幸薄い人生ですが、大人になってできた友達に救われました。その1

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 私の父親はパチンコで借金をして夜逃げしました。当時4歳の私と1歳の弟を残して…。母は借金返済するため、私達兄弟を養うために昼夜問わず働いていました。

 祖父母の家の近くにアパートを借り、そこに母と私と弟、母の彼氏も一緒に住んでいました。学校が終わると祖父母の家に行き、宿題をしてから遊びに出かけました。

 夕方になると母はきれいな服に着替え、化粧をして仕事に行きます。母を見送るのはとても寂しかったのを覚えています。

 祖父母の家で夕飯を食べた後はアパートに帰りお風呂に入ります。母の彼氏も夜は早めに寝て、0時頃仕事に出かけます。深夜は弟と二人っきり。テレビを見ても、ゲームをしても叱る人はいません。母が帰ってくるのは深夜2時~3時頃でそれまで起きていることもしばしば。どこか『母が帰って来なくなるんじゃないか』という不安がありました。母子家庭で母親が夜の店で働いていてそこで知り合った男と一緒に出かけたまま帰らず育児放棄という最悪のシナリオが頭に浮かんできて、母の帰った音を聞いてからでないと眠れないようになっていました。


 それだけ夜更かしして朝、起きれるはずがありません。しかも、母は寝ているので自分達で朝食を食べて学校に行かねばなりません。毎日毎日遅刻して学校に行くものだから先生に「社長出勤か!」と言われ、クラスの男子に「よっ!社長!」とおちょくられる始末…。アダ名は”社長”になりました。


 学校に遅刻して行くのには他にも理由があって、通学路に数々のトラップがあったのです。

溝のフタを1つ1つ踏んで歩く、道路の白線の上だけ歩く、石を蹴って溝に落ちたらダメ等の『自分ルール』があり、失敗するとセーブポイント(と勝手に設定したマンホール)から再スタートするというゲームをしながら通学していました。更に動物、植物、昆虫の観察が日課で、普通に行けば間に合う時間に家を出ても間に合わない。

 学校にいても水槽の魚やハムスターをじっと見て離れない。授業中に関係ない本を読む、授業を抜け出して花壇に植えているトマトを盗み食い等する問題児でした。授業時間にふらついているところを先生に見つかれば即連れ戻されます。でも、特別学級の先生だけは「トットちゃんみたいだね」と笑って見逃してくれ、特別学級で遊ばせてくれました。

 そんな問題児でもテストの成績だけは良くて100点連発!それが『授業中フラフラ遊んでいるヤツが100点取るなんて!』とクラスメイトの反感を買っていたようです。クラスメイトに「どうすれば100点取れるの?」と聞かれて素直に「宿題しかやってないよ」と答えていたのですが、嘘でも「必死になって勉強した」と言えば良かったと今になって思います。塾に行って勉強してても100点取れない子だっていただろうに…当時の私には分かりませんでした。

 正義感も強いタイプでいわゆる”チクリマン”。何か悪い事をしていたら見て見ぬふりができなくてすぐ告げ口をしていたのもまたクラスメイトから嫌われる一因でした。

 更に鬼ごっこの鬼になると泣きながらブチギレ、ドッジボールで当てられただけで泣き叫んで座り込む迷惑なヤツだったのもあって、まぁ、仲間はずれにされました。完全無視で誰も一緒に遊んでくれなくなりました。

 高学年になり本格的にいじめられました。学校に行くと机の上に花瓶が置かれる日が増えました。

 何が一番ツライかってとにかく物が壊れる、無くなる。でも、家は貧乏だからすぐに新しい物は買ってもらえない。教科書とノートが全部ゴミ箱に入っているのは普通。焼却炉に投げ込まれて灰まみれになった時もありました。上履きも隠されまくって、最終的に校内は裸足で過ごすようになりました。真冬でもです。暴力はバレるのであまり無かったですが、暴言はたくさん言われました。「ブス」は自覚していたのでノーダメージでしたが、「貧乏」と言われた時はさすがに自分ではどうしようもない事なので悔しくて泣きました。

 いじめられて帰ったら祖母に「やられたら倍やり返せ!」と言われました。でも、私はやり返すことができなかった。それに『いじめはいじめる側が100%悪い』というのを聞いたので、自分がいじめる側になったら悪者になってしまうと考えていました。

 いじめの事は母に言えませんでした。自分がいじめられてると知ったら相手の家に乗り込んで行ってボロクソ言いそうだったからです。母は特に気性も言葉も荒い人だったからやりかねないと思っていました。『子供同士の問題に親が出てきてどうこう言うのは違うんじゃないか』という考えも持っていました。

 

 母子家庭であるし当時は生活保護を受けていました。生活保護なので病院代は負担無しでしたが、病院へ行くタクシー代が無い。弟は体が弱く喘息持ちで度々発作を起こしては「病院に連れて行ってください」と祖父母に泣きついていました。年金生活の老夫婦にはそんな余裕は無く、自分達の病院代や生活費もやっと払っているような状態でしたから。よっぽど酷くてチアノーゼが出て死にかけぐらいになるまでは家で看病するしかありませんでした。

 高熱が続いて苦しんでる弟の横で祖母に「仏様に祈りなさい」と言われ、祈りながら心の中で『祈って病気が良くなるなら医者はいらんわ!貧乏だから病院に連れて行ってやれない!このまま弟は死ぬかも知れない!貧乏クソッタレー!』と思って泣きました。

 祈りが通じたのか翌日に熱は下がって弟は元気になりました。それから私は『医者になって病気で苦しんでいる人を助けたい』と思うようになりました。でも、調べてみると大学に行くには多くのお金がいる、貧乏では医者にはなれないと知りました。貧乏クソッタレー!!


 貧乏で特に困るのは夏。寒いのは動きまわれば平気でも暑さは我慢できない。家にはエアコンがありません。祖父母の家には1台あるものの設置されているのは祖父の部屋なので爺臭くてとてもじゃないけど長居できない。図書館かプールに行くしかありません。月曜日はどっちも閉まっているので地獄でした。水風呂に入り、アイスを食べるのでお腹が冷えて大変なことになるのが常でした。


 6年生の時に母の彼氏が脱サラして飲食店を始めました。飲食店経営のド素人が上手くいくわけなく1年で閉店。母も彼氏と別れました。後から聞いたのですが、その彼に開店資金を貸していたのに自己破産されてほとんど戻ってきていないそうです。


 中2の春だったか母が3時になっても、4時になっても帰って来なくて、『とうとう見捨てられたか…』と泣きながら眠りにつき、起きてみるとテーブルの上に弁当が置かれていました。しかし、母の姿はどこにもなく、母は弁当を置きに帰って来てその後どこかへ行ったと…。男しか考えられませんでした。読みは当たって夜の店で知り合った男の家に行ってたらしい。母の新しい彼氏は何となく嫌な感じのする人でした。

 その人は工事関係の会社の社長で羽振りがよく、「一晩飲み歩いて40万使った」等の話をしていました。バツイチで子供もいて、長男は工事の仕事を手伝っていました。貧乏だったし『社長でお金持ちの人なら安心だ』と無条件に思っていました。

 しかし、酒癖が悪く、大声で歌い出す、周りに絡む、立ち小便をする等、『いつか何かやらかす』というのは誰の目にも明らかでした。

 

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