友人が死んで15年後に初めて墓参りをした話

前話: 大学時代の親友の話を最後まで聞いてやれなくて後悔している話

3連休の最終日、しとしと雨が降る中、15年前にイエメンで亡くなった大学時代の友人の墓参に出かけた。15年ぶりの彼の北関東の故郷は、葬式の日と同じく曇り空で底冷えがした。

前回訪れたのは葬式の時だったので、実は彼の墓参りは初めてだ。彼の家のお墓は自宅のすぐ裏手にあると聞いていたので、15年前の記憶を頼りに彼の自宅を探し当て、実家の裏手の道に車を止めた。

地元の神社の脇の土地には数基の墓が並んでいた。おそらくこの集落の墓地なのだろう。予想していた通り、彼と同じ苗字の墓がいくつか並んでいる。田舎の集落とはだいたいそんなものだ。

墓に刻まれている戒名から彼の家の墓を探し出そうと試みた。彼の家の墓は簡単に見つかった。なぜかというと、この地方ではお墓の脇に「墓碑」と刻まれた石板を建てる習慣があるようで、そこには戒名、氏名、享年が刻まれていたからだ。

彼の名から漢字1字を取った戒名の下に彼の名、さらにその下に平成12年3月27日、27才と刻まれていた。あれから15年。本当に彼は死んだのだろうかと、ぼんやり思い続けていたが、そんなすっとぼけた僕の妄想に関係なく、彼はやっぱり15年前に「きっちり」亡くなっていた。

その墓碑を見て、しばらく動けなくなった。

それには彼の祖父母らしき人の名、そして、ちょうど2行分の空間を空けて彼の名。瞬時にこの空間が何を意味するかを理解し、立ち尽くした。

その2行の空間には彼の父母の戒名が入るのだろう。本来なら長男であった彼が看取り、刻むべきであった両親の戒名はそこにはない。ただのっぺりとした黒御影石の2行分の空間からは、ご両親の腸が捩れるような「逆縁」の無念さがだらだらと滲み出ていた。

きっとご両親は健在なのだろう。

墓地から見える彼の実家の屋根をぼんやりと眺めていたら、彼の両親を尋ねる気力がみるみる消え失せていった。勝手な思い込みだが、この2行分の空間から滲み、流れ出しているご両親の無念を僕は到底受け入れきれない。思いがけず訪問した息子の友人が過去の傷のかさぶたを引きはがすことによって、今はもう年老いたご両親が再び「血まみれになる」ことを恐れた。

もともとご家族に顔を合わせることにはどうも気後れして、彼の実家には何も伝えずに来たのだが、もしばったりと出会えば話くらいはしていこうと思っていた。しかし、やっぱり何も伝えることなく、しとしとと冷たい雨が降る中、彼の墓をあとにすることにした。

どうしても、40歳になる前に墓参を果たしたいと思い、今日、それを遂げた。受動的にこれで一区切りつくだろうかと自分のことながら他人事のように期待していた。これからその「効果」が少しづつ現れてくるのだろうか。次回、来ることがあったら、その時は何とかご両親にもあいさつできたら良いと思う。

少なくとも、今回は彼のご両親と彼の思い出話にふけるなんてことは到底できる心持ちではなく、この2行分の空間に完全にノックアウトされた。

自分でも辟易するくらい、どうにもだらしのない僕の姿を、彼はクサバのカゲからどのように眺めていたのだろうか?

著者のMatsui Takahiroさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。