アトピーから自分らしさと生き方を教り、アトピーセラピストへ生まれ変わる物語

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『アトピーから自分らしさと生き方を教り、アトピーセラピストへ生まれ変わる物語』



『アトピーと仲良くする生き方』

「atopiness」は「atopy」と「happiness」を合わせた造語。


ここに、アトピーと共に生きてきた足跡があります。


「自分の姿が悲しかった・・・」


「かゆくて眠れなかった・・・」


「そんな毎日が苦しかった・・・」


「先の見えないこの体質が、すごくつらかった・・・」


そんな終わりがないような 永い永い繰り返し。

落ちるところまで落ちて、絶望を味わいました。


そこに降り注いだ たった一言が、


僕の世界を変えてみせた。



「アトピーは才能・ギフトだよ」



この言葉が、心の深い闇の奥で

ちいさな希望の灯火になって 僕を導いてくれました。



歩み出した新世界。


アトピーのセラピストへ


そんな、ありのままの「STORY」



〜 誕生からアトピー発症の19歳まで 〜


1980年2月初旬。

母の故郷、鎌倉で生まれました。

誕生までに24時間もかかる難産、

長時間の出産に体力も消耗し、

僕が生まれた時に母は出血で意識を失いました。

母は緊急で運び出され、

僕はひとり保育器の中で過ごしたそうです。


「こんなに泣く子はめずらしい」


病院内でそう言われるほどよく泣いたそうです。

母も無事安静を取り戻し、

その後はよくある家庭のように僕は温かく育てられました。

小さい頃はの写真は、海で遊んだり、

お友達と一緒にいる写真が多い普通の子でした。

もちろん、アトピーなんてまったくなく、

2歳の頃に一度肺炎で入院をしたくらいです。


小学校に入って僕の中で少し変化がありました。

それまでは女の子とお話をしたり、

一緒に遊んだりすることは普通のことだったのに、

よく女の子と仲良くしているとからかわれました。

なんとなく男の子と女の子が

「仲良くしているのはおかしいんだ」

と感じるようになって、

僕は今まで自然だと思っていたものを切り離したと思います。

とくに幼稚園から仲良しの女の子と

「大きくなったら結婚しようね」

この会話をすごくバカにされて、

しばらく嫌な日が続きました。

ちょうどその頃「人の噂も75日」

ということわざを知り耐えることで過ごした思い出です。


そんな年頃の思い出に、

学校の何かの授業で

将来の家の図を描くことがありました。

なぜか僕にはすごく楽しくて、

「天窓があって」

「螺旋階段で」

「庭はこんな感じで」

「屋根裏部屋に繋がってて」

その授業は終わっても、

家で遊んでいるときに新聞に挟まっていた

不動産のチラシを見ながらたくさん描いていました。

不動産の仕事を長く経験してきたことを思えば、

なんとなく不思議でご縁を感じます。


その後、中学校、高校と

どこにでもいるような少年時代、青春時代を生きてきました。

おとなしい性格から、

ときどきイジメられることもあってつらい時期もありました。

でも、仲の良い友達にも恵まれ、

勉強やスポーツもそれなりにやってきたし、

アルバイトで社会にも少しづつ触れる機会もできました。

恋をして、失恋もして ごく普通の学生時代を過ごしました。




〜 アトピーが現れる19歳前後 〜



高校を卒業して1年後、大学生のとき。

ある日、お腹のおへその辺りが無性に痒くなりました。

赤く腫れてだんだん痒みも強くなりました。

放っておくとジュクジュクして気持ちわるい。

なんでか分からなかったけど、

どうやらベルトのバックルに触れていると痒いことに気づきました。

そこから「金属アレルギー」だと知り、

皮膚科で薬をもらいベルトも直接肌に当たらないようにして治しました。

それが過ぎるとさらに、僕の左の二の腕に湿疹が現れます。

また皮膚科に行って塗り薬ですぐに治りましたが、

しばらくして今度は全身に現れました。

赤い湿疹が身体中に現れて、気持ちも不安定になったこともあります。

何度か通院して、飲み薬と塗り薬で一応治すことはできました。

それがアトピー体質の始まりでした。

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