【第21話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

▲他20件のストーリー
【第21話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
▼他25件のストーリー
このエントリーをはてなブックマークに追加
434

それから数カ月を無事に過ごし、特に兄からの接触もなく、この家を追い出されるようなことも起きず、年末に行われた県議会議員選挙で、兄は見事に当選した。

折しも、民主党政権誕生と相まって、世間的に無所属押しの風が吹いていたことも当選の要因の一つにはなったであろうが、良かったのか悪かったのかは、僕にはわからない。

あの時のあの出来事は、いったい何だったのだろうか。

ただ単に兄の虫の居所が悪かっただけなのか、本気でそう思っていたのか、もしかしたら、僕が兄にそこまでさせてしまう何かがあったのかはよくわからなかったけど、僕たちは家を追い出されることも無く、兄も当選し、一件落着したのだった。

それにしても、この一件で失ったものは大きい。

最悪の事態を想定して生きる、という僕の新たな生き方は、自分の考えや行動の如何によっては、さらなる最悪を引き起こす可能性があるということと、考えているほど最悪の事態が起こらないということもある、という新たな教訓と、子供たちとの何度かの旅行の思い出を僕に与えたのだった。

引き続き当面生活できるだけの家を確保したのだったが、いよいよ金が底をついた。

ヤフーのIDは情報販売のゴタゴタで剥奪されてしまっていたので、不用品を売って金を作ることも出来ない。

一つ状況が好転したことといえば、子供たちが大きくなりある程度兄弟だけで何とかできる部分が増えたことと、学校に行っている間は自由な時間が持てるようになった、ということだった。

よし、この空いた9時から15時までの時間を使った仕事に出るか。

この時間を有効に使うしか、僕たちに生きていく道はないし、全財産は早くも残り数万円、というところまで来ていた。

仕事を探すにもまだまだ色々と条件がある。その条件をクリアできるところでしか働けないのだから、仕事を探すのは簡単ではなかった。

まず、職場は家から近くないといけない。車で10分程度が理想。

そうは言っても住んでいる町は都会でもなく、世の中は相変わらずの不景気、さらには父子家庭というよくわからない生活をしている40手前のおっさんなわけだし、何かの時に子供を預ける人もいない。

近所にそうそう都合よく仕事自体がないわけで、さらには働くための条件がある。条件があるにも関わらず、雇い主側にとっては僕を採用するに躊躇せざるを得ない判断材料が山ほどあって、父子家庭という聞きなれない生活スタイルを説明するだけで煙たがられたし、いくら僕たちの置かれている状況を説明したところで理解してもらえることはあまりなかった。

「子供預かってくれる、面倒見てくれる身内の一人や二人誰にだっているでしょ?」と言われるのがオチで、ひどいところになると、いい年してこんなことやっていて大丈夫かと、子供たちのためにもしっかりしろと訳のわからぬ説教までされる始末。

仕方ないけど、これが現実だった。

世間は不景気で、みんな仕事を探している。こんな小さい町ならなおさらだ。雇い主側としては少しでも条件の良い人を選びたいわけで、誰がどう考えてもチョイスする相手が僕ではないことは確かだった。

長く調理の仕事をしていたということもあり、調理師としての仕事をメインに探した。

飲食店などは土日祝日がかきいれ時、できれば土日祝日は休みたいと言っている時点で、もはや採用の脈はない。

子供たちを一人で育てている以上、土日は休みたかったし、休むことでしか成り立たないものもある。

働ける時間も限られていたし、正社員として働きに出ることはそもそも不可能だと悟った。こっちの都合のみで働かせてくれるような職場は、少なくともこの町界隈には存在しない。

だとしたらアルバイト、パートの類になるわけだが、僕ができるのが飲食業のみということは、時間はこれ以上譲歩できないわけだし、土日祝日は条件から外すしかないのか。

そんなこんなで条件を譲歩しながら、駆け引きをしながらの職探しだった。

子供たちには寂しい思いや、さらなる迷惑をかけることになるだろうけど、生きるためにはそうするしかなかったし、働かなければ食っていくだけの金がない。とにかくその他すべてのことは後回しにしてでも、今はなんとか1日3食子供たちの口に食べ物を入れてあげること、それがすべてだった。

もういよいよ、笑ってなどいられない。

毎日求人サイトと求人雑誌をにらめっこしながら、手当たり次第に電話をした。

条件などというきれいごとを言っている場合ではないことは明らかだし、選べるほど多くの仕事があるわけでもなかった。

電話をして簡単な質問に答え、履歴書を見てもらえるまでですでに半分になっている。その残った半分も履歴書を送った時点でさらに半分、実際面接までしてくれるところは電話を掛けた求人先の1割にも満たなかった。

条件はいくら譲歩しても、自分の置かれている状況、なぜ働けないのか、なぜパートなのかという詳細は説明しなければいけない。その簡単なプロフィールのインフォメーションを入れた時点で、おおよそは断りを入れてくる。わざわざ会うまでもないということなのだろう。

応募をかけたほとんどの企業に断られ、残りのお金も底が見え始めてきた。とりあえず何でもいいから収入のあてを探さなければ、飢え死にしてしまう。

飢え死にしないように仕事を求めているのに、子供を預けるところもない30半ばの父子家庭生活にやすやすと仕事をくれるほど、世の中甘くはないということか。

どう考えても、他の誰よりも仕事を欲していることは明らかだろうに、だからといって採用の優先順位が上位に来るかといえば、それはそれでまた話が違うようだった。

ひっきりなしに落ち続ける面接をこなしながら、どうしたら仕事を得ることが出来るか考えた。必死に考えなければ、僕たちに待っているのは、冗談などではなく「死」そのもののような気がした。

まず、条件は捨てよう。

どのみちこの不景気で、仮に仕事を見つけたとしても、土日休み週5のフルタイムでアルバイトのシフトに入ることはどうやら不可能だということを察した僕は、とりあえず面接対応として嘘でも「何でもやります、いつでも大丈夫です」という積極性を取り入れることにした。

まずはここからやらなければ話が始まらないらしい。

さすがに父子家庭ということを隠し切れはしないだろうから、そこは伝えたとしても、子供たちはいざとなったら見ていてくれる人がいますといった具合に、万人受けする対応。背に腹は代えられない。嘘も方便、生きるために相手が求めている自分を演じるしかない。

父子家庭という環境をプラスに作用させるために、限りなく同情を買うべく、助けてください的な悲壮感を漂わせてみることにしたのだ。

なにはともあれ仕事を得られることが出来なければ、僕たちは確実に死んでしまうのだが、近所の求人はすべて電話をかけてしまっていた。

もう電話をするところすらない。

どうしたらいいのか考えた末に、もうこうなったら求人がかかっていようがいまいが、電話をして聞いてみるしか方法はないと考えた。

求人サイトばかり見て電話をしているから競争相手も多くなるだろうし、より良い条件の人をチョイスされるのだ。求人がないのなら、こっちから探せばいい。

もはや何のことだかさっぱりわからないが、やるしかない。

まずは自宅から車で10分程度にある、ショッピングモールのフードコートに電話してみるとこにした。

まったく求人などかかっていなかったけど、長年の飲食店勤務の経験から、あの手の店舗は慢性的に人手不足なことを、僕は知っていた。

電話を入れ、今現在求人をしているかもしくは求人をかける予定のある店舗は無いか探りを入れてみたところ、一つの企業がアルバイトを募集する予定だということが判明し、面接の日程をとりつけた。

まずは第一段階クリアだ。

面接は好感触で、後日結果をお電話しますということだったのだが、次の日には合格の連絡をいただき早速働きに出ることになった。

嘘みたいに作戦がはまり、小躍りしたい気分だった。

だいぶ調子の良いことを面接で言っての合格だったので、実際仕事が始まり困ったことになるのではないかという一抹の不安はあったのだが、とにかく仕事にありつけたことに僕は満足していた。

父子家庭になって仕事を辞め、それからしばらくの間は定職に就くことは無く数年間を過ごしたわけだが、久しぶりに味わう組織の一員という立場は悪くなかったけど、すでに年齢は30半ばのおじさんで、本来ならば近所のフードコートでおばちゃんや高校生に交じってアルバイトをしているような立場ではない。

父子家庭になる前は東京のそれなりの高級店で働いており、調理師としての立場やプライドや経験を持って仕事をしていたのだが、それから数年が経ち今ではフードコートのへんてこなユニフォームに袖を通し、おばちゃんのパートさんと一緒に、料理とは言えないようなものを作っている。

悪く言えば、僕でなくても、仮に調理の経験がなくても、誰であってもできるような仕事なわけで、修行というものを経て料理を学び、それなりの技術を身に着けることを良しとしていた僕には、いささか屈辱だった。

仕事をして現場に入ってみると、僕のようなタイプはみなさんとても気になるらしい、ということが分かった。それはそうだろう、何事も無ければここでこうして一緒にパートとして働くことは決してないであろうと思われるような人が新人で入ってくるわけだから、どんな素性でどんな理由でここに来ることになったのか、それは格好の話題であるに違いなかった。

同僚は皆、暇つぶしのパートに来ているおばちゃん連中ばかりだったから、仕事に就いてからの数週間は、あれやこれやと根掘り葉掘り聞かれたものだ。

それは、仕事を変えどこに行っても必ず初めに通る道で、そこのカミングアウトなしに新しい職場の仲間入りをすることはできない。

父子家庭であること、男の子2人を育てていること、子供が小さくてしばらく働けなかたけどようやく働きに出られるようになったこと、なぜ父子家庭になったのかということなど、興味のわくままに聞かれては、隠しても仕方がないので正直に話していくのだ。

珍しい環境である上に、普段なら絶対に入ってこないであろう年齢の男、そしてたまたま僕が人見知りをしない性格であったことなどが、意外と仲間内のおばちゃん連中にウケて、どうにかこうにか話し相手も見つけながら、ちょっとづつではあるが職場になじんでいくことが出来たのだった。

世話好きのおばちゃんからは、たいそうかわいがられたりもした。

時給は800円。

労働時間は11時から16時まで。日によって多少の前後はあるが、こんな感じで週4日。月のお給料的には大体8万円程度になる。

子供2人を育てるいい年した父親が、月の稼ぎで8万円也。

移住だなんだ言ってはいたが、現実はそれほど甘くはない。今となっては家賃がないということが、唯一の救いであり、月に8万円しか稼げないのにどうやって家賃を払って光熱費を払って食費を払って、子供たちを学校に行かせてあげることが出来ただろう。

働ける時間が限られている僕にとっては、時間を目いっぱい有効に使ってバイトしたいところだったのだが、そうそううまくシフトに入れるわけでもない。暇な時間帯や曜日は当然シフトに入れてもらえないし、どうやったところで月8万円が精いっぱいだった。

仕事と、家事育児の両立は難しかった。

考えてみてほしい。

育ち盛りの男の子2人をかかえて、家賃は無いとは言えども、光熱費、食費、教育費、その他雑費等々で、8万円などあっという間に右から左に消えてなくなる。消えてなくなるだけならまだよいが、この程度の稼ぎでは日々の暮らしに必要なお金ですら足りないのだから、自転車操業は免れない。

電気代やら水道代やらは2カ月に一回しか支払えなくなり、それが3カ月に一回になる。なんとかやりくりをしながらごまかしごまかし行くのだが、学校の給食費、教材費、積み立て・・・電気代、水道代・・・どうにもこうにもごまかせない出費がある。

実際のところ稼ぎが8万円なのだから、どこで帳尻を合わせるかということになるとそれは、食費しかなかった。

食費といってもまさか子供たちのご飯を削るわけにはいかない。

ではどうするか。

僕は、ご飯を食べることを、やめた。

生きていくために、いや、子供たちを生かしていくために、僕はご飯を食べることをやめることにした。

自分が食べる分の食費を削れば、その分子供たちにご飯を食べさせてあげられるに違いないと考えたのだ。手っ取り早く削れる経費はそこしか無かったし、これも子供たちを育てるためだと思えば、我慢することも出来るはずだ。

だいたい仕事は11時から、どんなに早くても10時より前には家を出ることが、不可能だった。

時間の使い方がうまくできないし、手際よく家事をこなすことが出来ない。朝起きてご飯の支度をし、子供たちを学校に送り出す。休む間もなく家事にとりかかり、それでも自分の支度もしなければならず、11時でも時間的にはかなりきつかった。

ご飯を食べることをやめてからは、子供たちの残したご飯のみを口にする生活。

特別に自分の食べる分としてご飯を用意することはない。残ったものといっても次の日や次の食事に回して子供たちのご飯として成立するようなものは食べないで、子供たちの次の食事となる。

日々の食費を浮かすためにやっていることなので、極力食べず、子供たちの食事に回す。

三十数年間、何の疑いもなく3食ご飯を食べていた僕にとって、いくら生きていくためとは言え、いきなりの食事抜きはさすがにきつかった。

朝ごはんを食べず仕事に行く。食べたとしても残りの白米を一口程度。とにかく食費を浮かすことと子供たちに毎食ご飯を食べさせてあげること、ただそれだけをどうしたらよいのかを考えていた。

食事をとらないと決めたはいいが、それはあまりにも過酷だった。

慣れないうちは尋常ではない空腹感。時にはめまいすら覚え、とにかく何でもいいから口に入れたい衝動に駆られる。

仕事は飲食店だったこともあり、お昼ご飯を社員価格で食べることはできるのだったが、その金がもったいない。社員価格といえども一食250円はかかるわけで、月にしたら相当な出費であるに違いはなかった。

食事を抜くということは、つまり自分の為にお金を使わないということ。仕事中のお昼休憩もご飯を食べず、ただひたすら空腹を紛らせていた。うろうろ歩いてみたり、水をがぶ飲みしたり。

それでもどうしても空腹に勝てないときは、本当に申し訳ないのだが売り物の何かを隠れてこっそり食べる始末。

月8万円の給料で、子供2人を育てていかなくてはいけなくなった以上、もはやモラルなど存在しない。やってはいけないと分かっていても、どこかで何かを食べなければ生きていけなかったし、タダで何かを食べられるのなら、その理由など何でもよかった。

日々、猛烈な空腹と闘いながらそれでも何とか生活をし、月8万円の生活もどうにかこうにか無理無理ではあるがやっていたのだが、いつしか食費を削る程度では賄えなくなってしまった。

どう考えても、家族3人で暮らすにあたり、収入が少なすぎるのだ。

家にいるときにおなかが空いて子供たちが残したもので僕の口に入りそうなものがないときは、仕方がないので50円の即席麺を購入したりしていたのだが、いよいよもってその50円も使えなくなってきた。

さらなる節約が必要だった。

働く時間が限られている以上、さらなる支出を抑えるしか生きていく手立てはない。抑えられる支出はもうすでにガチガチに抑え込んでいて、決してどこかで贅沢をしているわけではない。

削れる経費は無いか、考えた結果にたどり着いた答えは、光熱費だった。光熱費と言っても、電気代やガス代ではない。

灯油代だ。

わが家は古いタイプの家だったため、お風呂の燃料が灯油だった。さらには冬場の暖房の燃料として使っていたのが灯油だったので、ここの費用をカットしようと目論んだわけだ。

安い燃料の代名詞だった灯油も、一昔前と比べ3倍の価格に跳ね上がっており、レギュラーガソリン並みの値段で売買されている。

これは、生活を圧迫する甚大な支出である。

夏場のクーラーなどもってのほかで、こんなものははなから使用禁止である。我慢の程度でいったら夏はお遊び程度で、問題は冬だった。

まず手始めに、溜めて入っていた風呂をシャワーに変えた。夏場はもともとシャワーだったので冬場湯船につかっていたのをシャワーに変える。冬だからといって湯船に浸かろうなんざ、贅沢の極みである。子供たちにはシャワーを浴びるときも急いで使うようにと指示し、こうなったら毎日ご飯を食べることを目標に、それ以外の些細なことについては、子供たちに協力してもらうしかなかった。

協力という点で言えば、子供たちは素直に僕の指示に従った。

節約生活は子供たちの協力なくしては、成立しない。どんな理不尽なことも文句を言わず協力してくれる子供たちはありがたかった。

他の生活スタイルを知らないため、これが普通だと思っていたのだろう。とにかくなんでも言うことをよく聞いてくれた。

冬場にシャワーではさぞかし寒かろう、子供たちにも我慢を強いているのだから、僕もさらなる節約に取り組まねばなるまい。それが家長の役目だ。

僕は、一人で家にいるときに暖房器具を使うことを止めた。

真冬ともなれば北関東の茨城県、雪が降ることもあるし、かなり冷え込むわけだが、自分ひとりで家にいるタイミングでは一切の暖房器具を使わない。炬燵であろうとホットカーペットであろうとストーブであろうとファンヒーターであろうと、だ。

そのすべてで光熱費がかかるのであれば、やめる以外ない。

子供たちがいればさすがにつけて部屋で暖を取るのだが、自分ひとりであれば、ただ寒いのを我慢すればいいだけだ。

これで僅かばかりのお金が浮き、子供たちにご飯を食べさせてあげられるはずである。自分ひとり寒い思いをすれば、子供たちに温かいご飯を1食たべさせてあげられる。

しんしんと雪が降っているような真冬の日、仕事が休みで子供たちも学校に行ってしまったような日中には、一切の暖房器具をつけずに、自宅でジャンバーを着込み毛布にくるまっていた。

仕事がある日はまだよいのだが、休日ともなると逃げ場がなく、自宅でガタガタ震えながら過ごす毎日。

暖を取ることも出来なければ、ガソリン代がもったいないので出かけることも出来ない。

それでも寒さをしのげないときは、子供たちが学校から帰宅するまでの間、布団の中に潜っている。なんの生産性も無いのだが、仕事もない金もないではこうするしかほかに手立てがなかった。

日中でも気温が上がらず、雪が降り底冷えするような日でも暖房はつけない。ただでさえ心底冷え切ってしまうのだが、ご飯も満足に食べていないので、体の内部からエネルギーを体温に変えることもできない。

一向に温まらない体を布団に潜りこませ、がたがたと震えながら、ただひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

我慢ならぬほどに追い詰められたら、大声を出して体を温めた。

こんなギリギリの節約生活をしながら、それでも何とか子供たちにご飯を食べさせた。レトルトやインスタントは使わずに、いつも材料を買い手作りにこだわった。

その方がお金的にも節約になるということもあったのだが、このころにはもう一つ別の側面で手作りのご飯を子供たちに食べさせていた。

父子家庭で、たった一人で子供を育てるうえで、お金がないとか仕事がないとか、もしかしたらそれ以上に困ることが実はあるのだ。

それは、病気だ。

自分が病気になるぶんにはまだいい、我慢すればいいだけだ。

子供たちが病気になればそうはいかない。僕のようなしがないアルバイト暮らしが、シフトに穴をあけるということが何を意味するのか。

子供の都合で仕事を長期にわたって休まなければいけないということはつまり、そのまま職を失うということにつながる。

子供が順番に感染症にでもかかってしまえば、軽く半月仕事にでることは不可能だ。

どんなことがあっても、どんな些細な病気であっても、子供たちにかかってもらうわけにはいかなかった。生活がかかっている。

だから僕は、子供たちの食事を手作りにこだわった。

お金がないなりにバランスの良い食事を作り、子供たちの健康と免疫力の向上に努めなければいけなかったわけだ。

コックの僕には、それができる。

免疫力の向上が期待できる食材を食べさせたり、インフルエンザ予防に良いとされる食材を使い食事を作ったりと、常に子供たちが健康でいられるように心がけたのだった。

もちろんインフルエンザの予防接種を受けさせてあげられるだけの経済的余裕は、わが家にはない。

子供たちは、毎日僕が作ったご飯を喜んで食べてくれた。

今自分にできることを精いっぱいやる。それでもダメな仕方がない。考えられる最悪の事態を想定し、それらを回避するためにどうすればよいのか、それは僕たちが生きていくうえでとても重要なことだった。

子供たちの中で、それなりの不平や不満はあったであろうが、文句も言わずに毎日生活してくれた。習い事をさせてあげることも出来なかったし、欲しいものを買ってあげることも出来ない、食べたいものを食べさせてもあげられないし、行きたいところに連れて行ってあげられるわけでもない。

同年代の友人たちに比べたら、明らかに不公平な生活を強いられているにもかかわらず、子供たちは僕に不満を漏らすことは無かった。それは彼らなりに父親が置かれている状況を理解していたのかもしれないし、今更いちいち言っても仕方がないとあきらめていたのかもしれない。

仕事をしてご飯を作り、家事と育児をこなす日々。毎日毎日やらねければいけないことは無くならず、子供たちと接する時間もあまり持つことが出来なかった。

仕事から帰って家のことを片付けるだけで、もう何もやりたくない。できればゆっくり休みたいし、明日のために早く寝たい。そうは言っても、子供たちとの時間を持つことや、子供たちの話を聞いてやること、子供たちと一緒に出掛けたりして思い出を作ったりすること、子供たちが楽しくてうれしそうにしている顔を見たすることが出来ないこの日々の生活は、これでよいのだろうかと、いつも僕を激しい自己嫌悪にさせるのだった。

そんな生活をしながらもなんとなく月日は流れ、僕たちもそれなりにこの生活でのペースをつかみつつあった。慣れないながらも、貧しいながらも、恵まれないながらも、それなりに生活を楽しめるようになっていったのだ。

時間を有効に使えるようになり、子供たちとの時間も多少なりとも持つことが出来るようになった。

とはいっても慢性的な金欠は相変わらずだったので、子供たちをどこかに連れて行ってあげることはできなかった。本当は休みの日に旅行に行ったり、遊園地に遊びに行ったり、そんなことが出来れば良かったのだろうけど。

だから僕たちは、夜になると連れだってよく散歩に出かけた。

3人で歩きながら今日あった出来事を話し、大きな声で笑った。学校でこんなことがあったよとか、友達とこんなことしたよとか、どこどこに行ってきたよとか、そんなたわいもない会話だったけど、3人で持てる貴重な時間に僕は満足していた。

散歩のときは子供たちに200円ずつ渡し、散歩の途中で寄るコンビニで好きなものを買っていいよと言った。高々200円なのだが、二人で400円、僕にとっては大金だ。毎日は散歩に行けないとしても、大体これだけで月に1万円弱の出費になる。本当は食費やその他の支払いに回したいところなのだが、子供たちが喜んで楽しそうに200円を握りしめている姿を見て、僕はうれしかったのだ。

夏になると少し遠出して、街灯のない田んぼ道まで行って3人で道路に寝転がり星空を眺めた。虫の声を聴きながら満点の星空を眺めていると、子供たちと一緒に過ごせるこの時間がかけがえのないものに思えてくるのだった。

このまま何とかやりくりしながら、子供たちが大きくなって、また次のチャンスが来るまでしのいでいこうと思っていた。

子供たちが大きくなれば働ける時間も増えていくだろうし、自分のことを自分でやれるようになれば、今よりもだんだんと楽になっていくだろうと、そう思っていた。

今は我慢の時なんだ、と。

時間はかかるかもしれないけど、どうにかこのままやっていこう。

そうやって日々を過ごし、細々と生活していけるようになりつつあったあの日、僕たちには全く予想だにすることが出来ない事態が、またしても降ってわいたのだった。

読んでよかった
このエントリーをはてなブックマークに追加
このストーリーをブログ等で紹介する

明日の タケシさんが次に書こうと思っていること

|

明日の タケシさんの他のストーリー

  • 【第8話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

  • 明日の タケシさんの読んでよかったストーリー

  • 【最終話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。