないか?ということは明日にもう被災地を脱出する気だろうか?ならばもっと詳しくルート状況を確認して兄に伝えなけれればならない。宮城県の県道情報も検索が必要だ。これは徹夜になりそうだ、と思った。

    著者の阿部 真人さんにメッセージを送る

    メッセージを送る

    著者の方だけが読めます

    みんなの読んで良かった!

    STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。