第一志望企業を辞退した就職活動。本当に大切にしたいことに気付いて決断をした時の話


家庭が全宇宙。マレーシアでの光景。

僕は物心ついた時からマレーシア・クアラルンプールで暮らしていた。

家業の都合でマレーシアに2歳から10歳まで住んでいた。


最初の記憶はマレーシアで迎えた3歳の誕生日。

「さんさい!」と言って3本指を立ててはしゃぎ、左手を父が、右手を母が持ってブランコのように揺すられていたのを覚えている。


そのころのマレーシアは、さまざまなものが整っていなかった。断水、停電、物品の供給不足、一歩郊外に出ればそこには原生林のジャングルが広がっていた。そして治安も同級生の母親が刺殺された、という事件が起こるくらい悪い。当時はなにもかもが発展途上の国だった。


日々の生活は幼稚園までほとんどを家で過ごしていた気がする。なかなか気軽に外に出れず、家庭は全宇宙だった。周囲の日本人の友達は父親の赴任期間が2,3年だったため僕たち家族がいる間にめまぐるしく周囲にいる人たちが変わっていった。新しく来て、歓迎し、しばらくしてその子の送別会をする。

「なんで●●君はいなくなるの?お父さんもお母さんもいなくなるの?」

と小さいころ言っていた記憶がある。それを聞いて父も母も大笑いしていた。


マレーシアはとても親日な国であることを当時認識はしていなかったが感じていたと思う。「I’m Japanese」と言うと現地の人はとても好意的な反応をしてくれることを幼い僕は知っていた。日本を見習い、追いつき追い越せ、と当時の首相マハティールが音頭を取って国を推し進めていたことは後で知った。

当時マレーシアでは毎年、中国正月に首相官邸が開放されて長時間並べば誰でもマハティール首相と握手ができた。数時間並んで両側にマシンガンを持った兵隊が大勢いる部屋に入り、首相と握手を父がした。その握り合った手と手を見上げていたときに首相が


「日本人の方ですか、これからの両国をよろしく」

というようなことを言っていたのを目にしたとき、何かわからないがとても温かな感情になった。続いて僕も握手をした。とても優しい感触だった。

8年間の現地での生活を終えて、マレーシアから日本に帰国する日。

飛行機が離陸して窓からクアラルンプールの町を見下ろした。暗い中に点在する明かりを目にしたときにものすごく静かに涙が出た。とても好きだった国を離れる寂しさだった。


恐怖、そして決意

帰国後地元の小学校に編入し、サッカー少年団に入り、サッカー漬けの生活になった。

学校に行って、遅くまで練習してから薄暗くなる中で帰る。中学もサッカーをし、高校に進学してもサッカーをすることを選択した。このころになると、母が家業の一員として入社して両親共働きとなっていた。働きだして、母はものすごく生き生きとしていた。


帰ると祖母が晩御飯を作ってくれていた。それから母が帰ってきて、父が帰ってくる。そして一日が終わる。ベッドに入って思う。何かがおかしい。でもよくわからない。今思えばその正体はわかっていた。でもそれから無意識に目をそむけていたに違いない。


そしてそれを直視する日は突然やってくる。

「全員集合。」

父が全員を呼び集める。食卓に全員が座る。妹はきょとんと、何?と言う顔をしている。そこで父が家を出ていくことを告げられる。やっぱりか、という気持ちは最初の一瞬で次の瞬間にはとても恐ろしい気持ちになった。恐怖だった。


別居と言う単語は聞いたことがあったが気持ちで理解ができない。どう処理していいかわからない。何かが、当たり前にあったものがなくなる。その恐怖から泣きそうだった。でも、目の前を見ると妹が大泣きをしている。こんな悲しそうに、激しくこいつは泣くんだ、と思って自分が泣くことを忘れざるを得なかった。出そうとしていたものが出なくなった。

外で爆発させようとしたものは中に戻り自分の心の中で爆発した。


翌日、学校に行き応接室で心許す担任の先生の前で初めて、泣いた。自分でもびっくりするくらい泣いた。全てを吐き出し、日々の日常に徐々に戻っていく中で静かに、でも明確に自分の心に刻み、こう誓った。絶対にこんな思いを自分の子供にはさせない。将来は必ず世界一幸せな家庭を作る、と。


その4年後。すでに別居と言われていたときには離婚していたことを知った。そんなことを微塵も僕たち兄妹に感じさせることなく4年間、後継の経営者となり重責を背負いながら働いていた母は何を思っていたのだろうか。高校サッカーと受験に集中する環境を作ってくれるために言わなかった、その事実に心からの感謝を覚えた。

「日本はもう終わった国だ。」その言葉を吹っ飛ばした光景

大学に進学し、3年生の時にフランスに留学をした。留学先の学校には伸び盛りの、中国、ブラジル、インドネシア、インド、などの国から来ている留学生がいた。

「俺は母国に戻ったら国を背負って働くんだ」そんな彼らに日々接していて、素直にそれを素敵なことだと思った。しかし、とある日に他国の留学生から言われた一言は僕に重く刺さった。


「日本は今まではすごかった。でも、日本はもう終わった国だ。いったいこの20年何をしていたんだ。これから人口も減る一方だし、衰退を辿るだけの国だろう。」


怒りが湧いた。でもどこか心の隅で、少しだけ「まあそうだよな」と思ってしまっている自分がいた。そして何も言い返せなかった。なんだこのもやもやは。でも答えが出ない。釈然としない気持ちを抱え日々を送った。

「マレーシアに行こう」

次の休暇に15年ぶりにクアラルンプール郊外にある空港に降り立ち、周囲は相変わらずジャングルは残っているが所々、開発されている。タクシーに乗り、夜の暗闇のジャングルの中を進んで中心街へ向かう。郊外は薄暗さが目立つ。もうそろそろ着くかな、と思っているとタクシーが中心街につながる幹線道路に入った。


その時、衝撃的な光景が目に入った。暗闇の真ん中にとんでもない光をクアラルンプールの街が放っている。そしてツインタワーが強烈に光り輝いている。これがあのタワーも何もなかった薄暗かったクアラルンプールなのか。



何かが、自分の中で噴出した。一体、この国は誰を見てこの変化を遂げたのだ。


日本ではないのか。日本を追ったマレーシアに育ち、この変化を僕は日本人として目にした。

日本は終わっていない。この国は誇りある国として戦える。


そう、思った。溢れ出たものは使命や誇りや感謝が混ざったようなものだった。自分が何者かを明確に意識した瞬間だった。


就職活動、第一志望企業を辞退。

留学から帰国後の就職活動はエネルギーに携わりたいと思ったところから始まった。マレーシアがエネルギー資源開発により劇的な成長をしたことを調べていた僕は、こんな劇的な変化を日本企業として世界に生みだしたいと思っていた。そんな時にとある日系企業に出会った。エネルギープラントを世界中に作り出す企業。その会社の説明会に行ったときに、壁一面に一枚の写真が映し出され、


「私たちがしたいことは、これです」と見せられた。

そこには夜の砂漠の真ん中に神々しく光る石油プラントが写っていた。国の命運を握る石油施策の最前線のプラントを数年かけて建て、完成して迎える最初の夜にライトアップした時の写真。「バンッ」とライトのスイッチを入れて光るその光景を見て、社員は必ず涙を流すということだった。


その輝くプラントは、あの暗闇の中に浮かび上がるクアラルンプールの光景と重なった。僕は衝動に駆られた。最前線に真っ先に飛んでいき、衣食住を現地数千人の仲間とともにし、プラントを世界中に作り出す。そしてその国の劇的な成長の、文字通り源泉を作り出す。これほど素敵なことがあるだろうか。たぶん想像を絶する大変さだろうがワクワクして仕方がなかった。


フランスに留学していたことや機械工学科出身だったこと、そして今の石油プラント市場の動向からアルジェリアに行ってプラントを建てたい、と選考の時は言っていた。


そんな中、事件は起こった。2013年の冬。OB訪問を終えた僕は携帯電話でニュースをみると、その企業のアルジェリアのプラントがテロリストに襲撃されて、社員が数多く殺された。そう書いてあった。


自分の先輩になって一緒にあの場所で働くのだ。そう思って名前を知っていた人たちが殺された。


死が身近にあることを知った。


自分の心にシャッターが下りた。直視することをたぶん無意識にやめた。それまで100人を超える社員訪問をし、考えて考えてたどり着いた今いるこの場が揺らぐのを恐れたのだと思う。事件の起きた5日後に実家の母から電話があった。


「あんた、どうするの?第一志望って言ってなかったっけ?」


やめておけ、と言わないのか。絶対そう言うと思った。ただ次に飛んできた言葉に僕は何も言えなかった。


「例え今後40年間無事故で事件もなかったとしても、私たち家族はその40年間心配をし続ける。」


母はいきなり電話で自分の気持ちを伝えることは早計だと思ったらしい。自分のできることをまずはしよう、と5日間情報収集を自らの手で行った。それでもやはり伝えずにはいられない、と電話をしてきたのだった。


いったい自分は何を大切にして働くのか。

いったい何のために働くのか。


この問いを自らに投げた時に高校生の時の自分の誓いに突き当たった。その時に就職活動をしていて初めて自分の本当に大切にしたいことに気付いた。


何よりも家族が大切なのである、と。

それは今いる家族、これからできる家族、どちらも。


働くことで自分の家族を幸せにできないとすれば、そこに意味はあるのだろうか。


世界中を飛び回って日本の誇りを各地に刻むプラントエンジニアへの憧れと、自らの人生をかけて大切にしたいものの狭間で、僕は葛藤した。答えは決まっている。でも嫌だ。諦めたくない。でも大切にしたいものは決まっている。


僕は第一志望のこの企業を辞退した。


お世話になった社員や人事の方に向けて号泣しながら辞退することを伝える手紙を書いた。すごくお世話になっていた、僕がこの人みたいになりたい!と思う社員の方からメールが来た。

「私も子供を持つ身なので君の判断は残念ながら理解できます。ただ、就職は一回だけとは限りません。今回は違う道に進まれるとの事ですが、社会人となり、また興味を持った時には連絡を下さい。」


絶対にこの人に胸を張って報告できる決断をしよう。それが今できる一番の恩返しだと思った。


内定と母への主張

辞退の後数週間は何も手につかなかったが、その後再開し、

4月上旬、僕は今働いている会社の内定をもらった。それは学生が行くような定食屋で人事からいきなりのタイミングでの内定通知だった。でも、それは紛れもなく本気のオファーだということは感じた。でもどうしてもあと一社だけ受けたい会社があった。僕はちゃんとやりきらないと後悔します、と人事に伝えると「よし、受け切ってこい!」と送り出された。


その日の夜に内定が出たことを実家に電話をした。すると母親が

「そっちの残っている会社のほうがいいんじゃないの」と初めて選択に関して意見を言った。


少し動揺した。しかしその直後に僕が抱いた気持ちが後から考えてみれば真実だったのだと思う。ものすごく腹が立った。なぜ、ここまでベストを尽くしてきたことを知っているにも関わらずそのようなことを言うのか。なぜ自分のことを信じてくれないのか。正直、一般的に親と言う立場だったらそっちにしろ、と言いたくなる会社だということは理解できた。でもそれは自分のことを本当に見ていない。そう感じた。3時間くらい駅の改札で電話越しに全身全霊をかけて伝えた。「自分のことを信じてくれ」と。

今までのすべての準備は大切な人にちゃんとこう言えるようにするためにあったのだ、と思った。


意志決定

それから残った一社の選考を受け続け、3回目の面接を受け終わって自分が取りたい選択肢を確信した。結果を待たずに辞退しようと思った。そして内定通知後待ってもらっていた人事に電話で

「明日行きます」と用件も言わずに切った。家に帰り手紙を書いた。渾身の思いを込めて母に向けての手紙を書いた。


自らの抱く使命感を素直に持つことができ、成長感を自分で作り出せるこの会社でなら、毎日自分はこれ以上なく幸せに働ける。鈴木家の誇りを持って働きます。見ていてください。


そう手紙の最後に書き、速達をポストに投函しようと思った時に手が止まった。


自分が最も強い意志を込めるメッセージは実家の母に対してである。でもその最も強い思いをもう一人伝えたい人がいるとすれば僕の自宅近くの定食屋まで追いかけてきて、会社としての意志を伝えてくれたあの人事だと思った。手紙をもう一度取り出してコピーを取った。そして改めて投函した。


その翌日。会社のビルの前まで来た。その時に社名のロゴが刻まれた看板が目に入った。その瞬間にあと一つだけやることがあることに気付いた。前日に選考を受けて結果待ちの会社に辞退の電話をすることだ。渾身の気持ちを伝える時に結果待ちの選考が残っているのでは伝わり方が違うかもしれない。全部を伝えきり、電話を切った。とても、清々しく心の底から力が湧いてくるような気持ちだった。やることをすべてやり、ビルの門をくぐった。


「えっと...今日はどうした?」

「僕は今日こういうつもりで来ています。」

コピーしてきた手紙を人事に渡した。しばらくの沈黙。


その人事が顔を上げた。


「よく頑張った」


心なしか、声が震えていた。そこで初めてお互いに渾身の握手をした。僕は震えながら、無言で力の限り握った。

後日談と今の仕事

手紙に対しては何の反応も実家からはなかった。ただ、僕が親戚に結果を伝えるとそれをみんな先回りして母が報告をしていた。それが母なりの祝福なのだと思った。プラントエンジニアリングの企業の方々からも祝福の連絡が届いた。


そしてご縁あって今、僕は人事という仕事をしています。


本当に納得した決断をどうやったら人はできるのか。ここに向き合い切りたい。それは一人一人の幸せと、その人たちが作り出す日本や世の中の幸せに繋がっているに違いない。


そう思っています。まだまだ駆け出しですが、それだけは少なくとも自分の中にある真実の情熱として燃やし続けられるものです。


長い文章お読みいただきありがとうございました。




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