第百二十一章 鉛筆は書くために生まれた

第百二十一章

「鉛筆は書くために生まれた」

  みなさんは、

「自分は何のために生きているのだろう?」

 と考えたことがありませんか?私は高校生の頃、いや、もっと前から疑問に思っていた。それで、嫌々やっていた受験勉強から開放されて大学生になった頃から周囲を見渡してみた。

 何か生き甲斐になるものはないか考えてみた。もちろん、最初は学問にあこがれた。大学生だからね。「教育学部」だったから、教育学や心理学を極めたら何か大切なものが見つかるかもしれないと期待した。

 しかし、そこで出会った教授たちは尊敬できなかった。「心理学」は科学ではなかった。

 その頃、ブルース・リーの「燃えよ!ドラゴン」を見て感動した。武道の達人は何かを悟っているのかと期待して少林寺拳法部に入部した。二段をとり卒業後も練習を続けた。

 確かに、暴力的な威嚇に動じなくなったかもしれない。健康になった。闘争心や気力も充実したかもしれない。しかし、悟りとはほど遠い。

 勉強のかたわら多くの歴史小説を夢中になって読み続けた。歴史上の人物は、人生の明確な目標を持っているように感じられた。とにかく、何かを追求している人ばかりだった。

 それで、とりあえず「英語」を身につけることを追求してみた。アメリカに渡り、英語検定1級、通訳ガイドの国家試験に合格して感じた。

「英語は話せるけれど、それだけだなぁ」

 塾を経営していたので、仕事の求めもあり「数学」の勉強を始めた。「ガリレオ」の湯川先生のような、理系の思考で割り切れば人生が明解に割り切れるものかと期待した。

 それで、数学を勉強し続けて京大を7回受けた。塾生から京大医学部、阪大医学部、名大医学部の合格者がでてきた。論理的な思考が身についた。でも、それだけのことだ。

  私はクリスチャンだ。聖書をずいぶん長く読み続けている。祈りは良いと思う。ただ、聖書に現れる使徒たちと同様に悩みも失敗もたくさんする。絵に描いたような悟りには至らない。

  小さい頃は、親や大人は人生がよく分かっている人たちだと思っていた。しかし、自分が親になり子供の手本になりたいと頑張っているがバツイチになり悲しい思いをさせてしまった。

「自分は何のために生まれてきたのだろう?」

 そう考え始めて40年以上経った。

 塾生を見ていると、性急に答えを求める子が多い。こういう文章もノウハウものだと信じて読まれる人も多いだろう。そして、解答が書いてないと「駄作」だと判定する。

 しかし、そういうものだろうか。

 学者は学問で、拳法家は格闘技で、宗教家は神様に信頼をおき、教師は授業に人生をかける。しかし、誰もが迷い結論など出るわけがない。

  お金がすべてと思う人もいるだろうが、札束を積んで心底満足できるだろうか。異性がすべてと思う人もいるだろうが、セックスをしまくって嬉しいのは若い頃だけだろう。塾講師をしていて思うのだが、素行の悪い生徒を相手にしても成果があがらない。相手が喜んでくれないと、仕事は楽しくない。

  知性に欠ける人は、自分の中に投資しようとしない。

「私は、こんなにスーパーカーを持っているぞ」

 とか

「私は六本木ヒルズに住んでいるぞ」

 とか持ち物とか、住居を誇りにしているタイプの人がいる。ご存知のように、このタイプの人は失笑をかい、軽侮の的になってしまう。中身を充実させないと、人は重く見ないのだ。

  いつの時代にも

「このローレックスを見よ!」

 タイプの成金はいただろうが、生きている間も亡くなってからも誰も見向きもしないだろう。

「結局、食べて、寝て、死んでいく」

 どうも、それだけらしい。もちろん、それでさえ簡単なことではない。食べていくには、仕事で生き残らないといけないので朝から晩まで真剣に働く必要がある。これでは、空を飛ぶ鳥たちと基本的に同じなのだが、それでいいのかもしれない。

  私は最近そう思うようになってきた。だから、どの文章にも解答をつけないようにしている。

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