躁鬱病で引きこもっていた男が障害者福祉の事業を立ち上げるまで

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10年間、封印してきた想い



Web制作の事務所「ウェブレイス」を立ち上げて6年半、スタッフにも取引先にも友達にも、誰にも話していなかったことがある。

建山
障害者福祉で人の役に立ちたい

つい2か月ほど前にひとつの出会いがあり、そのパートナーとともに障害者福祉の事業を立ち上げることになった。これは思いつきでもなんでもなく、10年前に決意し、ずっと封印してきた想いを形にするチャンスだった。しかし以前から僕を知る人の誰もが「なぜ建山が福祉?」と思ったに違いない。


4年前の飲み会で初対面から意気投合した男(T氏)がいた。T氏とはその後facebookで繋がったものの、T氏自身はあまり投稿せず僕の投稿にいいねやコメントをつけるのが常で、結局T氏とは4年間特に会ったりすることもなくfacebookのみで繋がった状態。


そのT氏がここ最近、facebookでいろいろ投稿しはじめた。


プライベートの投稿、仕事の投稿、今まで全然知らなかったT氏の近況。その中に現在の仕事の内容、「発達障害の支援」があった。正直それを見た時はピンと来ていなかったが、T氏が具体的にどんなことをしているのか、そもそも4年前には学生の就職支援をしていたのがどうして今の仕事に就くことになったのが気になったので、久しぶりに声をかけて会うことにした。


会った結果、T氏の福祉への考え方が自分のそれとぴったり重なった。
そして、自分が10年前からずっと封印してきた想いを開放した。


自分の想いをT氏にすべて伝えると、それからすぐに話の流れは「これからやるべきこと」に進んだ。2人で「何か」やろうとその場で決めた。「何ができるか」を話し合い、その日のうちに「これから2人でやっていくこと」のおおよそのアウトラインが完成した。





アドバイスをもらってまわる日々




この障害者福祉事業を始めるにあたり、T氏との再会以降2か月ほどの間に身近な30人程の友人・知人・先輩・ビジネスパートナーに「こういうことがやりたいんですがどう思いますか?」と相談して回った。


とにかく客観的なアドバイスがほしかった。なによりも「福祉」という未経験分野で「強い想い」だけで何かをやり遂げるのは難しい、しかもきちんと継続しなければ意味がない。もちろん継続するためには事業として収益も上げないといけない。手弁当ではすぐに力尽きてしまうのが見えている。


理解してくれる人、助言してくれる人、応援してくれる人、そういう人たちの力がなければうまくいかないことは十分理解できていた。


相談を聞いてくれる人に対しては「これからやりたいこと」と「なぜやろうと思ったか?」の2つの話にわけて説明した。


「これからやりたいこと」、簡単に言うと「発達障害者が生きやすい社会をつくること」。そのための周知活動や、既存の職業訓練・就労移行を行っている事業所との協力による高度職業訓練やインターンシップ制度の充実、最終的には収益事業を行う別法人を立てて雇用を生みだしていきたい。


いいことやるんやね、応援するよ

この話をするとたいてい皆、応援するよ、と言ってくれる。長年お付き合いのある人だったりするので本心から応援してくれて、いろいろアドバイスをくれる。非常にありがたい。


一番最初の知人に相談した時は、この「これからやりたいこと」の話ばかりを熱心に話していた。
伝わると思っていた。

で、なんで福祉やろうと思ったの?

こう聞かれて我に返った。

そもそもなんで自分はこれがやりたかったのか、パートナーのT氏には確かにその話をしたことで意気投合したのだが、相談者に話すことは考えていなかった。





バックボーンを伝えることの重要性





いっそ「なぜやろうと思ったか?」をまとまらなくてもいいから思いのままにしゃべってみよう。

建山
長話になりますが、いいですか?


そもそもプレゼン的に話せる内容でもないので、時系列も多少は無視して、ありのまま、しかし暗い話や重い話はほどほどに、気持ちを込めて伝えてみた。

建山
・・・というわけなんです
・・・・・・・

重い話なので、空気も重い。
ちょっと間があいてから相談相手が口を開く。

納得した!応援する!
何でもできること言って!

バックボーンを伝えると、驚きを隠せない人、涙ぐむ人、意外と軽く受けてくれる人、反応は様々だが皆、腑に落ちた、納得した、と安心してくれる。中には「実は私は○○で・・・」「実は家族が××で・・・」と逆カミングアウトしてくれる人まであった。


やはりこれはすべて含めて伝えないといけないと思い、それ以降ほぼすべての人にバックボーンも含めて話すことにした。人に話すこと、それは自分の人生の振り返りでもあり、自分自身の「今」を作ってきた「要素」をもう一度確かめるいい機会だった。




【きっかけ】スーパーマンになる病気




20代の頃、躁鬱病(双極性障害)で障害者になり、精神障害者手帳を持つことになった。
正確に言うと、最初に自律神経失調症、次に鬱病と診断され、のちに躁鬱病とわかった。


双極性障害を自分なりに説明するとき「スーパーマン病」と呼んでいる。

いわゆる躁状態の時は睡眠時間もあまり必要とせず頭は冴えわたってアイデアはたくさん湧いてきて自信にも満ちた状態。しかし行き過ぎるとパワーが有り余って衝動的な行動(衝動買いなど)が増え、イライラもつのる。スーパーマンもパワーを持て余すと自制が利かなくなる。


ちょうどよい按配(軽い躁状態)であればいろいろ捗るし、障害とは全く言えないくらい快適な生活を送れるのだが、大抵の場合はベストな状態はすごく短くて、パワーが有り余るタイプの躁状態が長く続くので、衝動買いはもちろん、いきなり車で遠出してみたりして何日も家に帰らなかったり、持て余した「何か」を消費する活動に躍起になってしまう。


そして、パワーを使い果たすと「エンスト」の時期が来る。
スーパーマンの時に使った(前借りした)膨大なエネルギーの反動が押し寄せてくるために、心身ともにものすごい負担がやってくる。ワンピースのルフィーが「ギアセカンド」や「ギアサード」の反動で動けなくなったりするのと正に同じようなもの。これがいわゆる鬱病の鬱状態と同じ類のものになる。しかも重度の。


躁鬱病患者が躁鬱病と診断されるまでに時間がかかるのは、スーパーマンの時には病院に行かないから。本人にとっては自信に満ちた状態であって、病院に行く必要などない。鬱状態に落ちている時しか病院に行かない。そうなると、ほとんどの躁鬱病患者は最初必ず鬱病と診断される。


鬱病の治療には「気分を上げる薬」が使われることがある。これがやっかい。気分を上げたり思考の抑制を外したり意欲を高めたり。この薬が効いてしまったら、また「スーパーマン」に逆戻りしてしまう。そしてまた、パワーを使い果たしてエンストしたら鬱状態。


結局、躁鬱病とわかるまで、エンドレスに行ったり来たりを繰り返し続けることになる。そうすると当たり前のように心も体もボロボロになってしまう。そして、躁状態のピークになり、イライラがMAXに達した時、衝動的に飲まずに残っていた睡眠薬を大量に飲んでしまった。オーバードース(過量服薬)と呼ばれているものだった。





【閉鎖病棟】ごちゃまぜの異空間




気が付くと病院にいた。


幸いなことに実家であったこと。
両親が比較的早めに異変に気付いたこともあって、すぐ救急車を呼んでくれたらしい。


病院で目が覚めた時には、オーバードースの処置のための胃洗浄が済んでいた。自分でははっきり覚えていないが、薬で意識朦朧の中、自傷もしていたようで、手には包帯が巻かれていた。後に両親に聞いたところによると、部屋に大きな血だまりができていたらしい。


そのまま入院することになった。躁鬱病という名前を聞いたのはそのころだった気がする。

そこは大学病院の閉鎖病棟だった。


閉鎖病棟とは病棟から出てはいけないというルールがあるだけで、特に厳しい管理などはない。精神病棟ということで、統合失調症、強迫神経症、鬱病、パニック障害など様々な患者が同じ病棟で過ごす。その時は高校生くらいの女の子から中年男性まで、10人弱が同じ病棟にいた。


6人部屋の同室には自分の他に2人いた。


1人は強迫神経症の若い男性(U君)。U君は年齢も近かったので、病気について話すことも多かった。彼は一見とても元気で、全く障害があるようには見えないが、時折ものすごく大きな強迫観念に襲われて平常心を失ってしまうらしい。家業を継ぐ必要がありそのために治療に専念しているらしく、退院後も合う機会があったが、その後無事に家業を継げたかはわからない。


同じ病棟にいる皆はほとんどそういった人たちばかりで、一見健康そう見えるが、あるトリガーによって平常心を保てなくなる、その不安定な状態をいい意味で「監視」「管理」するための閉鎖病棟なのだと理解できた。


ただ、同室のもう1人の男性(Sさん)はそれにあてはまらなかった。Sさんは年齢は10歳ほど上で、僕と同じく躁鬱病だったが、入院中躁状態が継続し続けていて、落ち着きがなく常にウロウロ歩き回り、よくしゃべり、他人に干渉することが多い。自傷癖も激しく、たくさんの傷跡があった。看護師さんにも常にマークされていて、あちこちで注意されている。本人によるともう何度も入退院を繰り返しているらしい。


別室の入院患者同士でも、テレビが置いてあるデイルームで話をすることもあるので体調の良い人たちが集まり話をすることがある。


別室のJ君はビジュアル系のおしゃれな青年。鬱病で入院しているが、彼もSさんと同じく自傷癖がひどく、傷跡がびっしり残っている。ネットが好きなので、よく話をしていた。彼とは退院後にも交流を持つことになるが、それはまた別の話で・・・。


J君と同室のD君、彼は黒髪長髪に髭を蓄えたミニマリスト。鬱病が主だった症状のようだが他にもいろいろ抱えているようだった。かなり独特の世界観を持っていて、時々ポエムを書いてはそれを朗読して聞かせてくれた。彼とも退院後に交流があるのだが、いろいろと事件に巻き込まれることになる。これもまた、別の話として・・・。


入院中の出来事、退院後の出来事はあれこれたくさんあるが、それは別の機会に書くことにしたい。


治療は投薬のみ。躁鬱病と診断されてからは「気分が上がる薬」ではなくて「気分の浮き沈みを抑える薬」に変わったので、躁状態にはなりにくくなっていたかもしれない。どちらかと言えばこの先しばらくは鬱状態が続いた。


1ヶ月経つと自動的に退院となる。当時なんかの決まりで1ヶ月以上入院できなかったらしい。結局、よくなったかと言えば躁状態になりにくくはなったかなという程度だった。自分以外にも様々な人がいるということがわかったといえばポジティブな感想になるのだろうか。




【退院後】自宅に引きこもる毎日




実家から時々通院という生活に変わった。

躁状態にはなりくくなったので、どちらかといえばずーっと鬱が続くような毎日。ときどき軽い躁状態になると少し外には出るが、基本引きこもりの状態だった。


障害者手帳があることで、デイサービスに通うことも試みたが、数か月と持たなかった。
デイサービスとは障害者が通所する施設で、例えば精神障害者のデイサービスでは精神障害を持つ人達がそこに毎日(もしくは行ける日のみ)通い、共同生活をする場になっている。


オセロやトランプをしてみたり、本を読んで過ごしたり、みんなで散歩に行ったり、主にコミュニケーションを重視するようなものが多い。だが、それが逆効果になることも多く、日々ケンカなどのトラブルも絶えなかった。鬱状態の人同士がお互いのネガティブな感情をぶつけてしまうと、そのネガティブな感情は周りの人間にもすぐに感染してしまう。鬱状態の人はオイルの滲みたスポンジみたいなもので、ネガティブな火花が飛んで来ればすぐに着火してしまうので、本来であれば(精神状態が良くないときは)共同生活などしないほうがいい。


結局「そんな火の粉にさらされるくらいなら家にいたほうが」となってしまい、デイサービスに通うのはやめてしまった。


そんな引きこもりの相棒はパソコン。朝から晩まで、ではなく、完全夜型生活だったため夕方から朝まで、ずっとパソコンの前にいた。調子のいい日には創作活動と銘打ってグラフィックソフトでイラストなんかを描いてはいたが、集中力が長く続かないので満足いくものは全くできあがらなかった。


そんな中、特にチャットに入り浸っていた。


チャットルームにいろんな人が出入りするので特に何も集中する必要もなく、たわいもない話を、誰ともなくするだけ。何となくそこに居場所がある感じがして安心できる。文字だけのやり取りだし、後腐れもないので面倒なことは一切ない。


当時はfacebookやTwitterはもちろんのことmixiさえまだなかった。テキストと顔文字だけでやりとりする、今から考えると原始的なコミュニケーションだったが、それが「外界」との主な接触手段だった。



ある日、そんなチャット生活に変化が訪れる。
リブリーという新しいチャットに出会った。

今でいえばアメーバピグのように、自分の分身の上に吹き出しが出てきてチャットをするもの。その分身は人間ではなく動物のような妖精のようなキャラだった。当時テキストベースのチャットばかりしていたことからするとすごく新鮮で、すぐにハマった。


夕方から朝まで、毎日リブリー。
リブリーの中でたくさん友達を作った。





【出会い】外に出るきっかけ



リブリーの中で知り合った1人に、イラストレーターの女の子(Nちゃん)がいた。彼女は主婦でありながら、イラストレーターとして有名な仕事もしていて、当時の自分からすると尊敬の対象だった。(ちなみに十数年後の今もさらに活躍している)


Nちゃんとは絵の話で盛り上がるだけでなく、いろんな話をした。こちらの話もしっかり聞いてくれた。すごく安心して話せる人だったこともあり、障害のこともすべて打ち明けていた。


そんなある日、Nちゃんは僕をとあるリブリー内での仲間たちの集まり、コミュニティーのような場所に誘ってくれた。絵を描く仲間たちが集まる場所だそうだ。Nちゃんは「そこにはとてもいい精神科のドクターがいるから安心して」とフォローした。そのドクターも絵を描くんだそうだ。昔絵画教室に通ってたりして、趣味で描いているらしい。


そのドクターに少し興味が湧いた。


それまで大学病院の「1時間待って3分診療」というタイプの精神科医としか会話したことがなかったので、Nちゃんの言う「いいドクター」とはなんなのかが気になった。


早速、そのチャット上のコミュニティーに参加してみた。
Nちゃんみたいにプロとして雑誌にイラストを描いている女の子や、ドクターのように趣味で絵を描いている男性など、6~7人ほどがそこに参加していた。


常に全員がそこにいるわけではないけれど、暇な人が好き好きの時間に集まってくる。とはいえ僕は暇なのでちょくちょく顔を出す。


ある時、たまたまそのメンバーの中には大阪の人間が多かったことから、大阪でのオフ会の話が持ち上がる。お互いの描いた作品を持ち寄って食事会、というような主旨らしい。


ドクターとチャット上で少ししゃべっていた僕はさらにドクターへの興味が湧いていて、その興味が「外へ出たくない」という気持ちをすでに上回っていた。





【リアル】オフ会での出会い




オフ会は大阪市内の繁華街で行われた。ひさしぶりに人が多い場所へ行くのはまだ抵抗があったが、ドクターへの興味がすべて打ち消してくれていた。


お店に着くとメンバーが揃っていた。

各自持ち寄った作品を出して自己紹介。


ドクターはなんとなく一目でわかった。名前はO先生、僕より10歳ほど年上、今まで出会った精神科の先生の中で一番若い。医者っぽさはあまりなく、気さくなお兄さんといった感じ。


Nちゃんはチャットでのイメージ通り優しそうで、関西弁でいう「シュッとした」美人。主婦には全く見えない。


順番に自己紹介していく中、1人だけリブリーのコミュニティーにはいない女性がいた。


MさんというO先生の友達。先生が絵画教室に通ってたころからの友達らしい。作品は持ってきていなかったが、そのお店の壁にある大きな絵が彼女の作品だという。墨を使って独特の世界感で描かれた絵、そしてMさん自身も独特な雰囲気を持っていた。ちょっと気になる存在だった。


とはいえ僕の興味はドクター。
連絡先を交換して、それ以降連絡を取り合うようになった。


O先生は、大阪市内にお姉さんと2人で心療内科を営んでいると聞いた。迷わず大学病院での通院をやめて、先生の心療内科に通いはじめた。






【先生のお誘い】外出が増えた





ある時、O先生から「家に遊びにおいで」とお誘いがあった。


先生の家はいわゆる高級タワーマンション。
広い家に、奥さんと3歳くらいの息子さんと3人で住んでいる。先生の部屋に入れてもらうと、そこはシアタールームになっていて、壁の棚にはDVDがびっしり、50インチの大型モニターにサラウンドスピーカー、大きなリラックスチェアに座って映画が観られるようになっている。


先生は多趣味で、絵画や映画の他にカメラも好きで、新しく買ったデジタル一眼のレンズなんかを自慢げに見せてくれた。その時の僕はカメラにはあまり興味はなかったが、嬉しそうに話す先生に惹かれて話に聞き入っていた。


O先生はそんな話をしながら僕に聞いてきた。

O先生
今度ランチでも食べに行こう。何か食べたいものある?
建山
えーっと・・・おいしい唐揚げが食べたいです。

実家にほとんど引きこもっていて、先日のオフ会以外全く外食らしきものをしていなかったので、好物の唐揚げがとても食べたかった。

O先生
ニューミュンヘンって知ってる?
建山
いえ、聞いたことないです。
O先生
じゃあ、そこ行こう

そんなわけで人生初となるニューミュンヘンの唐揚げを食べに行くことになった。
もちろんこの時も、おいしい唐揚げが食べられる、というモチベーションが外出の手助けをしてくれるのである。





【2回目】再会したのかさせられたのか




大阪市内に電車で出かけるのも、オフ会、クリニック、先生の家、と行動範囲が広まるにつれ、少しは慣れてきた。もちろんどちらかといえば電車に乗るのはしんどい。なので、乗りたくない。


でも、唐揚げへの気持ちが勝っていた。


ニューミュンヘンに着くと、O先生が先に座っていた。
正確に言うと、O先生とMさんが座っていた。オフ会で異彩を放っていた、あのMさん。

建山
なんで???

てっきりO先生と2人で食べるものだと思い込んでいたので、ちょっと戸惑ったが、2人は何事もなさそうにふるまっているので、僕も気にしないふりをしてみた。


ニューミュンヘンの唐揚げはやっぱり美味かった。
3人で談笑しながらけっこうがっつり食べた気がする。

ごめん、ちょっと出てくる

ある程度の量を食べて、少し落ち着いた頃、O先生が席を立った。外で電話でもしてくるような感じだったので、気にせずそのままMさんと話しながら待っていた。


・・・が、結局O先生は帰ってこなかった。
会計も済ませていたらしい。



Mさんとはこれがきっかけで仲良くなった。これが、のちのである。
その後しばらくして付き合うことになり、同棲を経て、その後結婚することになる。


後々考えるとO先生、策士だったんだなと。





【違和感】先生からのお呼び出し




その後もO先生からは時々「お呼び出し」があった。
「家に遊びにおいで」「お茶しに行こう」「ご飯食べに行こう」
その都度何か理由を作って僕が外に出やすいようにしてくれていた。


ところがある日、理由なしのお呼び出しがあった。

O先生
今から大丈夫?○○駅で待ち合わせしよか
建山
どこ行くんですか?
O先生
まあええやん、とりあえずおいでよ
建山
あ、はい・・・

目的があって出かけることには少し慣れてきたころではあったが、どこに行くのか何をするのかわからないというのは結構不安だった。でもO先生が別に変なところに連れて行くわけではないのはよくわかっていたし、とりあえず出かけてみることにした。


駅で待ち合わせすると、いつも通りにこにこしているO先生。
何を企んでるんだ、この人。


駅から歩いて1分もしないうちに、とあるテナントビルに着いた。

建山
ここに何があるんですか?
O先生
まあええやん、とりあえずいこか
建山
あ、はい(まあよくないです)

エレベーターに乗り、降りると目の前の扉に看板がかかっていた。


「O音楽事務所」






【スタジオ】音楽事務所をつくったO先生



建山
え?先生、バンドかなんかやるんですか?
O先生
いや、やらんよ
建山
レコードレーベルかなんかですか?
O先生
いや、ちがうよ
建山
え?
O先生
まあ、とりあえず入って

音楽事務所と書いてある扉をO先生が開けた。
すると結構広い事務所スペースに音楽機材がいろいろ置いてある。
ターンテーブルやら、ミキサー、サンプラー、そして大きなスピーカー。


O先生
適当に触っていいよー

置いてある機材の電源をポチポチと順番に入れながら先生はそう言った。
でも、まったく触ったことない機材を触れるわけもなく、とりあえずいろいろ観察してみた。とはいえ実はそんなに興味もない。でもO先生にはそうも言えないし・・・。

建山
O先生、僕こういう機材触ったことないんで・・・
O先生
そうか、じゃあ習ってくる?
建山
え??

先生が言うには、近くに大きな楽器店がある、そこで無料体験レッスン的なものがあるから行ってきてはどうかと。正直あまり気がのらなかったが、後日楽器店に電話をして無料体験レッスンを申し込んでみた。「DJスクラッチ体験レッスン」。







【レッスン】DJ体験してみた結果






結果・・・予想に反してめちゃくちゃ面白かった
レッスンが終わってすぐO先生に電話をかけた。

建山
先生、めっちゃ面白かったです!
O先生
そやろ?今からスタジオ行く?
建山
はい、行きます!

音楽事務所につくと早速レッスンで習ったレコードのターンテーブルを使っていろいろ試してみた。



↑これが実際の写真。O先生が写したものです。写っているのが当時の僕。
 この時はまだ未完成で、この後ソファやら大型のプロジェクターが導入される予定。



教室でたった1回習っただけでもずいぶん楽しめるようになっていて、とにかく夢中になってレコードを回していた。そして、そのうち隣のCDJ(CDを回すターンテーブル)の使い方をO先生に教わった。

O先生
家のパソコンでCD焼いてくると面白いよ

早速、家のパソコンに音楽の打ち込みソフトを入れて自分で曲らしきものを作ってCDに焼いてみた。そして音楽事務所のCDJでスクラッチする。


面白すぎる!!


こうしてまんまとO先生の策略にはまり、引きこもってなんかいられない状態になっていた。







【元気がない】先生からのお呼び出し





ある時、いつものようにO先生から家に遊びにこないかと連絡があった。
でもいつもとちょっと違う。元気がない感じだった。


先生の家に着く。
やっぱり元気がない・・・というか表情がない?!

O先生
顔面神経麻痺になってしまった。
ストレスかなあ・・・・

O先生の顔の右半分が全く動かなくなっていた。

ストレスなのか何なのか、原因ははっきりしないが、クリニックでの診療をしばらく休んで通院生活をするらしい。けっこう落ち込んでいたが、僕はどう接していいかわからず、いつも通りO先生とたわいもない話をしていた。

この状態は人に見られたくないとのことで、外食はせずにO先生の家で出前をとってご飯を食べた。

O先生
どうせ家にほとんどいるから、
いつでも家に遊びに来て

クリニックも休み、外出も少なくなったO先生は、1日ほとんど家にいるので寂しかったのだと思う。ただ、僕としては何故か気を遣ってしまい、以前よりも会う頻度が少なくなっていた。








【訃報】突然すぎるさよなら






ある時、O先生の奥さんから電話があり、O先生が亡くなったと知らされた。

 享年37歳


奥さんと息子さんが買い物に出かけていて、O先生がひとりで留守番中に心筋梗塞に襲われたらしい。2人が帰った時には冷たくなっていた。




もしかしたら、顔面神経麻痺は前兆だったのかもしれない。



もっと頻繁に遊びに行っていれば何かできたかもしれない。



そう考えるのも、そんなに続かなかった。



とにかく呆然とした。
ぽっかり開いた穴。
何も考えられなくなった。


引きこもっていた僕を、ここまで引っ張り出してくれた先生。


困った時には何でも先生に相談していた。



すごく恥ずかしい話、お金を貸してほしいと泣きついたこともあった。
そういう時先生は、嫌な顔をせずお金を稼ぐ手段についてアドバイスをしてくれた。


先生がいなくなったことは誰に相談したらいいのか?



先生がなくなる少し前から、Mさん(今の嫁)とはすでに同棲を始めていた。
嫁にとっても長年の友達をなくした喪失感に脱力していた。



嫁と2人でお葬式に参列した。

ただただ、泣くしかなかった。
涙が止まらなかった。


奥さんに声をかけることもできなかった。


お葬式の後、奥さんから声をかけてくれた。

奥さん
来てくれてありがとう
奥さん
よかったら、落ち着いてから
部屋に遊びに来てあげて





【最後の訪問】先生の部屋へ




お葬式が終わって2~3週間経ったころだったか、嫁と2人で先生宅に訪問した。


先生のオーディオルーム。
何も変わらずそのまま。


奥さんと少し話をする。
あんなことがあったなあ、こんなことがあったなあ。


3歳の息子さんは事態をわかっていないようで、楽しく遊んでいるようだった。


奥さん
DVDたくさんあるから、よかったら形見として持って帰ってもらえませんか?

奥さんに促され、僕と嫁と数本ずつ、DVDを選んだ。
今でも大事にしている。


ひと通り話も済み、帰る間際、奥さんが声をかけた。


奥さん
言おうかどうしようか迷ってたんだけど・・・

お葬式の後、音楽事務所から機材を全部引き上げ、家の一室に積み上げられていた。
このまま業者に引き取ってもらうつもりだったが、よかったらこれも形見にと言ってくれた。


もちろんすべては無理なので、一番楽しませてもらったCDJ関連の機材とサンプラーを形見としていただくことにした。


(このDJ機材は、結婚後我が家に人が集まった時に家の中にDJブースを設置してみんなで遊んでいたが、今は子供のおもちゃ置場と化しているので、押し入れに大事にしまわれている。今後、福祉事業の中で、みんなで集まれる場所ができたら設置したいなと思ってみたり。)





【決心】その日までさよなら





すべてが終わった気がした。


先生には感謝してもしきれない。
でももうありがとうも言えないし、恩返しもできない。


先生への恩返しとして何かできることはないか、そう考えた。


先生が精神科医としてやりかったこと。
一個人としてやりかったこと。
音楽事務所でやりたかったこと。


何かひとつでも夢の続きが紡げないか・・・。


今から精神科医になることは無理だろう。
なら、カウンセラーはどうか?


カウンセラーの民間資格を調べ上げ、次から次へ資料請求をした。
たくさん送られてきた資料を読み漁る。

なんか違う。
これ俺じゃなくてもいいよ、きっと。
もっと違うことができるはず・・・。


でも、きっと今じゃないだろう。
今の俺には何もできない。
でも、できる時がくるはず。
できるようにならなければ。


よし、一旦この想いを封印しよう。



そして自分が「恩返し」をできる時がきたら、この想いを全部ぶつけることにしよう。


先生が亡くなった37歳。
もしくは自分が何かを成し遂げた時。
いずれのタイミングを目標に。





そして今、37歳を3年過ぎ、今年40歳になる。
自分のIT事業もまだまだ発展途上。



でも、今、目の前に目標ができた。



 やるなら今しかない



O先生に感謝を込めて。

ありがとう!








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長文お読みいただきありがとうございました。
いろんな人の支えで障害者福祉事業を開始することができました。
しかし、これからがスタートです。

よろしければ、これから始まる僕の「恩返し」にご興味ある方は
tateyama@webrace.jp
までご連絡ください。

ありがとうございました!

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2015年8月追記

無事、「一般社団法人みがく」を設立しました。

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2015年9月追記

非常に残念な出来事ですが、この10年の中で人生に影響を与えてくれた恩人がまた一人、若くして急逝されました。恩返し、さらに邁進する決意を固めました。ご冥福をお祈りします。





読んでよかった
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O先生から「ありがとう」
って言って貰えますように。
私達夫婦もカズさんに恩返ししないとネ。笑
微力ながら協力させて頂きます!

これからですな

ぼくもココロの病とたたかっていますが、はたらきかたやいきかたを通して何かこれからできないか、、と考えています。励みになりました。

ガンバッて下さい。

私も躁鬱なので
読みこんでしまいました。

建山さん、昨日の泉州SBツアーでご一緒させて頂いた蓮尾です。ストーリー読ませて頂きました。この事業に携われた理由がよくわかりました。私も自分の体験から始めたこと。当事者だからこそわかる、出来ることがありますね。これからも頑張って下さい。そして、またお目にかかりたいと思います。

僕が過去に読んだ中で最も僕の人生に影響を与えてくれた物語がこれです。こんなに素敵な物語をありがとうございます。

勇気をもらいました

ありがとうございます。すごくすごく・・・私の元気につながりました。

ストーリー読ませていただきました!建山さんの熱い気持ちが今の建山さんのパワーに繋がっているのですね!協力出来る事があれば、私もぜひお手伝いさせて下さい✨ハード面でもソフト面でもバリアフリーで居心地のよい場所をより多く作りたいです!!

建山 和徳

1999年にMacintoshと出会いデザインの道へ。Webデザインとグラフィックデザインの経験を積み、2008年に「ウェブレイス」創業。2010年から講師業開始。2015年、「一般社団法人みがく」を設立。

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建山 和徳

1999年にMacintoshと出会いデザインの道へ。Webデザインとグラフィックデザインの経験を積み、2008年に「ウェブレイス」創業。2010年から講師業開始。2015年、「一般社団法人みがく」を設立。

建山 和徳

1999年にMacintoshと出会いデザインの道へ。Webデザインとグラフィックデザインの経験を積み、2008年に「ウェブレイス」創業。2010年から講師業開始。2015年、「一般社団法人みがく」を設立。

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