つまり、ことばを覚えるとか、使うということはこういうことなんだろうと思ったという話
息子と近所の公園に行った。
壁打ち用のテニスコート(スカッシュ場?)に神経質そうでかつ身なりのきちんとした初老の男性が壁に向かってボールを打っている。息子も少し離れたところで、その辺で拾ったテニスボールを壁に投げて遊んでいる。しばらくその様子をぼんやりと眺める。
経験上で言えば、この手の熟年男性がもっとも危険。些細なことでいきなりキレる傾向がある。
しばらくすると、浅黒い顔をした小学生5,6年生くらいの二人の男の子がコートに入ってきた。二人ともテニスラケットを持ってはいるが、一人のほうは初めてらしく、もう一人の男の子がラケットの握り方から、ボールの打ち方まで丁寧に教えている。
使っている言葉はタガログ語だった。
しばらくすると、教えていた子は一人で壁打ちを始めた。この子は大変礼儀正しい子で、初老の男性の方にボールが飛んでいくと丁寧に頭を下げる。もう一人の子はなかなか要領を得ない様子で、壁打ちに苦労している。
しばらくすると、初老の男性がもう一人のほうの男の子に近づいていって、ラケットの握り方から丁寧に教え始めた。すると、上手な方の男の子がこの男性に話しかけた。
「こいつ、フィリピンから来たばっかりなんで、まだ日本語がよくわかんないんです。」
初老の男性は、この発言にうろたえる様子もなく、他に方法がないからだろうか、あいかわらず日本語で声をかけながら、男の子のラケットに手を添えながら、動作もあわせてラケットの握り方から振り方まで丁寧に教えている。
「手首を返して、こう。そう、もう一度」
初老の男性は丁寧に動きを教える。男の子もそれに従って体を動かす。この子は、男性の日本語はほとんどわからないのだろうが、言われたことをぶつぶつと繰り返しながらラケットを振っている。
初老の男性は男の子から離れる。自分も壁打ちをしながらも、横目でその子の壁打ちの様子しばらくを眺めてから、そのフォームを見て、また日本語で丁寧に教えだす。通じようが通じまいが、きちんと動きと言葉を伝える。そして、一通り教えたあとは、必要以上にかまわない。
この絶妙な距離感と、初老の男性の誠実な様子に好感を持った。久々に、「大人」を見た感じがした。
つまり町のあちこちでこういうやりとりがあれば、「地域の日本語教室」など必要ないのだろうな、と思った。
壁打ちを習っていた子が打ったボールが僕の足元に転がってくる。それを投げ返すと、その子が言った。
Filipino ka ?(フィリピン人ですか?)
僕は、片方の眉毛だけをぐっと上げて、その子に片言のセブアノ語で声をかける。僕はタガログ語がわからない。
nag-puyo sa Sugbo sa trabaho.(仕事でセブに住んでたんだよ)
ちょっと困った顔をしたあと、その子が返事をした。
O po(はい、そうです)
その子はセブアノ語がわからなかった(と思う)。
僕は結局、その初老の男性よりもこの男の子と話ができなかった。ことばを覚えるとか、使うということはそういうものなんだろうと思った。
我が息子と言えば、こんな二人の少年と一人の大人から少し離れたところで、彼なりに気を使いながら、壁に向かってボールを投げて遊んでいる。
しばらくして、一人の男の子が大きく打ち返したボールが2本の電線の間に見事に挟まってしまって回収不能となってしまった。
3人の少年はこの挟まったボールを眺めてゲラゲラ笑っている。
初老の男性は、ちらりとそちらを見たが、すぐに自分の壁打ちを再開した。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?
著者のMatsui Takahiroさんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます