素敵な、アプレンティス

「素敵な、アプレンティス」

 小さい頃に近所に流れる川を見て、何を思いましたか?

 ここは、鈴鹿山脈の麓で、近くにいなべ川が流れている。小さい頃は、魚釣りに行った。そして、川の流れを見ながら、「この水は、海に流れていって、その海のずっと向こうに青い目をした金色の髪の毛の人たちが住んでいるらしい」と、考えていた。

 若い頃の「アメリカ暮らしで箔を付ける」は、浅はかだった。そんなことでは、名古屋の大規模塾に出した履歴書はすべて返送されてきた。でも、小さい頃から夢見ていた外国での生活は新鮮で、学ぶものが多かった。

 英語ができると、英語を教える仕事をする流れになった。指導に役立つかと思い、長女と一緒に三重大でセンター試験を受けてみた。すると、入り口で警備をしている若い女性がダッシュで私に近寄ってきて「今日はセンター試験なので、関係者以外は入れません」と、息も絶え絶えに言った。受験票を見せたら、驚いて入れてくれた。でも、センター試験や京大二次試験を体験できて、学ぶことが多かった。

  A子ちゃんの入塾申込書には母親の名前が書いてあった。母子家庭だったのかもしれない。彼女は3年間で一度だけ特待生をのがしたことがあった。なぜ10年以上前のことを覚えているのかというと、その後の勉強に対する姿勢が尋常ではなかったからだ。

  今にして思えば、特待生をとれば翌月の月謝が大部分免除される。彼女は、母親に経済的な負担をかけたくなかったのだろう。何もかも捨てて勉強にかける彼女の生き方を見ていて、私は

「A子ちゃん、そんなことしていたら私のようにバツイチだよ」

 と声をかけたことがある。すると、彼女は明るく

「先生は一回結婚できたからいいですよ。私なんかを相手にしてくれる男子はいま  せん」

 と言った。彼女の言葉は、いつも私の心の奥底に食い込んだ。彼女からは、本当に多くのことを教えてもらった。感謝している。

     ある時、中学3年生のBくんとその父親がやって来て「おまえんとこの女講師に会わせろ!」と言った。「悪さしたのは、オレんとこの息子だけやないやろう!」とのことだった、2度も3度もやってくるので、私はついに怒鳴り返した「おまえ、悪さしたのは事実だろうがぁ!中学3年生にもなって、父親に泣きつくのか。このバカが。二度と来るな!!」。こんなやり方には、アンチも多い。

 私はアメリカで改宗したクリスチャンだ。人に優しくしたい。でも、あまりに非常識な人が多すぎる。A子ちゃんとBくんのどちらが合格するのかは、明らかだ。Bくんから学んだことは、何もない。会わなければよかった。

    36歳の夏のことだった。名古屋の河合塾学園での非常勤講師の仕事が決まった直後に背中の左後ろに痛みがはしった。近くのいなべ総合病院に行ってエコーで診てもらった。医者が言うには、「よかった。高木さん、原因が分かりました。胆石です。すぐ、手術しましょう」。

    ちっとも、良くなかった。慌てて河合塾学園に電話して「すみません。急に手術になってしまって」「え?本当に勤務していただけるのですか。いつ退院できるのですか?」「ちょっと、今は分かりませんが、たぶん1ヶ月後には」。

    検査入院している時に、奥さんがやってきて「早く退院してくれないと、私ではどうしようもない!」。私が緊急入院したと聞いた塾生が、数人塾をやめたと言う。ローンの返済が滞ったら、娘たちをかかえて家を銀行にとられてしまう。

    それで、医者に言ってみた。「羽津病院なら、石を超音波で破壊できると聞いたのですが・・・」「いいですか、高木さん、うまくいかずに石がバラバラになったら痛みは今どころでなくなり完治はできないのですよ」。手術しか道がないと諭された。

    私の喉は敏感らしく、胃カメラを飲まされたらハナ水は出るし、涙は出るし、ヨダレは出るし、散々だった。しかし、一刻も早く退院しないと、河合塾学園の仕事を失い、塾もダメになり、家も追い出される。

     退院したら、体力が回復していないのでフラフラになりながら名古屋の専門学校で教壇に立った。相変わらず、生徒たちは大騒ぎ。「イカン、このままでは殺される」。素行の悪い生徒を指導するのを捨てる覚悟をした瞬間だった。

    ある日、帰宅したら奥さんがいなかった。私に落ちこぼれ生徒を救う、優しい講師を期待していたようだった。でも、私の塾には学年トップの子が多く、素行の悪い子には容赦せず叱った。時には、追い出した。

    中京銀行の融資担当の人には「銀行は、大規模塾を勝ち組、あなたのような個人塾は負け組み」と罵られた。最後の砦と思った娘たちも、私を憎む母親に、私の悪口を吹き込まれていた。娘の言葉は、つらかった。

    私は、単純に英語の指導をしたいだけだった。娘たちのために戦っているつもりだった。しかし、気づいたら周囲に理解者はいなくなっていて、罵倒と誹謗中傷が多くなっていた。

 4年前にブログや動画の投稿を始めたら、北海道から鹿児島まで英作文の添削依頼が舞い込んだ。それも、開成や洛南といった名だたる有名校の子もいた。4浪の子もいた。再受験の子もいた。仮面浪人の子もいた。通塾生の子も、四日市や桑名から田舎に向かって逆流して通ってもらえるようになった。

 通信生のストーリーは、まだ新しすぎて書けない。でも、会うこともない彼ら、彼女らとは同志のような関係にある。彼らから学ぶことは多い。彼らも、私が英検1級、京大二次で英語8割、数学7割と知ると、どういう講師か分かるらしい。

 彼らは16歳から26歳。でも、彼らや彼女らのメールや答案を読むと、小さい頃に川の流れを見ながら、未来にワクワクしていた頃の視線と同じものを感じる。私は、自分が幸福な塾講師だと思っている。

 私は必死な思いで勉強している生徒を前にしたら、いくら奥さんが「スクールウォーズ」や「GTO」を求めても路線変更などできるわけがなかった。

 今は、誰にも理解してもらおうと思わない。年老いた母親と、成人した娘たちが助けを求めてきたら手を貸すだけだ。娘に言われた。「お父さん、結婚相手はきちんと選ばないと」。すみません。

   他人に理解してもらおうなんて横着な考えを持っていない。他人のやっていることなど、多くの人は無関心か不気味なだけ。それが、自由を重んじる民主国家の良いところ。

 

  私は、ただ英語を身につけたい。英語を教える仕事がしたい。それだけなのに、実際にやってみたら、こんなことになってしまった。いなべ川を見ながら、外国暮らしを夢みていたときから50年が過ぎた。

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