ロンドンのど真ん中で英語を学ぶ必要性を全く感じていなかったA君の話

かつてロンドンで生活していたころ、同じフラットの屋根裏部屋にA君という関西出身の友人が住んでいた。時折、この小公女セーラが閉じ込められた部屋のような感じがする彼の部屋に行ってはよもやま話をした。

ある日彼が言った。

「僕は、今、英語を勉強する必要性を全く感じないんやけどな。」

この英語国の中心に住んでいながら、英語を勉強する必要を全く感じないとは、この男は阿呆かと思うと同時に、只者ではないなと思った。彼は関西の有名私大の出身で、英語の基礎的な知識などは僕よりもきちんと持っていたことは間違いないが、それでも、彼自身は意外と簡単な英語のやりとりにも苦労していたようだった。

しかし、彼は休暇にはイギリス国内外を旅行して、見たいものを見て、現地で友達を作り、実は僕よりも充実した生活をしていたようにも思う。当時の僕は、イギリスにいる以上は、英語をきちんと勉強してモノにしなければという一種の強迫観念に取り憑かれていて(そのわりにはいまだに悲しいほどの英語力なのだけれど)、そのような焦りを一切見せないA君の自適な考え方と生活スタイルには閉口した。

しかし、言語の教師になってもう10年が過ぎる今、言葉の学習とはつまり、こういうことなどだと思っている。本人が必要性を感じなければ一向にそれは上達しないし、そもそも、やっぱりロンドンにいても英語は必要ないと思えば、実際、必要ないものなのだ。それは、日本での日本語学習にも当てはまる。

そう考えると、学校教育での英語導入に関する論争にも自ずと答えは出る。ここまで書けば、この論争に対するコメントは必要ないので書かないが、それよりもっと問題だと思うことは別にある。

とかく人はゲームのルールをいち早く覚え、どうしたらこのゲームに勝てるかを競いがちだ。当時の僕もこんな感じで、とにかく英語を身につけるというゲームに必死に参加しようとしていた(何度でも言うけど、その割にはお寒い英語力だが)。こういうことは言語教育の世界の内外において満ち満ちていて、とにかくどうしたらゲームのルールを他人より早く覚え、勝ち残っていけるか、この点のみが重要視される。

そこで、何でゲームに参加しないといけないのか?あるいは参加するにしてもなぜこのルールに従わなければならないか?という問題について考えられることはほとんどない。ゲームのルールはこうで、参加することは当たり前で、それを所与の枠組みとして勝ち続けることにしか意識を集中しない。

英語ゲームに参加することしか頭になかった当時の僕、そもそも自分はなぜ英語を学ばなければならないかをまっとうに考えていたA君。

実はここまでが前置き。

それで、英語に関わらず、世の流れは世界も日本も当時の僕がそうであったように、経済成長を至上課題として、グローバル化する中でどのようにこのゲームに勝ち残っていくかということにしか意識がないような気がする。

なぜ、経済は成長しないといけないのか?

なぜ、国際競争に参入していかなければならないのか?

なぜ、勝ち残らないければならないのか?

こんなことを考える人間は、まさに阿呆だろう。そんなこと考えている間に、世界はどんどん変化し、この成長の波に取り残されれば国際社会の中で日本は沈没してしまう。

ひたすらにゲームに参加し、明示されないルールを嗅ぎ取り、そのためのスキルを学び取り、勝ち進んでいく。英語教育はもちろんのこと、あらゆる教育はそれに呑みこまれていく。でも、そもそもなぜ世界はこうなっていて、なぜ私たちはそこに参入していかなければならないのか?

この世界についての理解と、参加に対する姿勢を考える間もなく、ひたすらゲームに勝つことだけを要求される。この参加とルールに関する決定権を一切持たされないゲームに勝てなければ、即、自己責任という言葉が襲い掛かってくる。できるかできないかは別として、勝つための方法は一応教えてくれるのかもしれないが、それがアリバイとなって「アンフェア」さはいつも隠蔽されている。

とにかく、経済成長というドグマに誰も正面切って異論を唱えられる人はいなくて、一昔前に流行った「持続可能な成長」はすっかり色あせたキーワードとなった感がある。

経済成長、この一言で、直観的な疑惑はみなカミナリに打たれたように打ち消されてしまう。

経済成長のために安価な電力供給は不可欠。そのために、人間がコントロールできないものですらも利用する。あるいは、経済成長のためには、自分で食べるものを自分で作ることなく、労働力の切り売りによって、食料を買い続ける。

(ちなみにこの状態は、自分で食べるための食料を耕作することを許されず、バナナやパイナップル、ココナツやサトウキビの大農場で商品作物を作り、そのわずかな賃金のほぼすべてを費やして家族がやっと飢えないほどの食料を賄うフィリピンの農園労働者を想起させる。日本のTTP参加はグローバル化の中の国際分業体制の中での、日本全体がこのような農園労働者化していくことを意味しないだろうか?)

表立っては誰も反対できないドグマ。

ところで、私たちは、戦争に突き進んだ戦前の社会を「よくない」と考えている。なんで、あんな阿呆なことをしたんだろう、なんで反対しなかったんだろうと考えている。その一方で、ものすごく特殊な状況の中で、ああなってしまったんだろうと考えていて、まさかああいうことは今の世の中では起らないだろうと思っている。

いろんなことはあるにせよ、全く同じことは僕も「たぶん」起らないだろうと思っている。

ただ、あの時代にも表立って誰も反対できないドグマがあったことは確かで、それは、国家そのものであり、国家が運営する戦争に対してであった。いわゆる「統帥権の干犯」を巡る問題は、かの有名の美濃部の「天皇機関説」に対する論難と、5.15事件や2.26事件といった軍部による直接的なテロやクーデターによって完成された。

このグローバル化された世界の中で、国家同士の直接的な武力行使による戦争は「たぶん」起こらないかもしれない。しかし、このドグマに対するスタンスと国家との関係は相変わらずで、それが現在は戦争から経済成長に取って変わっているだけのような気がしている。

あるいは、経済成長を競い合うことは、戦争が起こることよりもましではないかと明るくポジティブに、前向きに考えるべきだろうか?

しかし、経済成長を至上目的とする社会の中で、最近は減少傾向にあるとはいえ年間2.5万人(ちなみに日清戦争の戦死・戦病者は約18,000人)を超える自殺者を出し続ける社会は戦争状態ではないと言い切れるだろうか。あるいは、経済成長を続けなければ、自殺者の現象に歯止めはかからないだろうからやはり経済成長は必要であると考えるべきだろうか?

では、今まで何度も書いてきたように、飢えるほどの貧困が日常風景ですらあると言えるフィリピンで自殺者が少ないのはなぜか?

長々と書いたが、結局、何が言いたいのかというと、一応教育に携わる者としては、僕はやっぱりゲームに勝ちづづけるスキルの習得を競うだけの教育には興味もないし、関わりたくもない。

教育について考えるとすれば、世界はなぜこうなっていて、なぜ自分たちはゲームに参加しなければいけないのか?なぜこのようなルールになっているのか?それで自分はどうこのゲームと対峙するのか?これらの点を抜きにした教育実践はあり得ないと思う。

僕はこのような点を捉えることなく行わる教育を肯定できるほどには、未来に希望を持っていないし、ポジティブでもないし、前向きでもない。そして、それで良いとすら思っている。

僕は世界の姿を知らないまま、観察箱の中で増えすぎて共食いを始めるコオロギにはなりたくないし、コオロギを育てる教育にも関わりたくない。

それでも、未来に希望を持つとすれば、子どもか孫の世代が、「昔って経済成長に誰も反対できなかったんだってね。何で誰も反対しなかったんだろう?」と不思議がる世界を作っていくことができたらと思っている。

全ての教育もこのような世界を創っていくために編み直されていくべきだろうと思う。

今、必要なのは、ロンドンで英語学習の必要性を感じなかったA君のように、小公女セーラが住んでいたような屋根裏部屋に籠って(いや、籠らなくてもいいけれども)、世界はどのようになっていて、自分にとって本当に必要なものは何か?についてを、じっくり考える機会と時間であり、そのための教育なのではないかと思う。

蛇足だが、もし教育に普遍性があるとすれば、この点にこそ、それを求めることができるのであろうと思う。

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