自分らしくを大切にする人生 その3 ~罪悪感を感じた大学時代の同性との初体験~

前話: 自分らしくを大切にする人生 その2 ~ゲイということは死ぬまで隠そうと、真剣に思っていました。~
次話: 自分らしくを大切にする人生 その4 ~何時間もかかって、初のカミングアウト~

4月に母校の北海道大学で行った意見交換会「ゲイとして自分らしく生きる」。



高校を卒業した僕は北海道大学文学部に入学しました。そこから7年間、修士を取るまでお世話になった大学です。

その北海道大学で、大学の恩師や、LGBTのことを研究されている文学部先生も一緒に、この4月に行ったのが「ゲイとして自分らしく生きる」という講座。

幼い頃からの経験や、大学時代の経験をたくさんお話しました。修士論文の指導教官の恩師からは大学時代の僕のことをいろいろ話してくださったのですが、

「そんなこと僕言いました?」

「それ本当に僕ですか???」

なんていうことのオンパレード。自分では本当に覚えていないものですね。


その時にもお話したのですが、今回は同性との初体験について書きたいと思います。

19歳の頃だったと思います。当時は伝言ダイヤルというシステムがあって、それを通じてあるゲイの男性と知り合いました。知り合ったというよりも、目的はセックス。出会ってすぐの人と僕はセックスをしました。


高校くらいから同性に明らかに性的な興味を持っていましたし、自分がゲイだという自覚もあったのですが、なかなか出会いもないし、自分がゲイだということも隠しとおしていた時期。

でも興味は高まるばかりで、19歳の頃に初体験をしたのでした。


しかし、それはただ罪悪感だけが残る経験でした。


行為におよぶまでは、ドキドキで、早く体験してみたかった初体験。

でも、終わった後は

「自分はなんて事をしてしまったんだろう。」

「こんな悪いことをしてしまって、絶対他の人には言えない。」

という気持ちしか残りませんでした。


通っていた北大には生協の食堂があったのですが、その食堂の入り口の風景がはっきり頭に残っています。

1人食堂に向かいながら、昨夜の体験のことを思いだす自分。

「これからどんな顔をして友達と会えばいいんだろう。本当に自分は恥ずかしい。」

そんな気持ちを持ちながら呆然と食堂の入り口を眺めていたのですが、その風景は忘れられません。


そのくらい、僕にはトラウマのような、罪悪感や後悔だけ残った経験。


なぜそんな風に思ったのか、今冷静に振り返ってみると、

出会い→付き合う→愛を育む→セックス

というのが僕の中でのセックスの「正解」のようなあるべき姿でした。


それが、ただ性欲だけでセックスをしてしまうなんて、

周りの友だちたちは付き合ったりしていて、きっと彼らは付き合って、愛を深めてからセックスしているはずなのに、自分だけこんな体験をしてしまって、

と自分を責めました。


ものすごく。


今思うと、セックスっていろんな形があって、恋人の間でもあるけれども、一夜だけの関係とか、興味でとか、性欲を満たすためにとか、いろんな形があってぜんぜんオッケーって思えるのですが、当時の僕はとにかく一つのセックスの正解があって、それから外れてしまったとしか思えませんでした。


また、

異性愛の男性には、

若い男は女に興味があって当たり前とか、

エッチなビデオを見るのも普通とか、

いろんな「サポート」というか、「肯定のメッセージ」があるように思うのですが、

ゲイの僕達にとって、性に関して世の中にどれだけ「肯定のメッセージ」があるかというと、本当に少ないように思います。

もちろん、今ではインターネットや雑誌やマスコミや、いろんな所でゲイを初めLGBTに関する情報が出てきましたが、それでも、異性愛の男性に比べればアクセスする機会がないとできない、自分から探していかないといけない、そんな風に感じます。


前に書きましたが、小学校の時に水泳の先生の「富士山」(背泳ぎをしていた時に、競泳パンツのモッコリが水面から出ていて、それを学年が上の男子たちがからかっていました)にドキッとしたりした時も、やっぱりこういう気持ちはだめなものだって思いました。


中学高校になって、同性に性的な興味が出てきても、やっぱり恥ずかしいもの、周りとはちがうこと、隠しておかなくちゃ、そんな気持ちばかり。


10代のころを振り返ると、初体験も含め、ほんとうに自分の性が全く肯定できない、そんな時代だったんだなって思います。

性って自分のアイデンティティのコアにあるものだし、とてもセンシティブな、大切にしなくちゃいけないところだと思うんですが、そういった部分でこうした罪悪感、羞恥心、否定、そんなものばかりだった僕。

自分らしくなんて全然思えなかった時期。


今ではずいぶんセックスに対してもオープンに、肯定的に思えるようになった僕ですが、

当時はよく「むっつり」だねとも言われていました。

また、「キヨ君からは性的なものを感じない。」とかもよく言われていました。


でもそういう指摘に嫌な気持ちばかりしていたか、というと、そんなこともなくて、

そもそも性に対して罪悪感や羞恥心ばかりだったので、僕としてはある意味、性的なものが感じられないというのはいいことなんだと思っていました。

いいひと。安全な人。

友だちになりやすい人。

それが僕なんだ。


そう思っていたのですが、実は自分の中にはものすごく性に対する興味とか、性欲とかがあってただそれが肯定できなかっただけなんですよね。だから抑え込んでいた。

「むっつり」という指摘も、きっとエッチなこととか考えていそうなのに、全く表面に出さないところを見抜かれていたんでしょうね。


今では「むっつり」なんて誰も言ってくれなくなりましたが!笑。

まあ、39歳ですしね。笑。


でもこの性を肯定的に捉えられないことは、未だにちょっと残っていて、

例えば僕はマッチョなイケメン男子が好きなんですが、それを恥ずかしいって思っている、何か悪いものとしてジャッジしている部分がまだ残っています。


身体や見た目に対する興味じゃなくて、心を見るべき、内面を見るべき、

そんな風に思ってしまっていたり。


身体ばかり求めるから、いつまでたっても幸せな恋愛ができないんだ、いい相手が見つからないんだ(今彼氏いない暦2年)って思ったり。


どんな人がタイプなの?って聞かれて、

マッチョイケメンです!

ってすんなり出てこないときがあります。


そう、僕は今ジムで身体を鍛えていますが、

それもマッチョないい身体の男性にもてたいから、

とか、自分がいい身体になりたいから、

という気持ちからなんですが、それもとっても恥ずかしいと感じてしまうときもありました。


だから言えない。マッチョになりたいんですとか、男にもてたい!とか。

ジムでトレーナーさんに、なんでジムに通おうと思ったんですか?と聞かれても、マッチョになりたいんです、って全然言えない時期がありました。

でも言えないと、結局トレーナーさんにも目的意識が伝わらないし、だからいいメニューも考えてもらえないし、結局マッチョになれない。。。

の悪循環。


こんな趣味は恥ずかしい、ちょっと「低俗」みたいなジャッジをしてしまう。

周りの人たちはいい恋愛をしているように見えて、

自分だけ取り残されているような、

そんな気持ちになることもあります。


ただ、今はそんな気持ちに自覚的になっていますし、

ジムでもマッチョになりたい!ってトレーナーさんにちゃんと伝えて、いいメニュー作ってもらって、マッチョなエロい身体になるために、絶賛トレーニング中ですから、笑、

ずいぶんよくはなってきました。


恥ずかしい気持ちが出てきても、「あーまた思っているな」って言う程度になりました。



でもー、

振り返ると、あの小学校のころから、競泳パンツの「富士山」が好きで、

水泳選手の身体を見ては興奮したり、いい体の人がテレビに出てくるとドキッとしたり、

もう30年くらいその趣味は続いているんだから、

まあこれが僕なはずなんですよねー。


根っからの、

マッチョ好き。

競泳パンツ好き。

イケメン好き。


根っからの男漁り好き(昔ストーカーされてしまった男性に、「男漁り」って罵倒されて、それを今では肯定的に捉えたいと思っています、笑。)


そう思って、あきらめるというか、もうこのまま突っ走るしかないなー、

みたいな、今はそんな気持ちでいます。





今ではこんな格好で沖縄の海で泳げるようになりました!

成長ですね。笑。


続きのストーリーはこちら!

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