生きづらさを感じて苦しんでいる人に伝えたい、「僕」の話①

次話: 生きづらさを感じて苦しんでいる人に伝えたい、「僕」の話②

<導入>


 僕は21歳ながら、多くの不幸を経験して生きてきた。あまりにも壮絶で不幸な人生を送ってきましたが、それでもくじけず生きている。こんな僕に辛い経験をしてきた僕でも前向きに生きているんだということを知ってもらい、生きづらさを抱えて苦しんでいる人の励みにでもなればいいと心から思っています。そして、生きづらさを抱えて苦しんでいる人のロールモデルになれればと思います。このstoryで伝えたいのは、”どんなに今が辛くてもその辛い経験はいつかあなたの強みになる。弱い人の気持ちが分かる強い人になろう”ということです。1人でも多くの人がそう思えるよになってくれればと思います。


 では、時系列で僕がどんな人生を送ってきたか、そしていまどういう状況なのか、これから何を目指していくのかを述べさせていただきます


■家庭環境

 僕が生まれる前、僕の父親は母親に非常に過激なDVをしていた。その結果、両親は離婚することになったのだが、なんと僕が生まれてすぐに、僕の父親は僕を誘拐してしまったのだ。母は警察や弁護士に助けを求め、なんとか僕を父親から取り返した。そしてその後、父親は僕に会えないという条件、養育費を月2万円支払うという条件が課せられることになったが、一度も払われることはなかった。この話からわかるだろうが、僕は父親の顔も知らなければ、名前も何もかもを知らない。たまに父親の悪口を言っている人ですら羨ましいと思うのである。そして、母はシングルマザーとなった。しかもバツ2だ。兄がいたが父親が違う。おばあちゃんは37歳の時におじいちゃんを事故で亡くし、おじいちゃんはいなかった。そのような環境に僕は生まれ育ったのだ。


■義理の父との出会い、そして自殺

 僕が小学校4年生の時、僕の母親が末期の子宮ガンになった。

 ただでさえシングルマザーでギリギリの生計で生活してきた我が家にとって、癌の治療をすることは経済的な破綻を意味した。更に、母が入院することになり、僕の世話をしてくれるのはおばあちゃんだけになった。仕方のないことであるが、幼くしてそのような家庭の状況だったために、僕は「我慢」と「感情を表にしない」ことを覚えた。「悲しい」「寂しい」といった感情を表に出さず、わざとひょうきんに振舞ったり、無表情を意識するようになっていった。


 そして、母親がおらず僕を育てられる人はおばあちゃんだけになった。しかし、おばあちゃん1人で僕の面倒の全てを見るのは厳しいものがあった。父親はDV男だったこともあり僕の面倒を見させようということにはならなかった。そこで、母親の1人目の元夫にあたる人が僕の父親代わりとして僕の面倒をみることになった。その人をここではMとする。Mは自営業で印刷業をしており、僕の経済面、生活面の両方をサポートしてくれた。学校が休みの日は釣りに連れて行ってくれ、夕飯はほぼ毎日食事に連れて行ってくれ、毎日メールもしていた。はじめは警戒していたが、父親という存在を知らなかった僕は、徐々にMを本当の父親のように慕っていくようになっていった。普段は表に出していなかった感情もMの前では出せたし、たくさん笑った、僕のことを本当の息子のように扱ってくれ、寂しさも紛れ、毎日がとても楽しくなった。


そして、母の癌は大手術と長い闘病生活を経て、リンパ浮腫という後遺症を抱えることになったものの、容体は落ち着いて行った。


母が癌を克服してからも、父親代わりとして僕の面倒を見てくれていたM。


しかし、ある日を境にMと連絡が取れなくなった。家に行ってもいない。


電話をしても繋がらない。


メールをしても返事がない。


そしてMの家の隣の家の人に心当たりがないかを聞いた。

あの、すいません。あそこの家に住んでいたMさんって今どうなっているか知ってたりしませんか?
あの人なら夜逃げしてるみたいよ。闇金に金を借りて、返せなくなって、取り立てが来るから夜中にしか帰ってこないよ。
えっ、そうなんですね。

当時小学6年生のぼくにはよくわからなかったが、深刻な事態になっているということは理解できた。


ある日、Mからメールが来た。夜逃げをしていること、半ホームレス状態であることを伝えられた。


その後しばらくの間メールだけの日々が続き、やがてメールすらも来なくなり、ついに連絡が完全に途絶えた。


おそらく携帯も解約させられたのだろうと推測できた。


そして時は流れ中学1年生のある日に、公衆電話から連絡が来た。

もしもし
ごめんな、連絡できなくて。実は携帯も使えなくなっていて、今富士川の河口近くの河川敷に車を置いてそこの中で生活しているんだ。
うん。大丈夫なの?
大丈夫。またしばらくしたら連絡する。
わかった。待ってる。



そして僕が中学二年生になった時、自転車に謎の封筒が入っていた。


そこの封筒の中にはMの携帯が入っていた。


開いてメールボックスを見てみると「ゆきへ」と書かれたメールが保存ボックスにあった。


見てみると遺書だった。


内容は詳しくは覚えてないが、自殺をするといった内容、このことは誰にも言わないでほしいということ、そして謝罪が書いてあった。


その時、不思議と涙は出ず、ある程度こうなるであろうことは変わってはいたが、受容できず頭が真っ白になった。


そして、その日の晩、公衆電話から電話がかかってきた。

携帯見たか?
うん。
もう生きられない。ごめんな。これから自殺する。
うん。。。
携帯にも書いておいてけど、このことはお母さんには言うなよ。
うん。
じゃあ。いままでありがとう。ごめんな。

 この時、「死なないで」と言っていたらMは自殺しないで済んだのだろうか。


あの時、なぜ「死なないで」の一言も言えなかったのだろうか。


すごく後悔した。この時から、ぼくは感情を無くした。


その後、僕は「ホームレス」の問題に興味を持つようになった。そして、そのためには勉強をする必要があるということを意識するようになった。いままで勉強などしたことがなく、成績でも通知表で2を撮っていたような僕だったが、テストで9割以上の得点がキープできるようになるまでに成績が向上した。

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