「私の震災体験~東日本大震災、あの日僕らは東京にいた。~」
<プロローグ>
これは2011年3月11日。東日本大震災が起きた日の私の震災の体験記です。
東京にいた当時自分の体験と、記憶を忘れないために書きました。
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2011年3月11日。
あの日、私は就職活動の説明会で品川駅のコクヨホールにいた。200~300人くらいはいただろうか。
みな、内定を手に入れるためにエントリーシートを書いたり、面接をやっていた頃だった。
企業の担当者が何か説明をしている最中だったと思う。
突如、ドーンという突き上げるような振動の後、ガタガタと音を立てて会場が揺れ出した。
ホールの照明はギシギシと音を立て、女子学生は怯えている。
辺りは騒然し、とにかくかがんで身を守ることしかできない。
何が起きたのか、わからず、ただ揺れが収まるのを待つしかなかった。
しばらくして、揺れは収まった。
説明会の担当者は「落ち着いてください!しばらくこの会場で様子を見ます!」という。
学生も各々携帯などで情報をチェックするが、電話もメールもつながらない。
なんとも言えない不安感だけが、ホールに漂っていた。
しばらくして、ホールのモニターにテレビの映像が映し出される。
そこには、東北地方で大きな地震が起きたという速報が流れていた。
その時は津波の映像はまだ流れていなかったように思う。
その後、しばらくして津波の情報が流れてきた。
5m、7m、9m。各地で今まで聞いたことのない高さの津波が来る。
言葉に表せない言いようのない不安にが押し寄せる。
ただちに避難してくださいとニュースで流れていた。
それからしばらくして、東北地方を襲う大津波、各地での工場火災の映像などが次々と流れてきた。
これは大変なことになったと、そう思った。
説明会は中止となり、少しの間休憩時間が取られた。
私は冷静だった。
慌てても仕方がないと思い、近くのコンビニにおにぎりや、飲み物などを買いに行き、待っていました。
幸運なことに、その企業は電車が動かないこと、適当な避難場所もないことなどを考慮して、すぐ近くにある本社ビルに希望者を避難させてくれました。
私は、同じ日に別の説明会に出かけていた彼女に連絡を取ったが、やはり連絡がつかず、その企業の指示に従うことにしました。
避難先の本社ビルは立派なビルだった。
学生を避難させるには十分すぎるほどの設備と広さ、そして何より企業の配慮が嬉しかった。
説明会でグループワークなどをしていたため、近くの学生とは顔見知りになり、孤立することもなかった。
ビルに移動してからも、テレビモニターではニュースが流れていた。
この世のものとは思えないような、津波の濁流や、工場火災の中継映像が流れていた。
津波に呑まれていく家屋や船。海沿いでは石油タンクに引火し、まさに火の海と化していた。
私は周りの学生とただ茫然とモニターを見ていることしかできなかった。
何時間か経った頃だろうか、企業の方が、非常用のカップラーメンや食糧を学生に配ってくれた。
学生が飽きないように大きなスクリーンで映画を流したり、毛布を配ったり、本当優しくしてくれた。
トイレもあったし、電源もあった。
学生は各々充電器を貸しあったりして、助け合っていた。
そんな風にして時間は過ぎて行った。
私たちは幸運だった。
こんな風にあの夜を過ごせた人は少ないだろう。
実際、電車が動かず帰宅難民になった人も多くいただろうし、自分の彼女もそうだった。20km近い道のりを世田谷通り沿いを何時間も歩いたとあとから聞きました。
私は夜もあまり眠れず、説明会で出会った学生達と朝まで話し込んでいました。
就職活動の状況や内定をいくつもらっただとかそんな話をしていたと思う。そんな話をしながら、朝まで待つことにしました。
少しの仮眠を取りながら、始発電車が動きだす5時頃になって、少しずつ学生が動きだしました。
品川駅のホームを目指して、一人、また一人とその場を離れていく。
私も、近くにいた学生数人と共に駅へと向かいました。
前の日からの混乱もあり、電車の運行は乱れていました。
すぐには電車は動かず、しばらく待つことになり、ただ時間だけが過ぎていく。
1時間か2時間位経った頃だろうか、電車が動き出し、私は家へと帰った。
家に帰ると、高いところにあった物が少し倒れているくらいでほとんど被害はありませんでした。
その後テレビでは、福島第一原発の事故や政府の対応、現地での復旧作業などがずっと報道されていました。私のパートナーの故郷、福島。大切な場所が、大変なことになっている。
その想いだけが、私の中を駆け巡りました。
震災後しばらくは、色々なミュージシャンが曲を出したり、著名人が現地入りしたりして震災をみんなで乗り越えていこうというムードがあったと思います。
絆という言葉が注目されたりして、災害やエネルギーに対する考えもさまざまな所で議論されるようになっていました。
あれから、4年7ヵ月、今の日本は震災を忘れていないだろうか。
人の記憶とは都合の良いもので、大変だったことや辛いことは段々忘れるようにできている。
忘れないようにとは思っていても、平凡な日常が続いていれば、どこか安心してしまう気がする。
僕らは忘れてはいけない。この国はどこでも大地震が起こる可能性があるのだということを。
決して他人事ではなく、今自分の住んでいる所で大地震が起きれば大きな被害が出るということを。
【paioniaというバンドについて】
3.11の後、paioniaというバンドが「東京」という曲を書きました。
このストーリーは彼らの曲に触発されて書いたものです。
福島出身の彼らが震災の後、感じたこと、僕らが考えるべきことを感じさせてくれます。
ぜひ聞いてみてください。
paionia「東京」
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2015年9月12日の午前5時49分頃、東京湾の海底70kmを震源とするM5.3の地震が発生した。
ドーンという揺れの後、家がガタガタと揺れた。
ついにきたか、と思った。
とっさに、彼女の上に覆いかぶさり私は身を守ろうとした。
だが、しばらくして揺れは収まった。
ほっとすると共に、本当に首都直下型の地震が来たらこんなもんじゃ済まないと思うとぞっとした。
近い将来、きっと大きな地震は来るのだろう。
今まで体験したことのない規模の被害が出るのは間違いない。
私たちにできることは、常日頃から災害に対する備えを行うことと、大きな被害があったあの3.11を忘れないようにすることではないだろうか。
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2017年3月10日 追記
あれから、6年。丸6年が経とうとしている。
いろんなことがありました。2012年4月から新卒でリフォーム会社で働き始めて、3年半働きました。
その後、無職になったこともありました。
それから、人生を考え直してセールスとして働きだし、
2016年12月17日に人生を変えると決断しました。
自分の人生に責任を持って、生きていく。
自分自身の力で生きていく。そのことを決め、日々チャレンジしています。
私は3月19日に、妻と結婚式を挙げます。
丸7年付き合った彼女との入籍、挙式・披露宴を挙げることを決めたこと。
全ては選択と決断だと思っています。
3.11 これからも忘れられない日になると思います。
人の命は、いつ終わるか本当にわからない。
明日、生きている保証なんてどこにもない。
自分の人生を生きているのか。
そのことを常に問い続けながら生きていこうとおもいます。
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