【第20話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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【第20話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
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移住支援のサイトとかもあり、様々なところで移住を支援していたのだが、そのどれもがいまいちピンとこなかった。

寒いことろがいいのか暖かいところがいいのか、都会のがいいのか田舎がいいのか、子供たちの学校はどうするか、住まいは、仕事は、と考え始めたらきりがなくなってしまっていた。

移住などと一言で言っても、現実はそれほど穏やかではない。

北海道から沖縄まで、自分が行ってみたい土地土地を調べて、家賃の相場やら求人情報やら物件の画像やらを見て回ったのだが、ネット上での情報だけでは行ったことも無い土地に移住を決断させるほどの決め手にはならなかった。

そこで僕は、情報販売で稼いだお金と両親のいくばくかの遺産を使い、旅行がてらその土地を見て回ることにした。

実際行ってみて、とても住めたものではないと分かれば、候補から外せばいい。

今後この先子供たちと一緒に旅行に行けるチャンスなどないかもしれないし、今までどこにも連れて行ってやれなかった罪滅ぼしのつもりで、なけなしの金を、移住先を探すという名目で数回の国内旅行に使った。

はじめは北海道函館。

HISでシーズンオフの格安函館ツアーに申し込み、子供たちを連れ初の3人での家族旅行。湯の川で温泉に入り、塩ラーメンや海産物を食べ、函館山に登って夜景を見た。

函館駅の立ち食いすし屋で500円のいくら丼を食べ、北海道のウニのあまりのおいしさにびっくりした。

不動産屋とはあらかじめアポを取っておき、こちらの条件で物件を探してもらっていたので、車でぐるぐる見てまわった。

函館は思っていたよりも寂しげな雰囲気の街で、4月だというのに寒かった。

気温2度。

実際行ってみて、これは寒すぎて暮らせなそうだなと思ったものだ。冬場だけでどれくらいの暖房費を計上しなければいけないのかと恐ろしくなった。

五稜郭に上ったり、ラッキーピエロに行ってカレーを食べ、焼き鳥弁当も食べた。

函館のカレーが思っていたよりも甘くて、温泉の温度は熱すぎた。海産物がおいしくて特に上の子は喜んでいたたけど、もろもろの理由により却下。

次に行ってみたのは、前々から行ってみたかった四国で、愛媛県松山市。

瀬戸内海は穏やかだと聞いていたし、市内を走る路面電車が素敵で、道後温泉もある。

ということで、飛行機に乗りいざ松山へ。

季節は春だったということもあり、瀬戸内海からの風は心地よかった。不動産屋の車に乗って物件を見て回ったが、ここもピンとは来なかった。

坊ちゃん列車に乗って市内観光をして松山城を見た。大きなアーケード街がありたくさんの商店が軒を連ねていた。

駅ビルの屋上に建てられていた観覧車にも乗ったし、道後温泉にも行った。

せっかく行ったのにも関わらず、道後温泉には入らず入り口の足湯だけで満足した。

道後温泉の入り口にある商店街で飲んだはちみつのジュースがとてもおいしくて、買って帰った。

甲子園優勝で一躍有名になった済美高校の校舎には「やればできる」と書かれたどでかい垂れ幕がかかっていて、この言葉が校訓だという分かりやすさに、変な感動を覚えた。

市内をめぐる二階建てバスにも乗ったし、ジャコ天も食べておいしかったのだが、移住とまでは至らなかった。

次に行ってみたのは仙台。

なぜ仙台なのかという理由としては、一旦東京まで行き、飛行機で移動するのに少し疲れたということと、水戸から特急に乗って行ける北方面の一番近い大都会ということ。

そして、子供のころ母の実家がある盛岡に行く途中立ち寄った、七夕祭りの思い出が残っていたから。

そんな懐かしさも相まって仙台旅行となったわけだが、仙台は思っていたよりも都会でびっくりした。

特急スーパーひたちに乗って午前中に仙台に向かったのだが、車内の電光掲示板に「マイケルジャクソン死亡」という文字が唐突に流れてきて、心臓が止まるほどびっくりした。

仙台での1日目は、テレビでずっとこの話題だったのを覚えている。

思っていたより都会ということもあって家賃が少しお高めだったし、子供たちを連れて住むとなると都会過ぎるような気がした。

牛タンを食べて温泉にも入った。ずんだもちは想像していた味ではなく、僕の好みではなかった。

というわけで、仙台も却下。

子供たちを連れて3度立て続けに旅行に行ってみたのだが、移住先は決まらずすっかり疲れてしまった。

2人の子供を連れて知らない町に行くというのは、神経を使うし子供たちを飽きさせないようにしないといけない、一応は移住を名目にしているので、行ったら行ったでやらなければいけないこともある。

子供たちと一緒に旅行に行くのは楽しかったけど、だんだんといろいろな意味で面倒くさくもなってきたのだ。

季節はすっかり夏になり、時間の経過とともに、この家を出ていかなければいけないのかというテンションそのものに飽きてしまっていた。

なぜこのままここで生活していくことができないのか、なぜこの状況で引っ越しをしなければいけないのか、不意に与えられた全く不必要な人生の1ページに嫌気がさしていた。

子供たちはまだまだ手のかかる年頃で、毎日の雑務と家事と育児に追われて自分の時間などほとんどない。

そのほとんどない自分の時間で、不毛にも移住先をネット検索する日々。

何をしているのだ、全く。

仮に引っ越しをして生活の環境が変わるのだとしたら、それはそれでタイミングも計らなければいけない。上の子が中学生に上がる前でしか、そのタイミングは無いように思われた。

時間だけが刻一刻と流れていくのに、問題は何一つ解決しない。

あの日以降兄との接触はなく、自分が今どのような状況なのかさえ分からなかった。

死刑宣告を待つ囚人のように、突然訪れるかもしれないその日のために意味のない恐怖だけが募っていく。

毎日誰かと話をするわけでもない、子供たちの成長をともに喜ぶ人もいない、体調が悪くても疲れていても誰も代わってはくれないし、ねぎらいの言葉すらかけてはもらえない。

明日どうなるかもわからぬ生活は、僕から徐々に正常な判断を奪っていくのだった。

両親が死んで、なぜか血を分けた兄弟に家を追い出されようとしている。

3度の移住計画家族旅行でも引っ越し先を決めかねていたし、ネットと毎日にらめっこしていても結局埒が明かない。

こうなったら、もう引っ越し先を決め、部屋も借りてそこに行ってしまえば何とかなるのではないか、いや、なんとかせねばならないのだから、その環境を無理無理にでも受け入れこの問題から解放されるのではないか、と。

とてもまともな精神状態での発想ではない。何を言っているのかよくわからないし、どうしてそのような思考になるのか、なぜそのような考えに至るのかほとほと疑問なのだが、今の現状から逃れる、そしてすべての問題を解決する唯一の方法であるような気がした。

まことに短絡的な発想であり、ただ単に問題の先送りに過ぎず、現実逃避であることは明らかなのだが、一向に解決の糸口の見つからない毎日に辟易した結果の、なれの果てだったのだろう。

では、どこに引っ越しをするかということなのだが、さんざんすったもんだした上にまったく移住先が見つからないという現状もありつつ、いよいよその候補地を探すことすら億劫になってしまった僕がたどり着いた先は、移住イコール沖縄、といった具合の小学生レベル、何の根拠もない幼稚な思い込みだった。

沖縄で、いいや。

要するにこういうことなのだ。

僕はさっそくネットで沖縄の物件を探した。仕事のことも考えなければいけなかったのでやはりそこは沖縄といえども那覇だろう。というか、那覇しか知らない。

那覇でアパートを借り仕事を探して暮らせばいいや、と。

それなりに考えたつもりの、こんなもんだろうという何の根拠もない思い込みでで見たことも行ったことも無いアパートを借り、とうとう夏休みを利用して引っ越すことに決めた。

夏休みだから学校の転校手続きとかその他もろもろは向こうでの暮らしが落ち着いたらまたやればいいやと、なんとも行き当たりばったりの宙ぶらりん状態で、僕たちは那覇に旅立ったのだった。

どうかしているし、常軌を逸した行動だとうことは分かっていたけど、気づかぬふりをしていた。

どうせそのうち追い出されて路頭に迷うなら、どこに行って生活してもそれよりはマシだ。

父子家庭になってからというもの、物事を長いスパンで考えられなくなっていた。

それはたとえ何年先、何カ月先、何日先であろうと、僕にとっては遥か遠い未来であって、今日1日をどうやって乗りきるか、それだけしか考えられなくなっていた。

多分、それだけ毎日が大変だったのだろう。恐らく、言ってしまえばそういうことになる。

もう、どうにでもなれ。

否応なしに突き付けられる現実に、父子家庭になった当初に持っていた理想や前向きな感情は、すっかりどこかに忘れてきてしまった。

それでもやはり、僕たちは夏休みの数日間を沖縄で過ごしただけで、移住をしてそのまま那覇に移り住むことは無かった。

沖縄スタイルになじめなかったということもあるし、仕事も探せなかった。慣れない土地で子供たちを残して仕事に行くということや、知らない町での生活に不安を取り除くことも出来なかったのだけれども、それより何より、ここ何か月かの移住に関するごたごたで、持ち金のほとんどを使ってしまい、この先家賃を払い続けて知らない土地で子供たちを連れて生活していくだけの体力が、もはや僕には残されてはいなかったのだ。

なんだかわけの分からない空回りの末、これが結局子供たちとの最後の家族旅行になった。

滅多に来ることが出来ないであろう沖縄の海で海水浴をし、ソーキソバやラフテー、グルクンのから揚げとかゴーヤのかき氷を食べた。

自動販売機の三分の一はサンピン茶だったし、タクシーがめちゃくちゃ安かった。

古宇里島の海はきれいだったけど、特産だという、うに丼はいまいちだった。

朝から日が暮れるまでいつもいつも暑くて、道は車で常に渋滞し、那覇空港からは飛行機がひっきりなしに飛び立っていた。

僕たちは数日間滞在した部屋を引き払い、国際通りで買ったシーサーの置物のお土産と星の砂と泡盛を持って、また茨城のこの家に戻ってきたのは、夏休みも残り数日となったころだった。

借りた部屋の難癖を一通りつけて、不動産屋と揉めた末に、敷金と礼金のほとんどを返還してもらうことに成功したことを、付け加えておこう。

一体何だったのだろう、ここ数カ月の移住計画は。

常に最悪の状況を想定し行動した結果、もっと最悪の状況を生み出しただけだった。

持ち金のほとんどはなくなり、家を出て引っ越すという可能性すらなくなったわけだ。

初めから無理な話だったのだ。身寄りのいない父子家庭の男が、まだまだ手のかかる子供2人を連れて移住をするなんてことが、そもそも無理な話なんだ。

もう無理だ、何も持っていないし、どこにも行けない。いよいよ打つ手なしで僕の負けだと思った。

出て行けと言われても行くところもない、金を払えと言われても持っていない。もうどうにでもしてくれと、半ば諦めの開き直りでここに居座ることに決めた。この世の中で一番強いのは何も持たざるものだと、腹をくくった。

知るか、くそったれ。

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