【第24話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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大震災が起きてからというもの、ほとんど寝ていない。子供たちを守れるのは自分ひとりだというプレッシャーと責任感、ひっきりなしに続く余震、そして、ここまで来たらどんな困難も乗り越えてやるという意地だけが、僕を突き動かしていた。


こんなところで死んでたまるか、もう少しだ、もう少しの辛抱だと、何度も何度も自分に言い聞かせていた。


子供たちの成長して立派になった姿を、生きてこの目で見るまでは、死ねるはずがない。


大震災から3日経っても、電気と水道が復旧する兆しはなかった。街は徐々に平穏を取り戻しつつあり、近所のスーパーも午前中だけとかいう具合に店を開け、そこそこの食料品を手に入れることも出来るようになっていた。


「どこどこのスーパーで1時間だけ日用品の販売があるらしい」


という情報があれば、自転車に乗ってどこまでも行った。


花粉の飛散が過去最高になったこの年の春先に、自転車に乗って移動する苦痛。薬も買えずお風呂にも入れない状況で、ひたすら自転車を漕いだ。


鼻水が止まらず、目が尋常じゃないほどかゆくて、くしゃみが出そうで出ないを繰り返し、こんなことならいっそ死んだ方がマシだと思うのだが、そのたびに自転車を漕ぎながら、大声でこう叫び、折れそうな自分を鼓舞した。


「死んでたまるか、バカヤロー、大震災のくそったれが、俺は負けねーぞー」


ガスは通常通り使えたし、飲料水を手に入れたことで食事の幅がだいぶ広がっていた。


インスタントラーメン、パスタ、うどんなどの麺類、レトルト食品など普段はあまり口にすることがないものも、非常時ということで購入し食料にした。


引き続き困っていたのは、お米の調達と、お風呂とガソリン。


わが家の米櫃は、大震災とは無関係に慢性的な米不足だったし、給料日1日目に起きた大震災ということで、新たな米を購入する前だったためまったく米がなかった。スーパーやコンビニ、ドラッグストアなどを回ってみたが、お米に関してはどこに行っても入手することが出来なかった。


米がない。


どこに行っても米がない。


米の買い占めがここまでかと、愕然とするほど米がこの世から消えていた。


毎日毎日麺類かパンかレトルト食品、避難場所である中学校で支給される配給も、ほとんどがパンだった。


子供たちはパンが嫌いなわけではないのであまり弊害を感じていなかったようだが、これが毎食となるとさすがに飽きが来て、そろそろご飯が食べたいな、ということになるのだが、どこに行っても米がない。


頼れる身内もいないし、携帯電話もつながらない。食料もいつまで入手していけるのかも分からない。商品自体の入荷がままならないという情報もあったので、早急な米の入手は必要不可欠に思えた。とりあえず米さえあればおかずがなくともおなかを満たすことが出来るだろう。


スーパーなどの店舗で売り物とされているお米は無い、お米を恵んでくれる身内もいない、頼れる友人もいない。


僕は近所の小売店、例えばお肉屋とか豆腐屋とか、決して顔見知りとかではないお店にも足を運び、なんとかお米を分けてくれないか、と頼み込んでみた。事情を話し、ほんの少しでもいいから分けてくださいと頭を下げて回った。何軒も何軒も回ってみたけど、僕にお米を分けてくれたお店は一軒もなかった。どこに行っても同じ答え「わたしたちにも家族がいますし、他人様に分けるほどのお米は持ち合わせておりません」と。


それはそうだ・・・それだけの緊急事態なんだし、これはこれで仕方がない。世の中映画やドラマのようにはいかない。


それは百も承知で頭を下げているのだけれど、現実は甘くない。


お米屋でもないのに、この緊急時に見ず知らずの他人に米を分けるほど、みんなお人よしではないのだろう。


この世から米という米が消えてなくなったのかと思うほどに、米が手に入らなかった。


そんな時、死んだ母の友人が分けてくれたもち米が、僕たちを助けてくれた。もち米があまり好きではない下の子は、白米ではないことにがっかりしていたけど、腹が減って何も食べるものがないことを思えば、これほどありがたいことはない。


分けていただいたもち米を少しづつ食べながら、なんとか生きながらえていた。




スーパーやドラッグストア、コンビニなどの店舗に米が普通に積まれている光景を見た時に、「ああ、大震災は終わったんだな」と思ったものだ。




お風呂に関しては、水も無ければ電気もない。水浴びで済ませるほど暖かい季節ではなかったし、どうにもならなかった。


何故か自宅にあった簡易おしぼりを使って、1日1回体を拭く。よくファミレスとかにある、あれである。子供たちも僕も、毎日風呂に入れないことには本当に往生した。


3人で暇を見つけては銭湯に行くことが、唯一の共通の趣味と言っても良いほどのお風呂好きだった僕たちは、風呂に入れぬストレスを紛らわすことが出来なくなっていた。


満足にご飯も食べられず、これといった娯楽もない。日の大半をただ時間が過ぎるためにひたすら我慢することが仕事のような生活の中で、お風呂に入れないというさらなる不都合は、僕たちをさらにイライラさせた。


そんな僕たちに、ある日朗報が入ったのは震災から2,3日たったころだった。


毎日のように避難場所である中学校に通い、それなりに情報を交換していたのだが、子供たちがにわかには信じがたい情報を持ち帰ってきたのだ。


「最近近所にできたスポーツジムで、明日お風呂に入らせてくれるらしい」


詳しいことはよくわからなかったけど、子供たちが持ち帰った情報によると明日の朝9時から整理券を配るらしいというのである。


こうなったら、その情報の真偽は不確かだったが行くしかない。万が一本当に風呂に入れるのだとしたら、これほどうれしいことは無い。


スポーツジムとお風呂が僕の中で決して合致していなかったけど、余計なことは考えるものではない。希望があればそれにすがればよいだけで、それが震災で学んだここ数日の生き方だった。


9時から整理券を配るということは、その2時間ほど前から並ばなければなるまい。すっかり板についた震災生活の賜物で、この程度の読みもできるようになっていた。


「俺が先に行って並んでるから、用意してあとから来るんだぞ」


と子供たちに言い残し、僕は一人朝7時に家を出た。


近所のスポーツジムというのは、1カ月前に突如現れたスポーツジムのことで、歩いて3分程度のところにありながらその中に入ったことは未だない。


良く晴れたいい天気の朝で、猛烈な花粉症に悩まされていた僕は、とても数時間外で並んでいられないだろうと思うほど、すでに呼吸困難に陥っていた。よりによって例年の数倍の飛散量だという花粉のせいで鼻水は遠慮なしに垂れてくるし、目はかゆくて仕方がない、のどもイガイガするし、耳の奥がかゆくて気が狂いそうだ。


「くそったれ、死んでたまるか、俺は風呂に入るんだ」


とにかく、何でもいいから早くお風呂に入りたかった。


スポーツジムは、2つの建物が並んで建てられていて、そのうちの一つの建物はどうやら室内プールのようだった。


100台以上は収容できるであろう大きな駐車場があり、ジム側の正面玄関をゴールとする長い列が、広い駐車場を蛇行するように延びていて、すでに100人程度の人が並んでいるものと思われた。まあ、この程度は許容範囲だろう。


その列の最後尾につけて持っていたタオルで口と鼻を抑え、なんとか花粉の侵入を阻止しようと考えた。


震災の影響で相変わらず薬を購入できない。ひたすら我慢するしか方法はなかったけど、大量の花粉にやられて、気が狂いそうだった。


本当にお風呂に入れるのかどうなのか半信半疑ではあったが、これだけの人が並んでいるということは、どうやらガセネタではないようだ。


「これって、お風呂に入れるとかいう行列ですかね・・」


前に並んでいた男の人に尋ねる。


「そうみたいですけど、整理券を配るらしいですよ、その行列だと思います」


なるほど、これはあくまでも整理券をもらうための行列であり、お風呂に入れるとしてもまだまだ果てしない道のりが待ち受けているかもしれない。


今日中にお風呂に入れるのか、お金はとられるのか、分からないことだらけだったけど、時間いっぱいの人気相撲取りの塩のごとく吹き荒れる花粉と闘いながら、並ぶこと3時間、ようやくジム正面の入り口に到達したのだった。



途中から合流した子供たちとともに、いよいよお風呂に入れるのかと胸躍らせていた。


ジム正面入り口では、情報通り整理券が配られているようで、ジムの職員と思われる人たちが数名手分けしてこ、白い紙に数字の書かれたものを渡している。僕たち3人もその数字が書かれた紙を受け取った。


説明を聞く限りこのようないシステムらしい。


そもそもここのスポーツジムは、ジム終わりの人のためにお風呂を完備しているということで、そこのお風呂に入るため1組20名ずつ振り分けたグループを作り、順番で入っていくというのだ。1組がお風呂に入っていられる時間が約10分。ピストン式に10分交代で20名一組のグループがお風呂に入る。


20名1組でお風呂に入って着替えて出てくるまでに20分かかる計算で、整理券を配り、大体どのくらいの時間に自分の順番がやってくるのかを教えてもらい、その指定の時間になったらまたこのジムに戻ってきて、今度はお風呂に入るための列に加わり、順番でお風呂に入っていくというシステムなのだった。


料金は無料、ありがたい。


僕の住む街は比較的井戸水のところが多く、そのスポーツジムも井戸水を使っているということで、震災で断水になっていても、水の確保ができているということだった。


そこら辺の住民はその恩恵にあやかって、数日ぶりにこうしてお風呂に入れることになったわけである。


重度の花粉症にもめげず3時間並んでもらった整理券には、14時集合と書かかれていた。


僕たちはいったん自宅に戻り、はやる気持ちを抑えてお風呂の用意を整えてから、14時少し前に再びスポーツジムへと向かった。


数日ぶりに入るお風呂への執着と憧れと歓喜が入り乱れて、取り乱すほどに気分が高揚して待ちきれなかった。


整理券を入り口で見せると、ジムの中の受付で20名程度のグループに分けらた。


そこからまた列をなしてぞろぞろと中を進みお風呂まで向かうのだが、ここからまた2時間程度の時間を要し、ようやくお風呂へとたどり着くのだった。


スポーツジムの大浴場は、多きな湯船がありシャワーも完備、ありがたいことにシャンプーやリンス、ボディーソープも備え付けで、子供たちと3人でわずか10分ではあったが久しぶりのお風呂を満喫した。


子供達と一緒に、子供のようにはしゃいでお風呂に入った。


子供たちの顔が生き生きとしていて、久しぶりに味わう幸せな気分。


このお風呂無料サービスはそれからも定期的に行われ、震災中で断水であった10日間の間に3回ほどお風呂に入れてもらうことができた。


これには本当に助かった。お風呂に入れないストレスは筆舌に尽くしがたい。食べるものも無い、花粉もひどい、やることも無いなかで、これはまさに天の恵みだ。


こうして食料や飲料水、果てはお風呂まで、震災ですべてのものがなくなってしまったけど、慣れというのは恐ろしい。


4、5日もすれはすっかり慣れて、どうにかこうにかしのいでいたのだった。


震災直後から続く余震に対しても、揺れに対する免疫がついたのか一切気にならなくなった。


それどころか、体に伝わる揺れの初動のインパクトで、その揺れが大きいものへと繋がっていくのか、小さいままなのかまで判別できるようになっており、余震に対して身構えるなんてこともなくなった。


人間、どんな状況でも慣れるという習性があるものだと、僕は学んだ。


ガソリンに関しては、震災から3日ほどたったころから、ちらほらとスタンドが営業をし始めて、最初はやはりものすごい大行列だったのだが、その列も次第に短くなってきたある日、念願のガソリンを補給することに成功していた。


ガソリンの在庫が限られていたし、主要幹線道路の寸断により交通網が麻痺した結果、ガソリンはあるのに被災地に運べないという事態とかにもなっていたりして、1人10リットル制限での販売だった。


電気が来ていなかったので給油する際は販売員の方が手動で給油機内部のハンドルを回しガソリンを給油してくれていた。非常用のハンドルなのだろう。


やっとの思いで手に入れた10リットルのガソリンで、その後も神社に水くみに出かけられる状況が整い飲料水の確保にも困らなかった。


こうして、僕たちの住む街に電気が復旧したのが震災から5日後、水道に関しては10日間復旧までに時間を要したのだった。


先ほどのスポーツジムもそうだったように、このあたり一帯は井戸水を使っている家がまだまだ多く、その他の地域に比べれば水道復旧の優先順位が低かったという判断らしく、だいぶ遅くになってからの復旧となったようだ。


電気が復旧した日、久しぶりにつけたテレビで今回の大震災で起こった津波の様子が映し出されていた。それは、自分が体験したにもかかわらず、映像で見る初めての大震災の光景で、目を疑うほどに信じがたい映像が映し出されていた。


押し寄せる波にいとも簡単に飲み込まれる砂城のごとく、家や車がなすすべもなく流されていく様は、この世のものとは思えなかった。生まれて初めて見る津波というものは、頭で考えていたそれとはまるで違っていた。


「なんなんだ、これは」


東北の方では、大げさではなく街一つが消え失せ、何もかもがこの震災によって根こそぎ奪われていた。死者もたくさんでたらしい。


僕が体感した震災でさえも、それはそれは尋常ではないほどの破壊力だったけど、まだこうして家もあり電気も来るようになったということは「これでもまだマシだったんだな」と、つくづく思い知らされたのだった。


僕が体験した茨城県の震災でもマシなのだから、東北の人たちの苦労は察して余りあるもので、いたたまれない気持ちでテレビの画面を食い入るように見続けていた。こんなことが現実に起こるのかという半信半疑が、実際に体験した者にでもあるのだから、すごい地震だったというほかない。


家もある、家族もいる、街もある。


まだまだこれからだと、やらねばならないことがまだまだたくさんあると、そして生きるために頑張らねばならないと、心から思った。


僕たちは生かされてここに立っている。そして、間違いなくツイている。


そう考えることにした。


生きるということと、生かされているということ。


この東日本大震災を生き延びた経験は、僕に一つの覚悟をくれた。


未曽有の大震災を無事乗り越えたからといって、僕たちにまもなくハッピーエンドが訪れるわけではない。本当の意味でいろいろと乗り越えなければならなのは実はここからであり、この何もかも失った状況から生活を立て直さねばならなかった。


ただでさえ、にっちもさっちもいかない父子家庭生活。本当に乗り越えなければならないのはここからなのだろう。


先月分の給料という名の全財産8万円は、震災中の生活費であっという間に消え失せた。


支払いの全てを後回しにしたまま、この命と引換えに全財産を失っただけでなく、ここから本当の生活苦が始まるのかと思うと、気が滅入ってくる。


もしかしたら、ほんの少し死ぬのが遅くなっただけという考え方も出来なくはなかったが、これだけの震災を命からがら乗り越えたのだから、全財産の8万円は有意義に使われたということでなければ、とてもじゃないけど浮かばれない。


大変なのは今に始まったことではない、ここからまたスタートなんだと、肝に銘じた。子供たちを、一人前になるまで必ず育ててやる、そう心に誓ったのだった。


とは言う物の、先立つものがなければ話は始まらないし、かっこいいセリフやご立派な考え方では、お腹は満たされない。

とりあえず金を稼がなければいけない、金を稼ぎたくても震災により以前働いていたショッピングモールは営業停止状態に陥っていて復旧のめどは無く、求人をかけている企業もまだそれほど多く無かったし、電車が相変わらず不通であったため、隣町の県庁所在地水戸市まで仕事を探す範囲を広げることが出来なかった。

仕事をしたくても仕事がない。毎日毎日求人のフリーペーパーや新聞の折り込み、インターネットサイトなどをくまなく眺めながら、これというところは手当たり次第電話をかけしらみつぶしにあたったのだが、どこも採用には至らなかった。

ただでさえ不景気で誰もが仕事を探しているうえに、この震災で多くの人が再び職探しをしている。そんな中で僕のような父子家庭の中年オヤジをわざわざ雇おうというところは、やはりあまり多くはないということだ。

仕方がないので、以前働いていたショッピングモール内の震災後の後片付けの日雇いに何度か足を運び、日銭を稼いだりしていた。

ショッピングモールは見るも無残な状態で、天井は抜け落ち、壁ははがれ、窓ガラスは割れ、いたるところががれきで埋め尽くされ、まさに廃墟と化し荒れはてていた。震災直前に立ち寄った2階の本屋は、床に本という本が散乱し、スプリンクラーの水によってぶよぶよになったまま放置されていた。

逃げずにここにとどまっていたら、この本のようになっていたのかと思うと、身の毛もよだつのだった。

仕事場であるフードコートは、棚が崩れ落ち、厨房内に割れた皿や調理器具が散らばり、冷蔵庫、冷凍庫の類が機能していなかったせいで、中のものが腐り異様な腐敗臭に満ちていた。その一つ一つを片付け、2階の駐車場スペースまで運ぶ。残骸を整理し、まだ使えるもの、食べられるものなどは室内にひとまとめにされ、その時日雇いでバイトに来た元従業員たちに無償でふるまわれた。

そこで僕はとうとう念願の米を手に入れるに至ったのである。米や調味料類、レトルトの食材、ペットボトルの飲み物、マスクやアルコール消毒に至るまで、とにかく使えそうなものはすべて分配され根こそぎ持ち帰ったのだった。

この日雇いのバイトは時給1000円で昼食、飲み物付き。その日のうちの現金支給だったのでありがたかった。バイト中に支給されたお昼ご飯のお弁当と飲みものには手を付けず、家に持ち帰り子供たちに食べさせた。震災から3週間程度が過ぎようとしていたが、まだまだ十分に食料を確保できるような環境にはなく、何よりもそれらを買い求めるお金がなかった。貴重な食料と飲料を僕が口にするわけにはいかない。

日雇いの後片付けと、片づけれらたものの持ち帰りで、何とか子供たちの食事だけは賄っていたのだが、当時の食費は1日200円。それを捻出するだけでひと苦労だった。

それでも後片付けの仕事もそうそうはない。3回も行ったら大方の片付けも終わり、その場で正式に全員解雇の旨を告げられ、数か月後のリニューアルオープンに向けて建物は一時閉鎖された。

その後ショッピングモールは無事リニューアルオープンされたものの、それに伴いフードコートのテコ入れもあり、リニューアル後はすっかり様変わりして、大手チェーンの飲食店の看板が並んでいた。

リニューアルに伴う新規アルバイト募集では、前従業員を優先的に採用すると言ってくれていたのだが、とてもそこまで仕事をせずに暮らしていくことが不可能だった。僕にはどうしても早急に仕事を探さねばならない理由があったため、その申し出には応じられなかったし、そこまでしてまたここに戻ってくる意味も良くわからなかった。

新たな環境で先に進みたいと思った。いや、本当は進んでいるのか戻っているのか分からないのだけど、それが先に進む唯一の方法のような気がしていた。

慢性的な金欠はいよいよ拍車がかかり、光熱費の支払いも数カ月滞ったままで、とりあえず何でもいいから仕事をしなければ、震災を乗り越えたにもかかわらず、すでに餓死寸前だった。

毎日の食費ももちろんそうなのだが、電気代、水道代、その他もろもろの支払いも1カ月分でも捻出しなければ、いくら震災直後での情状酌量があるにしても、止められるのは時間の問題のように思われた。

とにかく片っ端から求人を募集している主な飲食店に電話をかけまくり、面接面接の毎日。そのほとんどが採用見送りであった中、捨てる神あれば拾う神あり、某有名うどんチェーンが僕を採用してくれる運びとなったのは、4月になったある日のことだった。


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