【第2回】 中学でいじめ、自殺、同姓からの告白、家庭崩壊、母のうつ病。その後、親族全員からの反対を押し切って大学進学した男子学生の話

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<第1回目からの続き>


中学時代、全くイケてないと思い込んでいた僕は

(イケてなかったのかもしれないけど、何故か中学時代はそれなりにモテた)

高校は楽しく過ごしたいと意気込み、精神的な高校デビューをした。

クラスのトップランナー(クラスで目立っているグループ)に属していた。

それなりに仲は良かったんだけど、ある日不良24人くらいに囲まれる事件が起こる。



その事件の時に、ふっと中学時代の嫌な思い出が蘇った。

中学時代の僕は、登校するたびに、不良に1日中追い掛け回されていた。いじめられていた。


ある日には、小学校時代の親友に運動場の白線の上に理由なく転げ倒され、僕の学ランは真っ白になった。(ヤンキーになったら思い出さえも消えるのか?)

ある日には、休憩時間にはTくんにビニル紐で首を絞められた。体が浮き上がり、爪先立ちになるくらいの力だった。

あの時14歳だった。「人生で一番辛いのは今だ。今を乗り越えれば、何かあるかもしれない」 

と心に誓ったはずだったのに、「今」ヤンキー24人くらいに囲まれてる。もっと辛い事が起きた。 


公園でヤンキー24人に囲まれながら、自分の人生を振り返っていた。

そもそも「自分は不幸な運命なのかもしれない」と思った。


僕が小6の時に、姉は不登校になった。 

それ以来、姉は引きこもりがちになり、夜な夜な出かけるようになる。 

パソコン画面に話しかけたり、自傷行為をするようになった。 


深夜に警察官と帰ってくるという事が幾度と会った。 

母が注意をすると、母を蹴り倒したり、家の窓ガラスを割ったり、 

都合が悪くなるとベランダから何かを叫んだりする。


僕には忘れられない夜がある。


ある夜、母がチラシの裏に「悪魔。」「帰ってくるな。」「消えろ。」「お前のせいだ」などと書いた紙を 

玄関や姉の部屋に貼りまくった。

「姉がこれを見ると傷つくなあ」と思って、僕はそれを黙って剥がした。 

このころの僕の生活する家庭は狂気に溢れていた。 


そういう事が起きてからというもの、両親の仲はいっそう悪くなった。 

姉がヒステリーを起こすと、母親は父親に「すぐ帰ってきて」と電話をするようになり 

父親は仕事があるので帰れない。帰ってくると「なぜ帰ってこないのか」という理由で母とケンカする。 


そして最後の夜だった。父親が姉に手を出した。


家中に姉の悲鳴、母の仲裁する声、父親の怒鳴り声が響いていた。 

僕は耳を塞ぎ、目を閉じた。こんなのは僕の家庭じゃない。 

幸せなんて感じられなかった。見つかるはずもなかった。


家庭では家族が毎日のように怒鳴り、中学へ行けば不良に恫喝される。 

居場所がなかった。 

大音量で音楽を聞きながらパソコンをする癖はその頃についたんだと思う。


そして中学3年の時、姉はネットゲームで知り合った男性と結婚し 

その後にすぐ両親は離婚した。 

ベッキー的な理由が原因だった。


父を信じていた母は、だんだんと体調を崩しがちになり、 

心療内科で鬱病だと診断された。 


僕と母しか家にはいなかった。母を支えるのは僕しかいなかった。 

母は18時間くらいベッドで横になってすごすようになった。

そんな状態でもお弁当を作ってくれて、(くそまずかったけど) 

洗濯や買い物にも言ってくれた母には今も感謝している。


ある日、夜の12時に寝室に行くと、薬の空き瓶が転がっていた。 

母親の顔色がおかしかった。 

起こすと呂律もおかしく、ヘベレケだったので、風呂場に連れていって吐かせた。 

1度目の、自殺を図った。


母は和歌山の親戚の若い女の子によく電話をしていた。同じ鬱病だそうだ。 

ある日、彼女は自殺した。睡眠薬を大量服薬したらしい。


それ以来、鬱病は遺伝だから、私もいつか自殺する。 

母は毎朝のように僕に言うようになった。


その時は知らなかったのだけど、僕の母の母も自殺していた。 

母はずっと寝ている状態になった。朝から夜まで、ずっと寝ている。


ある夜(そしてまたある夜)、パソコンで遊んでいると、包丁を取り出す音(カチャっていうやつ)がした。 

何か作っているのかなと振り返ると、母が包丁に向き合っていた。


文春の記者も驚くくらいの速さだった。「なにしてんだよ!!!」と叫んだ。 

それと同時に、母が倒れこんだ。「自分で刺した。刺さった。」と思った。 



ささっていなかった。母は泣き崩れ、僕に何度も何度も謝った。 

「別にいいよ。大丈夫でよかった」と言っているのに、繰り返し謝った。

抱きしめてといわれたので、(え、いやだなあ)と思いつつ、力強く母をハグした。 

この時が人生で一番怖かったし、悲しかったと思う。(悲しみは後からだけど)



その事件の後、母は元気になった。が、異様な元気さだった。 

躁うつ病のSOの状態だった。これはひどい、と思った。

インド雑貨にはまり、オデコにインドのアレをつけて出歩いていた。 

家に遊びに来た高校の友達にも、「ハロー」と声をかけたりする。



ついにはパートで貯めていた100万円を使って、お店を開くと言い出した。 

「100万円じゃ無理だよ。考えろよ」という説得にも聴かないので、 

俺に迷惑を絶対にかけるなという制限つきで、岡君の家の近くに店を出した。 

1ヶ月で廃業した。



理由は簡単で、100円均一で仕入れた商品を300円で売り、 

アポロビルのアジア雑貨の店で買った商品を1万円くらいで転売してたからだ。 

考えが浅すぎた。



話を突然戻すんだけど、ヤンキー24人に囲まれた後、


僕は一人のイケメンにボコボコにされた。 

和解交渉をしかけようと、話しかけたとたんにパンチが飛んできた。

そして顔中が血だらけになり、みっともないと分かりつつも ヤンキー集団の中央に僕は舞い戻った。

(こ、これ以上攻撃されたくないから痛そうな顔のままいよう!) 

と超合理的な判断を瞬時にしていた。 

平気な顔をして(顔は血だらけ)「ほんま、すんませんでした。へへ」と言い続けていた。


そしたら意図がバレたのか、「気持ち悪いから、顔洗ってコイヤ!!!」と切れられる始末。 

トイレで血だらけの顔を自分撮りをした。初めての自分撮りだったから少し緊張した。 

相当盛れた。#写真欲しい方いたら上げます


その後、喉が渇いたと言うと、全員分買ってこいとか言われて全員分買わされた。 

母親がインド雑貨屋を失敗して、100万円を失った直後だったから、凄く辛かった。 

俺んちは金が無いのに、この子達になんで俺は奢っているんだと心が痛む。


ヤンキーに囲まれ「お前なに考えてんの?」と説教される。 

さっきまで書いていたことや、100万円を失ったという事実でを話しているうちに、

頭の中がいっぱいになって涙が出た。僕は全てをヤンキーに打ち明けた。


あるヤンキーは、携帯をいじり、あるヤンキーは僕の話に耳を傾けた。 

号泣しながら話していると、「こいつも苦労してるねんな」と同情の声が聞こえた。

「ええから、泣くんやめてタバコすえや」と言われてタバコを吸った。

初めてのタバコだった。体に悪いから肺に入れなかった。



次の日、ヤンキー基金は設立された。 

お前のために全員から200円集める。~に渡しとくから

というメールが送られてきたのだった。

結局僕が取りに行かなかったので、ヤンキー基金の恩恵を受けることはなかった。 

(1000円くらい集まっていたらしい)



そしてある日、家にパキスタン人が住むようになった。名前はハーンさんという。 

出会いは焼肉屋だった。イスラム教は豚肉を食わない。 

牛肉も清めてないと食わないらしい。彼はエビしか食わなかった。 

紹介の場に、西田辺の牛角をチョイスした母を恨んだ。


「色んなクニに連れて行ってアゲル!僕はお金持チダカラ!」 


ほんとかよこいつ。と思ったのが第一印象だったけど、害はないと思って再婚を容認した。



家の表札は「ハーン阿部」という間違った表記になったものの、 

母とハーンはニートだったので、ずっと貧乏なままだった。 お金持ちじゃないじゃん。



高3になった。進路を選択しなければいけない。 

父親も母親も「手に職をつけろ」といつもの様に言っていた。 

大学に行くなら専門にいけと2人とも言っていた。 


小学校の時にゲームプログラマーになりたいと思ったことがある。 

中3の時も、高校に行かずにゲームの専門学校に行きたいなあと思っていた。 

ぼやーっとそれを思い出し、ゲーム関連の専門学校のHPを読んでみた。

本当になれるのかと不安になったのと、進路実績が知らない会社だらけだったので高卒で働く事に決めた。 


僕の高校からはヤマダ電機とか、トヨタの下請けとかに行っている人がいるみたいだった。 

後はよく知らない名前の企業だった。「Y電機ならいいなあ、皆も知ってるし」と 

漠然とY電機の内々定をもらいにいった。家電も嫌いではない。


家に帰って給料を調べてみた。低い。


家計が苦しくて両親が喧嘩をしていたのをよく見ていたので、 

ある程度の年収、そうだなあ500万くらいあれば幸せになれるかなあと昔計算したことがあった。 

Y電機では、年収500万なんて到底無理そうだった。 


その時にネットで高卒と大卒の比較記事を発見することになる。 (Allabout)


4000万以上も・・違う・・だと?



この発見が僕の人生を変えた。


僕の人生はエスカレーターだという思い込みを打ち破ることになる。 

「自分の人生は自分の手で切り開くもの」と感じたのは初めてだった。 


 両親の今までの手に職をつけろという教えが、必ずしも経済的な豊かさには繋がらないということ。

日本では大卒という学歴がないと、可能性を打ち消される結果になりやすいこと、 

そして何より、何で今まで自分で気づかなかったんだという事に怒りを覚えた。


坂部先生から「お金がなくても、奨学金で自己負担で大学にいける」ということを聴くまで 

経済的な余裕がないといけないものだと思っていた。勝手に思い込み、可能性を殺していた。


自分で調べもせずに、親の「お金がないやつは大学にいけない」ということを鵜呑みにしていた自分はなんて愚かだったんだ。

親とはいえ、人に人生をゆだねていた自分をぶちたくなった。



その日から、大学進学を懇願するようになる。

高校でも勉強に手を抜いていた僕の成績は非常に悪かった。 

親から反対されていたので、浪人している余裕なんてなかったし、予備校の金を工面できわけがなかった。 


だから指定校推薦で一発で行こうと決断した。1学期に圧倒的に評定平均を伸ばさなければ指定校は貰えないという。

いっきにあげた。全て85-100の水準で点数を取ったら、いっきに評定平均があがった。

指定校をもらえる水準になった。


先生から「おめでとう」と言われ、可能性は近づいた。 

「自分の人生は自分の手で切り開くもの」初めて自分で大学に行きたいと感じた。 

もしかすると人生で初めて自分の心の奥底からしてみたいと感じた瞬間だったかもしれない。 


それを母親に伝えた。駄目だと一蹴されることになる。ハーンさんからも一蹴された。

この二人に言ってもダメならほかの親族にもいってみよう


「大学に行けば可能性が広がる。」 

「やりたい事ではない仕事をしてお金を稼ぐ人生よりも、 

大学でやりたい事を見つけて就職したほうが幸せな人生を歩める。」 

「高卒よりも専門卒よりも、大卒の方が給料が良い」 


どんな言葉も、どんな理由も、誰の耳にも届かなかった。 

親族全員が反対した。父親も、姉の夫も、姉も。 ハーンも、母も。


「高卒でも俺みたいに出世している人もいる。仕事のでき次第だ」 


父も姉の夫も、高卒である程度出世していた。 

家族で入学金を貸してくれる人がいなかった。悔しかった。

姉の夫に「お前は家の状況を分かってて、そんなこと言ってるんか?」と頭を小突かれ、トイレジャックして悔しくて無言で泣いた。(トイレの前には便秘中の母が、あふれんばかりの便をこらえつつノックしていた。)


ヤフー知恵袋も、「大学進学」それが正しいと言っていたのに。。

親や身内の回答が正ではないと知ってから、ヤフー知恵袋にはまっていた。


ある日、ハーンさんに「リュークは夢はあるの?」と聴かれた。 

僕はまだ無かったので、「まだない」と言うと、「ソンナンジャ、大学イクイミないね!」と 

むかつくので「ハーンさんは夢はあるの?」と聞き返すと、 

「オレハ、オカネモチになりたい!」という名回答を答えた。 


ハーンさんは頼れない。入学金を貸してくれそうなところをネットで調べた。 わからなかった。 

ヤフー知恵袋で高校の進路課に相談しろ、区役所から金を借りるとかがある市町村があるとコメントをもらったので、次の日に相談した。 


区役所が貸してくれるかもしれない。

既に支払い期日を2度も延ばしてもらっていた。

リミットは4日後に迫っていた。4日後に振込がなければ、僕は大学にいけない。 


母は僕名義で金を借りるということであれば協力するという事だった。

区役所はお金を貸してくれた。40万円も。ハーンさんも10万円貸してくれた 

間に合った。全てうまく行った。 


さぁ、大学だ!大学へいって、自分の道を切り開くんだ!


小6からその時まで一切読書をしていなかった僕が 、

大学に向けて読書をするようになる。一冊の本が僕に真実を教える。 


『大学で何を学ぶか』 浅羽通明 

図書館で、たまたま手に取った本だった。 

この本を借りていなければ、僕は4年間をぼーっと過ごしていた。 


本当は違う人の「大学で何を学ぶか」という本を借りる予定だった。

あの時、間違ってあのコーナーに行っていなければ。 

あの時、検索にかけた本のタイトルを瞬時に見つけていたら。 

あの時、あのページを開いていなければ。 

人生は時の積み重ねで、いつ方向転換する機会に恵まれるか分からない。 


その本を読んでからというもの、両親の教育方針に腹が立つようになった。 

社会の仕組みを教えていない。世間の条理を教えていない。 

あの頃はずっと母親に文句を言っていた。 


学歴という世間を手に入れるために、面白い友人を作るために。

編入を志すようになった。 ネット上にはFランには価値なしと書かれている。

大学1年生のとき、ためしに登録したリクナビで確かに席の予約が出来ない。

なんなんだこれは?本気で編入を志した。


■『ある程度の挫折』 

ニュースはリーマンショックだとか、100年に一度の大不況だとかで騒いでいた。 

関係ないと思っていたが、ハーンさんが茨木の天ぷら工場をリストラされた。 


リーマン不況が原因らしい。家計の収入が途絶えた。家賃の支払が出来なくなった。 


一方、僕は編入予備校のために貯めていた貯蓄が100万を超えようとしていた。

高3の3月から働き始めたコールセンターの収入が20万超えたりしていたのだ。 

母とハーンさんが僕の口座を頼るようになった。 


金を貸してくれと。最初は10万円だった。それは家賃の支払いですぐに無くなった。

家賃と生活費を僕の貯金から出す事になった。 

僕は母とハーンさんに総額70万くらい貸すことになった。 


編入予備校にはいけない。金がないからいけない。

2度も3度も説明会にいっていた。講師の人と「同志社・神大、目指しちゃおう!」と合意していた。

自分の人生を切り開こうとするといつも家族に阻害される。 

この時は本当に嫌になった。ストレスで口内炎がいっぱい出来た。 


自分は他にどうするべきか。1ヶ月くらい考えた結果、 

自分が変われないなら、大学を変えるしかないという大胆な結論になった。 


このまま独学で勉強しても、勉強の仕方が分からない自分では編入は難しい。

ならこの大学をもっとより良くしよう。 

商大生は自分の大学に誇りを持てていない人や成功体験のない人が多い。 

ゼミの自己紹介でも自身の人生の失敗談を話す人が9割くらいいた。


また、僕の大学にも地頭はよさそうだけど、何故かうちにきてしまって編入を目指してる友達が何人もいる。 

そういう学生が学内で頑張れるようなサークルをつくろう。 


そして、大商大が世間から評価される大学にしよう。 

そうすることで、学歴なんてものはいくらでも変えられる。


大胆だった。学長の意思や、教員の意思は完全無視だった。

自分の中で妄想が広がった。その頃ちょうど株を始めていた。 

株をやり始めてから、色んな業界や企業を知るようになっていた。 


やりたい事が見つからないのは、やりたい仕事を知らないから。 

なら一年生の時から株式投資を学び、色々な企業や業界を知ってもらう。 

そして自分のやりたい仕事というのを見つけてもらおう! 


これがきっかけで投資サークルOSICという団体を立ち上げることになった。 

放課後の3時間で銘柄分析し、プレゼン資料を作るという異質なワークを毎週繰り返していた。

そしてOSICは大学で18年ぶりのスピードでサークルを経て同好会を経て、 

研究会に昇格し、2年の間に学内外で13つもの賞をとることになる。 


母親とハーンさんはというと、ハーンがフィリピン人と浮気していたことがばれ、離婚した。その後、大学生の僕を養うために母親は美容院に勤めた。月2日程度の休みで朝8時から夜10時まで働いていた。手取りは22万だった。出社時に辛いと泣き、ぎっくり腰でも出社し、レジ金の帳尻を自分で補填している(これも僕の金から捻出)母を見て、美容業界はなんだか本気で大変そうだ、、と感じた。

当時読んでいた怪しい本のセリフを繰り返し母親に伝え、出勤してもらっていた。


その後の僕はというと、投資サークルやビジコンで知り合ったきっかけから、育児休暇で話題の宮崎謙介さんが代表を務めていたネオトラディション運営のグリー主催ビジコンに参加することになる。それがきっかけでグリー社に入社にいたる。”インターネットを通じて世界を変える”というグリーのビジョンを本気で信じて。

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以上、高校3年生の時に、ネットのおかげで人生がエスカレーターではないという事に気づき、

自分の手で人生を切り開いていくという感覚を得るようになった過程でした。


高3の時の決断のおかげで、今、自分のやりたい仕事、変えたい未来を見つける事が出来ました。


あの日、インターネットで比較記事を読んでいなかったら。

あの日、ヤフー知恵袋で質問していなかったら、回答者がいなかったら、

あの日、浅羽通明の本を手に取っていなかったら、

僕の人生はまた違うものになっていたと思います。


そして、また新しい一歩を踏み出しました。

幸せな家庭を作るための最低水準の目標としていた年収500万円もすっかり超えてしまったのですが、自分にしか出来ないことをやっていくべきだと思い、年収を捨て、いま半分以下の年収で働いてます。

インターネットのおかげで、僕の人生は変わった。なら、年収や現状に甘んじず、僕自身もインターネットを通じてこの世の中を変えていくべきではという結論にいたりました。

 

僕が大学時代に、母親が泣いた美容院業界。なんなんだこの業界は?と思った疑問に解を出し、美容業界を変えていくために2016年、会社を立ち上げました。

 

また1年後、また別のストーリーで出会えることを楽しみにしています。

読んでよかった
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そのゲイって俺じゃないよな・・

小太りでメガネかけてたから違うと思う!

おぉう、おれの体型はスマートだからおれじゃないな、安心。またご飯誘っていい?

いいよ~またサウナいこ~

サウナいいっすね
フィンランドのサウナにいってみたい

ここほんとすき

ヤンキー基金とハーンさんの境目

若い頃に気づいてよかったね。環境で人は育つからね。
その環境や居場所は自分で作るものだと思います。

阿部 竜作

大阪西成生まれの26歳です。 2012年 グリー株式会社入社、歴史の闇に葬られた美容関連サービスの事業責任者を経て2014年10月に株式会社ミクシィに入社。美容アプリ「minimo」のプロモーション全般を担当。 2016年1月 株式会社Airsalon設立。 現在は、ほんのりミクシィ様でお仕事いた

阿部 竜作さんが次に書こうと思っていること

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阿部 竜作

大阪西成生まれの26歳です。 2012年 グリー株式会社入社、歴史の闇に葬られた美容関連サービスの事業責任者を経て2014年10月に株式会社ミクシィに入社。美容アプリ「minimo」のプロモーション全般を担当。 2016年1月 株式会社Airsalon設立。 現在は、ほんのりミクシィ様でお仕事いた

阿部 竜作

大阪西成生まれの26歳です。 2012年 グリー株式会社入社、歴史の闇に葬られた美容関連サービスの事業責任者を経て2014年10月に株式会社ミクシィに入社。美容アプリ「minimo」のプロモーション全般を担当。 2016年1月 株式会社Airsalon設立。 現在は、ほんのりミクシィ様でお仕事いた

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