音楽に人生を捧げよう、と思った話

2013年3月23日、尼崎Deepaさんで久しぶりのライブをします。初心に帰る意味でも、少し過去を振り返りながらバンドを始めた理由を思い出そうと思います。
音楽に初めて「触れた」と感じたのは7歳の頃、友人の家でピアノを鳴らした時でした。
最初は自分の好きな推理アニメの主旋律に含まれる音を鍵盤から探す、というだけだったのですが、そこから次第にメロディーを自分で作る楽しさを知りました。
これといった楽器もなかった当時の我が家ではこの楽しさを感じることが出来ず、友人の家に行く度に鍵盤で遊んでいたのを今でも覚えています。
思えば、音楽理論あるいは楽器演奏の方法というもののルールや制限を何一つ知らないでいたこの頃が最も純粋に音を楽しめた時期だったように思います。
少し話しが脱線しますが、「作曲」という行為は決して才能とか昔からの経験が与えてくれるものではない、と思っています。
誰だって知らないメロディーを自然と口づさむ瞬間があるはずです。
そのメロディーを譜面に書いてみるか書いてみないか。それが作曲の「出来る」「出来ない」を区分けする唯一の線分ではないでしょうか。
少なくとも、楽器は鳴らせば音階を教えてくれる。半端ながら初めての「作曲」はそれと意識しない中で、幼い自分は行なっていたようです。
ところで、勘の鋭い方は私のそういった経験に違和感を覚えるかもしれません。
友人の家で楽器を弾く子というものがどういうタイプの子供であったか、それを考えると多少理解して頂けるかもしれませんが、
私はどちらかというと「男の子らしくない」「女の子の友達が多い」「泣き虫」といったような言葉が似合う幼少期を過ごしており、男の子たちからは、からかいの対象となりやすい面がありました。
また、子供の疑問に対して、彼らにも分かるような曲解よりも例え理解できなくとも将来のために論理的に正しい解を提示するような父の元で育ったことが原因だったのか、当時の私の言葉の使い方にはませた部分が多かったようで、そう言った面でも、同年代の子とコミュニケーションを取るという点で苦手な面が多く、多数の友人は作れなかったのです。
周囲の大人からも同様の指摘を多数受けた時期でもあり、尚更友人というものに対して臆病になっていたように記憶しています。
しかし小学3年生の頃でしょうか。クラスが替わり新しい友人が少しずつ増えていく中、1人の男の子と出会います。
「どいっち」と呼ばれていた彼は大変社交的で、勉学や運動においては特に目立った部分はありませんでしたが、快活で裏表も上下関係も取り払ったような性格は私からは一線を画するものでしたし、そしてそんな性格故なのか彼は癖の強い私にも善くしてくれる1人でした。
ゲームの話からタイツの話まで、色んなことを言い合ったものです。
また、私と以前から仲よくしてくれていた女の子と大変親しい子でもあったので、3人で遊んだこともあったように記憶しています。
しかし、それから少し経って、小学4年生の秋に1つの転機が訪れます。
その彼が交通事故に遭い、帰らぬ人となったのです。
奇しくもその頃、私は誕生日が近く、彼にそのことを言おうか言うまいか悩み、言わずに過ごしたその翌日に起きたことでした。
彼はある意味、自分にとって憧れのような存在でもありました。
当時から私は、勉学に関しては得意であると自負していましたが、彼はそういったことだけが人生の尺度ではないということを体現していた人そのものでしたし、幼いながらも彼に私は多少の劣等感を抱いていたのかもしれません。
それ故に、彼の死後、無性に私は「彼になり変わる」ことを心のどこかで望んでいたように思います。
そして、この出来事を機に、賢く振る舞うことを極力抑え、友人と対等に関わることに努めるようになりました。
その甲斐もあってか、中学生になる頃には特に交友関係に悩まされることもなく、非常に楽しい学生生活を送っていたのです。
しかし、やはり頭の中には彼の存在がちらつき続け、次第に「幸せな生活を送ること」に対する罪悪感が強まって行くのを感じていました。
例えば、あの時自身が誕生日であることを伝えていたなら、彼の死は回避できたかもしれない。
例えば、あの時自身が代わりに死んでいたなら、彼は間違いなく今の私よりも価値のある生を送っていたのだろう。
そういった類の「たられば」が毎日毎日頭をちらつくようになったのです。
もちろん私自身、その考えのバカバカしさは理解していました。しかしそうは思っていても止まらないものなのです。
「彼になり変わる」べく頑張った私は、いつの間にか「彼にはなれない」ことを悟り、いなくなった彼と比較して自分がどうであるかを考えるようになり、挙句にはその「いなくなった彼」の記憶すら風化させている、これらの事実は、激しい自己嫌悪を引き起こさせるには十分なものでした。
この時、その思考の捌け口にしていたのが、歌詞の作成やMIDI(いわゆる音声データ)の作成でした。
曲だけを作ったり、曲に合わせて歌詞を書いたり、曲もなく歌詞だけを書いてみたり。
それらをインターネット上で人に見せることで、自分が何を考えているかということについてで少しだけ周囲の理解を得られた気になって、気休めにしていたのです。
こういう形の捌け口を見つけたのには訳があります。高校生の頃、HYというバンドのライブを友人と見に行ったのです。「じーま」と呼ばれていた彼は大変このバンドが好きで、当時このバンドが同じく好きだった自分を、「学校の帰りにライブを見に行かないか」と誘ってくれ、1枚チケットを渡してくれたのです。
最初はまだ聴いていないアルバムのためのツアーであったこともあり、乗り気ではありませんでした。
しかしいざ見てみると、その音楽の力強さ、お客さんの一体感に大変驚いたものです。
音楽の力を強く感じた瞬間でした。心のどこかでそれと同じことをしてみたい、と思っていたのもあるのかもしれません。
しかし、そういった逃げ方には限界がありました。
そして20歳を迎える間近になって、その壁は現れました。
「どいっち」の2倍の生を得たことに相当する年齢がちらつくようになって、なおも私が当時の彼ほど意味のある人生を送れているようには思えなかったのです。
彼を助けられなかった自分。彼になり変わろうとした自分。
彼にはなれなかった自分。彼ほど価値の無い自分。
いっそ、命を断とう。そう決断するのはそれほど難しいことではありませんでした。
とにかく、自分は彼に会いたくて、謝りたかったのです。
助けられずにのうのうと生きてしまいすまなかったと言いたかったのです。
20歳を迎えるまで、この気持ちは隠し続けるつもりでしたが、ふとしたお酒の席で、
「亡くなった友人を忘れるのは嫌だよね」と言った程度の発言を何気なく行なった時です。
『忘れてもそれを経験したのは自分しかいないよね』という言葉を頂きました。
それは私にとっては予想外の一言で、まさに「死ぬに死ねない」という状況に苛まれてしまったことを覚えています。
自分が死んだら彼が生きていた事実が消えてしまう、という観念は全く私は有していませんでしたから。
そこから先、20歳を迎えるまで精神的に行ったり来たりの日々を過ごしていました。
後から聞く話では、友人や家族でさえ「傍目から見ていても精神的におかしかった」そうです。
結局、誕生日当日は友人が自分のことを見守ってくれ、事なきを得ましたが。
そして、1つの決意をするに至る出来事がこの頃起きてしまいます。
一緒にHYのライブに行った「じーま」も交通事故で他界してしまったのです。
もはや、腕を組んで考えている時間を自分たちは有していないんだと感じた瞬間でした。
助けられる瞬間が1つも無かったことに対する悔しさは「どいっち」の死に対する悔しさとは別の痛みを伴うものでした。
じゃあ、記憶が風化する中で、自分はどうすればいいのか。
彼らの姿や声を思い出しながら、自分に出来ることは何なのか、改めて整理しながら、MIDIに触れていた時でした。
「どいっち」が自分の名前を呼ぶ時の音階が「F#」に極めて近かったことを見つけたのです。
これが、「音」に初めて涙した瞬間でした。何気なく鳴らしている周波数にも込められる意味はあったんだ、と痛感しました。
それは今までのようにMIDIや歌詞を書いていた時とは明らかに違う感覚でした。
音や言葉1つ1つは人それぞれに人それぞれの理由がある、意味がある、そういう理解を初めて出来た瞬間でした。
そうだ。拙いけど俺にはこれがあるんだ。人に広める手段があるんだ、と理解したのです。
そして、その「人に広める」ことは、「どいっち」や「じーま」だけでなく、人それぞれが有する過去や現在や未来における何か風化させたくない思い出さえも繋ぎとめることなんだとようやく実感できたのです。
この時、本当の意味で音楽をしたい、と思うようになりました。自分の声と言葉であらゆる物事を残せるようになりたいと思えたのです。
それから、歌詞を書いていた頃に関わっていた人達に声をかけ、バンドというものをしたい、とお願いをしたところ、全員快く引き受けてくれました。
そのバンドは舞台に立つことこそありませんでしたが、演奏すること。歌うこと。曲を作る難しさ。自分の技術の無さ。そういったものをたくさん教えてくれた大切な存在となってくれました。
今ではこのバンドは事実上解散していますが、この時のメンバーが今ではCDリリースだったり、あるいは有名なインディーズバンドさんの前座を務めたり、といった形で頑張っている姿を知っていますし、それぞれとスタジオに入ってセッションをすることもあります。
人と関わることが苦手だった自分には考えられないような現実がそこにはありました。
そして、今のバンド。楽曲作成の中で、作詞や作曲の多くを手掛けさせて頂いています。メンバー同士の思考が相容れないことはありますが、それでも音楽をしているという事実は何事にも代えがたいんだな、と感じる次第です。
ところで、ここまで長い文章にお付き合い頂いておきながら、このようなことを書くのは失礼かもしれませんが、この私の経験は「特別」なのでしょうか?
おそらく私にとってはそうです。しかし皆さんにだって大切な人を亡くした経験があると思いますし、そのことに対してどのような認識をするかは、皆さんそれぞれだと思います。
私は、経験というものそのものに実は価値の差異なんてなかったのではないか、と思うのです。
友人を亡くしたことも今日の晩御飯も、その現実に出会う瞬間まで理解していたかどうかは別として、その出来事を「ゴール」として我々は進んでいたはずです。
しかし、その現実に出会った瞬間、そこは「スタート」になるのです。
1つ1つの経験があってこそ、次の経験というものが唯一のものに確定されるのでしょう。
そして、目に見えるかどうか、耳で聴こえるかどうかは分かりませんが、音の波や足跡の窪みは、幾ら風化しようと、「存在しなかった場合の未来」と同質には決してならないのです。限りなく近似値に近づくとしても、明確な差異が必ず存在するはずなのです。
パラレルワールドなんて、この世にはないのです。
私は、音楽の神髄をそこに感じます。
ライブハウスを目的地、つまりゴールにしてお客さんが来てくれる。ライブが終わればライブ会場をスタート地点に、それぞれの目的地へ向かう。たった1つの現実を覆す力を有している。
変化させることが出来た現実を変化させなかったことで泣いた、つまり、どいっちに声をかけなかったことで罪の意識を感じている自分は今でもここにいますが、現実を変化させることそのものに責任の所在を探すことは出来ない、ということは理解できているのです。
だからこそ、少しでもこの現実を変化させたいのです。同じように痛むのならば、少しでも「何かがあった」という事実をここに残したいのです。
どいっちが、じーまが、私にたくさんの経験と記憶を残してくれたように、そしてそれらが今の私の音楽を形作っているように、必ずしも人生は長さで価値が決まるものでもありません。
そもそも、生死というものに価値の差異があるとは思いません。
どちらも限りなく未知で、神秘的で、辛いものです。
だからこそ、生や死とは違うところに自分の存在する、存在した目的を見つけたいと思っています。
生きていることは手段です。死んでいくことも恐らく手段なのでしょう。
なら、何を目的にするか。彼らは私にその答えを明確な形で与えてくれました。
皆さんはどうですか?もし、「生きていることや死んでいくことさえ手段になるような人生の目的」を尋ねられたら、どういう答えを導き出しますか?
私は、その答えがただ音楽をすること、でした。
少しでも多くの人に自分や自分の周りの人、自分が周りに影響され、ここにいたという、パラレルワールドなんて存在しないたった一つの現実を皆さんに刻むために生きるという手段を講じています。
その現実を刻むことが、じーまやどいっちを永遠に伝え続ける手段だと、もう私は知っているんです。
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辻 隆史

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