中学生のときはじめて、自分が障害者だと知った。ショックだったけど、でも、それは財産だった。自分の障害を財産だと思えるまでの10年間の葛藤。

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中学時代


自分の障害を自覚する。

ぼくは、言語障害と感音性難聴を煩っています。言語障害は、口蓋裂という先天異常に起因する構音障害で、発音が上手にできないものです。感音性難聴は、音を言語に変換する機能が弱いものです。ぼくは、いわゆる奇形児として生まれました。それを知ったのは中学生の時のことです。

小学生のときは自分の障害について何も知らず、悠々と過ごしていました。中学生になると、ぼくの発音をばかにしてニヤニヤする人がチラホラでてきました。というか、ぼくのことを気に入らない連中が、どこかアラはないかと探して見つけたのが言語障害だった、という感じです。ぼくはいじめを受けました。サ行の発音が苦手で「もしもし」と電話にでると「もひもひ」となるので「もひ」と陰で呼ばれてばかにされていました。詳しくはコチラ → 中学生時代、自分が言語障害だと知って衝撃を受けた話。

こうしてぼくは自分が言語障害だということを自覚しました。つづいては口蓋裂の状態で生まれたことについて。これは病院へ行った際に、ぼくのカルテを見て気づきました。ぼくは口蓋裂の影響もあって歯の噛み合わせも悪かったので、矯正治療のために定期的に病院に通っていました。当時はそんな自覚はありませんでしたが。


病院の入り口、自動ドアのヴィーンという音を耳に2、3歩進むと、目の前には横幅10m位はありそうな広い廊下。線遠近法を思い出すほどの奥行き。右手にはお会計待ちの座席が80席ほど。左手には歯ブラシなどが売っている小さな売店。受付は廊下を5mほど前方進んだ右手側にありました。母が受付を済ませている間、ぼくは受付の向かい側、壁際にある長椅子に腰をかけて母の背中を眺めていました。受付を済ませた母にカルテを渡され、矯正治療を行っている病棟へと向かいました。カルテをなんとなく眺めていたところぼくの通院歴や治療歴が書いてあることに気づきました。母親の視点では「難しいことだから読んでもわからない」と思っていたのでしょうか。伝えるか、伝えるまいか、気にしていなかったわけがありません。

当時はたぶん中学の2年生でした。カルテには、数年前のところに「口蓋裂のため、手術」といった旨の記載がありました。ぼくは「口蓋裂」という漢字が読めなかったので、お家にかえって調べることにしました。帰宅後、お家にあったノートパソコンを使い、漢字の読みを辞書パッドで調べました。「こうがいれつ」と読むことを知りました。そして「口蓋裂」と検索ボックスに入力し、検索ボタンを押しました。

すると、なにやら口の辺りの形がおかしい、小さな子供の画像がたくさん出てきました。初めは何がなんだかわかりませんでした。しかしいくつかのページの文面を読み進んでいくと、なにやら先天異常(生まれもった障害などのこと)のことを指すのだとわかりました。このとき、Webページの文面に書いてある内容と奇形児たちの画像、自分自身の過去の体験などが瞬時に一本の線としてつながりました。


「ああ、そういうことか」と。


ぼくは、自分自身がどんな状態で生まれてきたのかを知りました。なぜ「ことばのきょうしつ」というところで言語訓練を受けていたのか、なぜ自分が言語障害なのか、なぜ歯の矯正治療をしているのか、なぜ鼻のかたちがちょっと変なのか、アチラコチラに散らばっていた疑問のかけら(点)が、一直線につながりました。


「ぼくは、障害者だったんだ。」


それと同時に、ショッキングな感覚も襲ってきました。大ダメージです。小学校当時のぼくはダウン症の子たちを蔑んだ目で見ていたので、自分が障害者だと知った瞬間にその槍が自分の胸にも突き刺さりました。それからというものぼくは障害者として「蔑む目」で見られる日々をおくるものだと思いました。ぼくが言語障害者というのはクラスの全員が知っていましたから(たぶん)、教室のドアをあけるのも嫌でした。ぼくが教室に入ったその瞬間に、「蔑む視線」がこっちにくる。他のクラスの人たちも、ぼくが障害者だと知った瞬間に目の色が変わるんだ。でも、言葉を発しなければ、言語障害っていうのはばれないよな。じゃあ、口数を少なくしよう。みんなと接する機会を減らそう。ぼくはどんどんふさぎ込んでいきました。

学校という空間はもともと苦手で、中学校は休みがちでした。そこに、さらに拍車がかかります。うちのおばぁちゃんは「学校には行きなさい」というタイプだったので、毎日言い訳を考える日々。布団にもぐりながら、「明日は、お腹が痛いことにしよう。」「明後日は、頭が痛いことにしよう。」

おばぁちゃんが毎朝、布団にもぐっているぼくに「行きなさい!」「何か嫌なことでもあるの!?」「ないなら行きなさい!」と何度も言ってくるのが苦痛で仕方がありませんでした。でもおばあちゃんのこどは大好きで、だから余計に苦しかったです。

中学校時代は口数が少なく、元気もなく、暗い日々をおくっていました。寝室の窓から見た、流れるのが速かったくもり空をよく覚えています。ずる休みをしていたものの、根は真面目だったので具合の悪いふりをしていなければ筋は通らない、とずっと布団に横たわっていました。

そうすると暇なので、空を流れる雲を観察するとか、あれこれ考えるとか、そういった時間を過ごすことになるのです。もちろんそれだけでは飽きるので、こっそりインターネットをしたり、漫画を読んだりしていました。かなり、贅沢な時間の使い方をしていました。

「なぜ毎日同じ場所に行かなければならないのか」と思いつつも「学校は行かなければならない」といった思い込みもあったので、嫌々学校に通っていました。休みがちではありましたが、週に3日か4日(たまに5日)は学校へ行き、授業を受けていました。

中学校では特に、音楽の授業が苦痛でした。音楽の授業では、となりにいじめ首謀者の子、後ろには、首謀者にいいように使われている子がいました。後ろの子が「おいもひ、聞いてんかもひ。」と、ずっと言ってくるのです。それはそれは苦痛でした。当人たちは、たぶん軽い気持ちだったのでしょう。ぼく自身も、差別的な目を向けた経験があるし、いじめもしたことがあったので、いじめたくなる気持ちはなんとなくわかります。

自分よりも「弱く見える」人を虐げる、人の弱点をつくことで自分が「優位に立っている」と勘違いし、自尊心が回復する(潤う)のです。もちろんそんなやり方はかっこ悪いし、傷つく人もいるわけで、ぼくは過去の自分を猛省しました。ああ、なんてひどいことをしていたんだろう。こんなにも苦しいのか、と。それからは障害を持つ人を見ても「どんな景色を見ているんだろう」「なにを感じて暮らしているんだろう」と、その人はどんな「めがね」をかけているのかを気にするようになりました。

勉強はそこそこできたので、成績はクラスの真ん中くらいでした。たしか理科が得意で、90点台後半の得点をとり、英語で30点くらいをとってトントンにしていたような記憶があります。それも陰でなんか言われていたような。「あいつ理科はすごいけど英語は全然だめだよな」という。いま思い出すとめちゃめちゃどうでもいいですが。

中学3年生の後半になると、ぼくへのいじめはほとんどなくなりました。飽きたのでしょう。別の人をばかにしていました。当時のぼくは、「ホッ」としていました。うーん。こんなんじゃだめだなぁ。でも、それだけ余裕がなかった。高校受験も成績通り、となりの市で真ん中くらいのところへ行きました。



高校時代

高校へ行くのには特に疑問を持たず、普通に受験して普通に合格して普通に入学式を迎えました。入学式前には(合格発表当日?)制服の採寸をする必要がありました。学校の門をくぐり、玄関、下駄箱、採寸する教室へと進んだところ、部活の勧誘をしている先輩がいました。なにやらメモ帳サイズの紙とペンをもっているようでした。「野球部どうですか?」と話しかけられました。

ぼくは言葉を発することが怖かったので「いいです」と小声で言ってその場を去りました。「ああ、また変な風に思われただろうなぁ」と細かいことを気にするぼく。合格発表の時の思い出と言えばそれくらいです。

入学式が終わり、諸々の手続きをする段階。ぼくの通っていた高校では個人ごとにロッカーを買う必要がありました。「なぜロッカーを?」と思ったので、先生に質問をしようとしました。しかし、口数の減っていたぼくです。自分は言語障害だし、話しても聞き取ってもらえないかも。ましてや、障害者だってばれたら、また「あの目」で見られる。怖い、でも、聞かなきゃ。


いま思い返せば「ロッカー購入は必須ですか?」と聞くだけなのですが、当時は人に向かって言葉を発することにさえ恐怖を感じていました。近くにいた先生に「すいません」と話しかけました。


先生「おう、どうした。」

ぼく「ロッカーは、絶対に買わないといけないんですか?」

先生「おう、教科書とか貴重品とか入れたりするからな。兄弟のものをもらってたりは?」

ぼく「してないです」

先生「じゃあ買わないとな」

ぼく「わかりました。ありがとうございます。」


たしかこんなやり取りだったと思います。いたって普通なやりとですが、ぼくは言語障害がばれるんじゃないかとか聞き取ってもらえないんじゃないかとかものすごい恐怖を抱えていました。そして思いのほか聞き取ってくれるので、ぼくの発音はそんなに悪くないことに気づきました。


ばかにしていた連中はわざと聞き返したり、大げさに真似をしてたのだと気づきました。ここでひとつ、不安が解消されました。「ああよかった、聞き取ってもらえる。」この時の「ホッ」とした感覚はよく覚えています。本当に「ホッ」という感覚です。「よかった、聞き取ってもらえる。」


それでもやっぱり、自分が障害者だと言うことを打ち明けることはできませんでした。なにか話をしていて、「えっ?」と聞き返される度にドキドキしていました。やばい、バレるんじゃないか。といった感覚です。そうなるとやっぱり口数は減りますし、隠そうとするから挙動不審にもなります。仲良くしようとしてくれた人たちにもそっけない態度をとってしまい、結局、「なんだあいつ」のような感じで見られていました。


いきなり、「ぼく言語障害なんだよね」と言ったところで理解はされませんし、「言語障害ってたまに聞くけどなに?」といった感覚でしょう。発音が、うまくできないのです。


高校時代は中学時代ほどではありませんが、一部の人たちにいじめ(っていうほどでもないけど)られていた時期がありました。いま思い返せばこれは障害云々ではなく、態度の問題だったと思います。びくびくしていたから、ばかにしたくなるんでしょう。高校生当時はバドミントン部に所属していたのですが、廊下ですれ違うときに、一部の部員から「気持ちわるっ」と言われるとか、そんな感じでした。


ぼくは嫌われることを恐れていたので、傲慢な態度やずるい態度はひたすら隠すといったようなことをしていた記憶があります。全て、言語障害のせいにしていました。びくびくしているのは、言語障害がばれたくないから。自信がないのは、言語障害で言葉を発するのが怖いから。コミュニケーションをとるのが怖い以上、自信をもてるわけがありません。その点は中学生時代のまま、成長がストップしています。


高校時代は、わりと平和で、楽しかったように思います。特に2年生になったあたりからは急激に成績がよくなり、クラスの女の子から「ここ教えて〜」なんて言われるだけで喜んでいましたから。平和なのは良かったのですが、やはりここでも、一歩踏み込んだ人間関係は築けませんでした。

言語障害というよりも、「裏切られる」のが怖い、といった側面が強くありました。友達だと思っていたやつが裏ではぼくのことを馬鹿にしていたり、次の日学校へいったら何故かシカトをされたりとか、そういったこともチラホラあったので。障害を打ち明ける、といったことはできませんでした。話そうとすると、言葉がつまるのです。本当に、出てこないのです。無理矢理に言おうものなら胃が出そうになります。

自分にとって言語障害は「バレたらいじめられるもの」でしたから、打ち明ける際は、その時にうけたダメージが再生されます。もちろん完全に再生されるわけではありませんが、相当ドキドキしますし、疲れます。ドキドキして、疲れて、態度が変になって、「また変に思われるんじゃないか」なんていう強迫観念もありました。ただ自分の障害を説明するだけならまだしも、「いじめられる(差別される)かも」といった懸念を心に抱きながらそれを話すのは、相当なエネルギーが要りました。この人だったら言っても大丈夫かなぁ、と、かなり人を選んでいました。


大学時代

大学では情報処理と心理学を学びました。心理学との出会いがぼくの葛藤に大きな影響を与えることになりました。いま思えば、自分を観察する方法を知り、日々じぶんを観察することで自分について理解を深める力がついたのではないかと思います。

心理学を専攻したのは、ものづくりに興味があって、「人の心を動かす」ということに関心があったためです。人の心を動かす要因を探り当てて、逆算するかのようにものづくりをしていく。非常に知的で楽しそうではないか。たしか、漠然とそんな風に思っていた記憶があります。

心理学を勉強して、たしか「精神分析学」について調べていたあたりでしょうか。「無意識」を意識として顕在化させることで抱えている葛藤などを解決の方向に導ける、といったアプローチ方法を知りました。簡単に言うと「普段は意識できていないものを表面にでてこさせる(自分で気づく)」ことで、症状の仕組みが理解できて、解決方法も考えだせるという感じ。

ぼくはこれに大変関心を持ちました。人と接する時に感じるもやもやっとする正体はなになのか、学校のような「決まった時間に決まった場所に定期的に行く」といったことに嫌悪感を抱くのはなぜなのか。ひたすら自分を観察するようになりました。考えていることを紙に書いたり、ぼーっと想像したり、ブログに書いてみたり。いろいろのことをやった記憶があります。

たしか、学校の課題でも似たようなことをやり(観察する方法論を学ぶような)、それをすぐに自分に応用して観察を繰り返す日々。すると「書き出す」とか「話す」とか、アウトプットすることがとても大事であることがわかりました。


また大学には「カウンセリングセンター」というカウンセリングを無料で受けられる施設があり、そこに大変お世話になりました。鬱々とした日々が続くので「試しに行ってみよう」と思ってドアを叩いたのがキッカケです。どんな感じなのかなぁと思って「ちょっと気分がすぐれない日が続いてて」といった風に相談をした覚えがあります。

内容は書いていいのか分からないので割愛しますが、ぼくはそこでの体験をもとに、自分のことをかなり詳細に観察できるようになったと思います。例えば「気分がすぐれない日が続いている」のであれば、いつからそうなのか、四六時中そうなのか、そういった瞬間が断続的に訪れるのか、それが訪れるのはどんな環境か、といった風に、条件をひたすら観察します。

また、どんなことを考えると、何について考えると鬱々とした気持ちが現れるのかといったような分析もしました。考えていることを紙に書くとか、誰かに相談をしているなかで自分の発言の流れを観察するとか、そういった感じです。言語化するまでにかなり時間がかかるものもあれば、すぐに言葉として表面に出てくる感情もあります。

いろいろな方法を知ったぼくでしたが、自分の障害といじめとその関連性についてはあまり考えたくありませんでした。考えると狂気的な自分が出てくる(おれをばかにするやつはみんな敵、みたいな)し、傷ついて疲弊していたときの感覚も再生されるし、かなりのエネルギーを消耗しました。自分自身の思考過程について、ひたすら観察をするようになったのはこのころ(2年次)からですね。


大学3年生ころになると、自分の障害について打ち明けることができるようになりました。一人旅にでたことがけっこう大きいと感じています。ぼくはものすごく人見知りで、初めて出会った人と話すのがものすごく苦手でした。なにを話したらいいのか全く分かりません。ドギマギして変な風に思われたら嫌だし、それならいっそ、話さない方がいいや。と言った具合。しかしこのままではいけないと、大学3年ながらにして思いはじめました。

たしか、このさき生きるには一人ではやっていけないし、もしも誰かに協力を求めたかったときに話しかけられないようではやっていけない。ましてや、人見知りのままでは協力を求められる「誰か」と出会うことすらままならない。こんな風に考えていた記憶があります。

また就職活動を目前にして「自分はなにがしたいんだろう?」といったことを考えました。人生でいちばん大きな買い物はおそらく家だから、家を自分でつくりたい、じゃあ大工だな。と、超短絡的に考えて大工になろうとしました。そして大工と言ったら宮大工が一番だ、と「宮大工」でグーグル検索をしたところ「西岡常一」という方がヒットし、その方の著書を買って読みました。

奈良県にある法隆寺のこと、薬師寺のこと、昔の道具、金属のこと、刃物仕上げと木の関係などいろいろのことが書いてありました。そこに書いてあった、兵役からもどって即仕事、というエピソードにえらく感動しました。

命を落とすか否かといった場所から帰ってきて即仕事にもどるなんて、どれだけ仕事に対して情熱をそそいでいるのだろうと。そんな情熱が注がれた法隆寺や薬師寺、ホンモノの職人が手を加えた建造物を見てみたいと、一人旅をしてみることにしました。またその本には「木のことを知るには森のこと、それがどんな環境で育ったのかを知らなければいけない」と書いてありました。

そういったこともあり「本物を見る」「木と森に触れる」といったことをテーマに一人旅にでることにしました。ついでに人見知りの克服もしよう、といったサブテーマも抱えて。


一人旅に出てみて最も衝撃的だったのは「出会い」でした。自分の生きてきた世界がいかにちっぽけなものだったのか、いかに狭い範囲しか見ていなかったのかがよくわかりました。人見知りを克服すべく、また宿泊代を押さえるべくゲストハウスに泊まりまったのがキッカケです。ぼくは宿で出会った人に片っ端から声をかけました。以下は、初めて話しかけた人との会話の一部です。


ぼく「どちらから来られたんですか?」

女性「広島から。ついこの間までブラジルにいて、最近日本に帰ってきました」

ぼく「えぇ!? ブ、ブラジル!?(なにをしに地球の裏側までいったんだろう...!? )」


それはそれはたいそうな衝撃でした。いまでこそ自分も海外で働いていますが「ブラジルから」といった返答がくるとは思いもよりませんでした。一人旅は今でも好きで、その他にも、「不労所得が支出を超えたから働かなくてオッケー、もう引退する。」という人や、1日4時間しか働いてないよというスイス人、旅行中のお金は1日に2時間だけはたらいて稼ぐ、といったドイツ人コンサルタント、自分の想像もしないような領域で暮らしている人たちとの出会いがありました。

「おいおいまじか」といった感想しか出てきませんでした。いろんな人がいるなーと。人それぞれでいいんだな、と感じました。


またゲストハウスという空間と出会えたことも、大きな転機となりました。ゲストハウスを簡単に説明すると、素泊まりの宿(1泊は2,000円〜3,000円)で、シャワー・トイレは共有、お部屋は相部屋といった宿です。ゲストハウスはバックパッカー向け宿で、いろんな国の人たちがそこに集まります。それこそブラジルの人だっていたりします。ゲストハウスはすごく居心地が良くて、なんというか、全てフラットな空間でした。年齢も、性別も、生まれた国も、肩書きも、宗教も、何も関係ない。みな、いち個人です。ぼくにはそれがすごく居心地が良かった。障害者というレッテルを自分に貼っていたからなのか、「普通にした方がいいよ」と何度も言われ「普通ってなに?」と葛藤していたからなのか、理由はよくわかりませんでした。

各々が各々の「普通」を全うできる、みんなが普通になれる場所がゲストハウスだと思います。

ゲストハウスという空間に出会ってからというものの、ひたすら自分の声を聞くようになりました。普通とか、常識とか、いろんな人の声が聞こえる場所にいると、自分の声が聞こえにくくなってしまいます。一人旅に出るまでのぼくは「よく知らないだれかにとっての正解」を探していたような気がします。ですが、正解っぽいことを探すよりも、自分の声をよく聞くことの方がよほど大事だと知りました。

ゲストハウスで出会う人は年上の方が多く、また就職活動前ということもあり「君はこうした方がいいよ」「それはゆとりの考えだねー」なんて言われることもありました。よくよく話を聞いているとみんな言うことはバラバラです。「好きなことは仕事にしない方がいい」とか「好きだからこそ続けられる」とか。各々がそれぞれの経験からいろいろのことを言うので、当たり前といえばあたりまえなのですが。結局のところ、みな自分の選択を正解だと思いたいのだと思います。だから人の話は半分くらいで聞いておいて、自分の声を聞くことの方がよっぽど大切なんです。


さて、一人旅に出るまえに掲げた「本物を見る」「木と森に触れる」というテーマについて。念のために書いておきます。飛ばしてもらってもけっこうです。本物を見ることに関しては、今ひとつピンと来ませんでした。法隆寺を見たら衝撃を受けるだろうなと思っていたのですが、意外と衝撃を受けることはありませんでした。「なんか、シュッとしてるな」といった感じ。

だから、とにかくひたすら観察することに決めました。見てもよくわからないなら映像だけ目に焼き付けよう、といった方向にシフトチェンジ。木と森に触れる、というテーマについては、それはそれは楽しかったです。木のこと、森の機能的な美しさに惚れ惚れしました。森はムダがなく美しいが、日本の森は廃れていることを知り、すごく悲しい気持ちになりました。ものをつくる人としてそこに関わっていきたいと思うようになり「木工職人」を目指すことに決めました。大工から宮大工、森へと関心が移り、大学卒業後は木工職人を目指すことになります。


大学生活では、心理学と出会い、カウンセリングセンターにお世話になり、3年生の夏には一人旅で自分と向き合うことを知りました。木工職人になるという考えは変わらず、岐阜県で木工修業をする運びになりました。



大学卒業後


大学卒業後は森林たくみ塾というところで木工修業をしました。障害についての葛藤というよりも、仕事についての葛藤が多かったように思います。ですが人間関係を築くという点において、チラホラいじめや言語障害の影が顔を見せました。障害に対する葛藤にフォーカスしたい方は読み飛ばしてもらっても構いません。

たくみ塾では仕事観を学びました。納期と品質。決められた期日までに、一定以上のクオリティで製品を納める。こうして書くとすごく単純に見えますが、決して簡単ではありませんでした。というかこれは今でもできていないんじゃないかなぁ。これができるようになって初めて「プロ」です。だからといってプロ意識をもって仕事に望まないといつまでたってもその領域には達することができません。目の前の仕事に集中しつつ、全体の流れも俯瞰する。これが木工(あくまでもたくみ塾内)におけるプロの仕事なのかと感じました。

ぼくは大量生産大量消費のライフスタイルが好きではありません。ですが、量産することがどういうことなのかを知らずに、一方的に否定をするのも良くないなぁと、量産をする世界に飛び込みました。量産するというのは単純作業の繰り返しです。作業自体は単純ですが、その「精度」を保つのは用意ではありませんでした。

例えば製品によっては0.1mmずれているとアウトなのですが、単純作業を繰り返し行っている間に、その変化に気づく必要があります。気づかなければ、ずれたまま何百個、時には何千個もの部材ができあがります。例えば製品を組み立てる時に気づいたら、何百個・何千個とやり直し。これは想像以上に大変です。いままで加工した部材はすべて費用になり、売上げになりません。

高精度のものを量産することは難しいのだと知りました。それでもそれが売れていくってことは需要があるということ。半年間くらい量産現場に携わりましたが、やっぱり量産するスタイルは好きにはなりませんでした。いま現在は、ライターとして記事を量産していますが笑

量産のことと同時に、森のこと(循環すること)についても考えました。例えば樹齢100年の木があったとして、それを使ってつくった家具は100年持たないと循環しない。単純計算ですが。それを考えると、果たしてこのペースでものをつくっていて、循環する森づくりに貢献できるのか?といった疑問を持ちながら製品をつくっていました。これは感覚値ですが、たぶんムリです。

やっていることと、目指す方向が矛盾しているように感じました。循環する森づくりを実現するには、今の経済サイクルから離れたやり方をしなければ、なにかいい方法を見いだしていく必要があるなぁと考えていました。それは同時にぼくの目指すライフスタイルにも直結していて、循環する森のなかで、森のような暮らしがしたい、森のような(アルゴリズム的に)人間になりたいと考えるようになりました。このあたりから、自分自身をひとつの循環システムとして捉えるようになりました。

木工職人になろうと挑んだたくみ塾ですが、挫折し、半年で辞めてしまいました。原因は「失敗の捉え方」にあったと踏んでいます。さきほど書いたように、量産する上での「失敗」はかなり打撃が大きいです。製品はダメにするし、時間は全てただの費用に代わり、みなにフォローをしてもらいながらなんとかやってのけることになります。本来ほかのみんなが生産的な活動をできた時間を、フォローしてもらう時間にあててもらうということです。

失敗に対して相当な「非生産的」な、マイナスなイメージを抱いていました。だから失敗することは怖いし、でも怖がっていたら納期には間に合わないしで、余計にプレッシャーを感じてなにも考えられない状態に陥りました。指示された内容もすぐに忘れたりして「これはいかん」と焦り、それがまたプレッシャーに拍車をかける悪循環。かるい鬱状態のようになっていたんじゃないかなと個人的には思っています。

1週間ほど休みをもらい「なぜこんな状態になったのか」と考えつづけたところ「失敗に対する捉え方」が原因だったのではとの結論にいたりました。現在は「全ては学習機会」といった風に捉えています。以前よりはだいぶマシですが、やはり失敗するのは怖いですね。この時くらいから仕事ってこんなに消耗しないといけないのかなぁ、なんて考えはじめました。ものを量産することは、自分には合わないんじゃないかと感じています。


たくみ塾を去った後は3ヶ月ほど温泉旅館でリゾートバイトをしてお金を貯め、その後はライティングの仕事をもらいながら長野県のゲストハウス・高知県のゲストハウスに住み込み、現在はフィリピンのセブ島でコンテンツライティングのお仕事をいただいています。ライティングの仕事は、リゾートバイトをしている間に応募して見つけました。

自分の障害について考える転機が訪れたのは、長野県のゲストハウスに住み込んでいる時でした。「今後はどんな仕事をしようか」と考えていたところ「屋久島でインターンしてみない?」といったお誘いを就職活動時代にお世話になった方からいただきました。木工修業に挫折した自分に再チャンス到来か?と応募をしました。

面接をしていただいた際に聞かれた質問が、自分について考えさせられるものでした。たしか、以下のような内容だったと思います。


「いま、なにを思って、なんのために、そこに存在していますか?」

「今後は、どう生きていきますか?」

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