【第25話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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【第25話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
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そのうどん店は、自宅から車で15分程度の場所にあり、仕事が忙しいので有名な繁盛店らしい。


そこも震災で大きな被害を出したらしいのだが、復旧が早く店舗営業を再開し、慢性人手不足だったため求人を募集していたということだった。


あまりにも忙しく、かつ人手不足、よほどのことがない限り不採用にはならないような条件で、僕は父子家庭やらなんやら、ある程度のネガティブな情報も入れつつだったのだが、無事採用ということになった。


店長は僕よりも10歳も若い男性で、いかにもチェーン店の店長といった感じのはきはきとした青年だった。10歳も若い青年に頭を下げるなど、もはや何の抵抗もない。


彼曰く、採用の理由としてまず第一に男であるということ。職業柄、そして、僕が働きたいと言っている9時から15時はパートのおばちゃんがほとんどで、男性のアルバイト応募はなかったとのこと。しかも30代という年齢も、この業種では待っていてもなかなか来ていただけないらしいのだ。


第二に、休みはいらないのでとにかくシフトに入れてほしいという積極性が、人手不足の繁盛店を任されている若い店長にはおあつらえ向きの人材だったということだ。


父子家庭という生き方にはあまりピンと来ていなかったようだが、僕の働きたい時間帯と日数と店舗側の思惑が一致したらしく、早速週明けの月曜日から仕事に来るようにと言われたのだった。


時給は780円。9時から15時で週5のシフトは確約してくれた。


早速月曜日の指定された時間に事務所に出向き、ささやかな入社式のようなオリエンテーションのようなものが行われ、従業員の心得とか、会社の生い立ち、規模、考え方といったもののレクチャーがあり、数枚の紙にサインをさせられ、もろもろ提出しなければいけない書類を提出したりした。


その中で、交通費の申請という書類があり、僕は当初から車での通勤を希望していたので車のガソリン代を交通費として申請しようとしたのだが、ここで大きな問題があった。それは、交通費を申請するにあたり任意の自動車保険の被保険者証のコピーを提出するよう言われたのだが、僕はこの時任意の自動車保険に加入していなかった。


震災のバタバタでちょうど切れてしまったタイミングであったし、新たに保険料を支払って契約するだけの財力がもはや残ってはいなかったため、あえなく失効という憂き目にあっていたのだ。


それでも車検が切れているわけではなかったので、無保険状態で車に乗っていたのだが、被保険者証のコピーがなければマイカー通勤は認められないし、交通費も支払われないとのことだった。


はじめはしらばっくれてなんとかごまかして交通費をいただこうと目論んでいたのだが、そんなことが出来るはずもなく、あえなく通勤難民になってしまった。


新たに獲得した仕事場は、車で15分。自宅からは決して近いと言える距離でもなかったのだが、マイカー通勤が出来ないのであれば仕方がない。それに何より、万が一のことを考えたら車に乗るのも危ないには違いない。


当初は車でしか通勤できないと思い込んでいたが、待てよ、車に乗らなくても時間をかければ自転車でもいいんじゃないのか、と思ってきたりもするのだった。今更、車に乗って仕事に行くことが出来ないという状況を悲観して考え込むほど生活に余裕は無かったし、くよくよするくらいなら、先に進むためにはどうしたらよいかを考えた方がいい。


これだけ苦労してありついた仕事だ、これしきの事で職を失い、いつ見つかるとも限らない求職活動の生活に戻るなんて、まっぴらごめんだった。


仕方がないのであっさり車に乗ることは諦め、自転車で通勤することに決め、店長にその旨を伝えた。


自転車で約40分。できないことは無かったし、ここのところよく聞く、これもエコというやつに違いないと、前向きに考えることにした。なんだってやればできるはずだ。


父子家庭になり5年ほどの月日が流れ、生きるか死ぬかの大震災を乗り越えた僕にとって、生活のレベルを下げたり、さらなる不都合を受け入れたり、予想外の事態に直面したりしても、それはそれで考え方ひとつと思えるようになっていた。


今置かれている状況を受け入れるしか僕たちに明日はない。


車に乗れないのであれば、乗らないという環境を受け入れたうえで、なおかつそこでどうやったらベストを尽くすことが出来るのかを考えればよいだけだ。こうなったら、生きていくために恥も外聞もプライドもない。今日1日無事に乗り越えて、子供たちにご飯を食べさせる。


それさえできたら、十分だ。


僕と同日に入社した人が他に2人いたけど、3日もたたないうちに辞めてしまった。


仕事は目が回るほどの忙しさで、覚えなければいけない物の量が半端ではなかった。なるほどこれで絶えず人を募集しなければならない理由が分かった。


9時から15時までが僕のシフトで、その間はトイレに行く暇もないほどだった。慣れるまでは、ふと気が付いて時計を見ると14時なんてことがよくあった。


でも、僕がこのバイトを辞めなかったのにはもう一つ理由があった。それは、仕事終わりに食事をとることが出来るのだが、うどんや天ぷら、ご飯など、組み合わせ自由で600円までなら90円で食して良いということになっていたからだ。


もともと安価な値段設定の店であったため、600円分といえばなかなかのボリュームで、なおかつ自分で食べるものは自分で作ることになっていたので、適当にご飯やうどんの量をごまかして大盛りにして食べた。90円で1日1食、とにかく仕事が終われば腹いっぱいご飯が食べられるというそのテンションだけで、新しい人が入ってきてもすぐに辞めてしまうここのバイトを続けていた。


1日1回でも、お腹がいっぱいになるということはありがたかった。毎食の90円は給料天引きだったので、お金がなくても食べることはできたし、シフトにもコンスタントに入れてもらえていたので、たとえバイト終わりに90円分ご飯を食べても、給料も若干ではあるがアップしていたのだった。


ここでのお昼ご飯のおかげで、僕は朝ごはんも晩ごはんも食べずに生活することに、それほど苦痛を感じなくなっていた。


震災が終わり新たな生活が始まったのだと思った。


朝起きて子供たちにご飯を食べさせて身支度を済ませ、学校に行くのを見送りつつ洗濯やら掃除やらを片付けていく。子供たちが学校に行くのが7時40分ごろで、僕が出かける8時までの間にどこまでできるかが勝負だった。仕事が終わっても家の仕事が残っていると、憂鬱で仕方がない。


適当に身支度を整えて、朝ご飯は食べずに8時になったら自転車に乗って家を出る。それは毎日毎日目まぐるしいほどの朝だった。朝起きてから仕事に出かけるまで1度たりとも座ることは無い。


毎日の自転車通勤もなかなかの運動で、日ごろ運動不足の体にはだいぶきつかったかし、ペース配分を考えないととても一人で家事と育児をこなし仕事をするのは体力的にかなりきつい。楽できるところは楽をしなければ身が持たないので、仕事場までの一番の近道を探しながら自転車に乗った。


常磐線の線路沿いを北に向かうのが一番の近道ルートで、毎日毎日自転車を漕いだ。こんなに毎日自転車に乗るのは高校生以来だった。


雨の日も風の日も、晴れの日も雪の日も嵐の日も、毎日毎日自転車を漕いだ。


自転車を新調するだけの経済的余裕はなく、自宅に置いてあったおんぼろ自転車を何となく修理して乗らざるを得なかったため、途中よくパンクした。砂利道を通っていたからか、毎日の事なのでタイヤの劣化が早かったのかは知らないが、自転車のパンクはきつかった。帰りならまだいい、ゆっくり歩いて帰ればそれでよかったのだが、行く途中にパンクとなると、自転車を捨てていくわけにもいかないので、自転車を押しながら小走りで仕事場に向かう。自転車で40分かかるのだから、自転車を押しての小走りではどのくらいかかるかわからない。パンクした自転車を押して歩くだけでも、かなりの重労働なのだ。


天気が良い日ならそれでも何とか対応できるのだが、雨でも降っていようものなら、今から仕事をするのかと、ずぶ濡れになりながらの足取りは重かった。


そんな時は惨めだった。いい年したおっさんが朝っぱらから雨に濡れながらパンクした自転車を押している。雨の日に自転車に乗るためのカッパのようなものがあればまだしもなのだが、そんなものはとても買えない。自分の普段着る洋服でさえ、もう何年も買っていないというのに。


一体何をしているんだ、こんなことをしていて何になるんだと、ご飯も食べず自分のやりたいことも出来ない、毎日お金の心配をしながら不安で押しつぶされそうになる。それでも、雨に打たれながら歯を食いしばらなければならない自分の運命に、僕は本当に、日に何度も絶望した。


こんな生活から抜け出さなければいけなかったけど、その手立ては一向に見つからなかった。


歯を食いしばるたびに「子供たちのためだ」と呪文のようにつぶやいた。


止めたくても逃げたくてもこの生活を続けていかなければいけなかった僕にとって、自転車のパンクという予期せぬ事態すら想定しなければいけなかった。それはもちろん、出勤するにあたりモチベーションが下がるという理由もあったが、それ以上に自転車のパンクは、生活に直結する由々しき事態を生むのであった。


連絡をすれば若干の遅刻はなんとかカバーしてくれるだろうけど、それよりもそのわずかな遅刻で給料をカットされる方を僕は嫌った。


これが時給で働く者の悲しいところで、こんな極貧の生活をしていると、10分でも20分でもその時間が惜しいのだった。くだらないと思うかもしれないが、そうやって小さく小さく積み重ねていかなければ、生活をすることが出来なかった。


お金にして100円か200円程度だろうか、普通の人にとってそれは缶ジュース1本分の、さして気にすることも無いほどの微々たる金額に違いないが、毎日のご飯も食べられない僕にとっては、重大な損失なのだ。300円あれば1日分の食事を子供たちに提供することが出来るのだから。


自転車がパンクすれば直さなければいけない。直すためにはいくらかのお金も出ていくわけで、さらに遅刻分の時給がカットされるとならば、考えただけでも恐ろしいのだ。パンク修理代800円と合わせると1000円の損失、1000円、今の僕にとっては目のくらむほどの大金である。


約40分自転車に乗り、仕事場に着くと白衣に着替え指紋認証式のタイムカードで出勤し、トイレに行く暇のない15時までの激務を乗り越える。


残業は一切なく、15時なったらすぐに退勤しなければいけない。残業せずに退勤しなければならないというのがこの店のルールだった。


労務規定により6時間以上労働する場合、48分の休憩を取らなければならず、15時1分から6分の間に指紋認証して退勤しなければ、仕事が終わったにもかかわらず無駄に48分仕事場で休憩してから帰宅しなければいけなくる上に、労務規定違反として厳しくチェックされるためなかなか面倒なのだ。


だから、仕事が終わっていようと終わってなかろうと15時1分から6分までの間に指紋認証を済ませ、再び現場に戻って残った仕事を終わらせなければいけない。早い話がただ働きなわけで、それをしなくて済むように必死に仕事を覚えて何とか時間内に終わらせなければならなかった。


仕事が終われば遅めの昼食の時間で、600円分のうどんをたらふく食べて帰宅する。


また自転車を漕ぎながら朝と同じ道を通って帰った。


帰り道ですれ違う電車を眺めるのが、仕事終わりの楽しみ。


そうしているうちに家に着くのが16時過ぎごろで、いったん帰宅して子供たちの帰りを家で待ち、無事帰宅して遊びに行く姿を見送ってから近所のスーパーに買い物に出かける。


買い物といってもお金もないので、安売りのものを物色する程度。給料日3日前とかになるともう買い物も出来なくなるので、1日いくらまでと決め、それ以上は使わなかった。


お金があろうとなかろうと、子供たちの食事はどんなことがあっても手作りをした。レトルトやインスタントでまかなうなんてことは極力しない。毎日買い物に出かけ毎日作る。


これが子供たちにしてあげられる唯一の親らしいことだった。


子供たちには何も残してはあげられないだろう、だからせめて、豪華ではないけど毎日ちゃんと作ったご飯を食べさせてあげたかった。


うまくやりくりすれば1日300円程度で子供たち2人の食事を作ることが出来た。朝は質素なものだったけど、なんとか安い食材を探して手作りすれば、それなりのものが作れるのだった。


1日300円というよりも、月に1万程度を食費プラス雑費に充てていたため、その中でやりくりしなければいけない。この1万円で食費もまかなうし、シャンプーや洗剤といったものも購入しなければならない。ここのやりくりを間違うと大変なことになるため、お金の使い方には毎日気を使った。


子供たちは、僕の置かれている状況を知ってか知らずか、給料日前の3日間も文句を言わなかった。給料日3日前くらいになると、所持金はゼロ、買い物もできないため少しづつ食材をストックして冷凍させておいたものを解凍して食べさせることになるのだが、それをもなくなると、素麺、素うどん、そば、といったものになる。おかずは買えないから、それだけで腹にたまるものとなるわけだが、家中の小銭をかき集めて一袋80円のこれら麺類にも手を出せなくなったら、今度はおにぎり、具なしのおにぎりになる。この時点でコメが空っぽならジ・エンドなわけだから、給料日1週間前くらいになると、残金と米櫃の中の米量との真剣勝負となるわけである。


毎月毎月辛うじてその勝負に勝ち、晴れて迎える給料日は、米櫃も残金も冷蔵庫もすっかり空っぽになっていた。


そうして毎月毎月「今月も何とか乗り越えた」と胸をなでおろすのだった。自分のご飯は一切食べずにこの有様なのだから、僕が家で食事を摂るなど、夢のまた夢だった。


給料日には子供たちの食べたがっている大好物を作った。ハンバーグとかコロッケとか焼肉とか。作った食事をおいしそうに食べる子供たちの姿を見ていると、うれしい気分になるのだが、見ているのは切なかった。


この子たちにこれから先何をしてあげられるのだろう、そんなことを考えると胸がつまされるのだ。


食事が終わり洗い物をして、子供たちと散歩に出かける。上の子はそろそろ一緒についてこなくなってきていたけど、下の子は喜んで散歩に出かけてくれた。僕はこの時間が何より楽しくて、下の子を連れて暇さえあれば良く散歩に出かけた。


近所のコンビニに行く程度の時もあれば、自転車に乗り1時間程度サイクリングをして帰ることもある。星を眺めたり川をのぞいてみたり、通り過ぎる電車を眺めたり、かけっこの競争をしたりした。


散歩から戻ると今度はお勉強の時間。宿題やらなんやらを3人でテーブルを囲んで一緒にやるのだ。上の子はまじめに勉強したけど、下の子はさっぱりだった。


僕は子供たちの勉強を見てやり、分からないところは教えてあげた。塾や自分たちがやりたがっている習い事の全てにおいて、通わせてあげることはできなかった。


お金があれば、両親が揃っていれば、子供たちをかわいがってくれる祖父母がいたのなら、優しい親戚がいたのなら、あの子たちの人生は変わっていたのだろうか。


僕たちには、そのすべてがなかった。


僕にできることは、子供たちに毎日ご飯を食べさせ、時間の許す限り子供たちのことを見ていてやることしかなかった。もっともっとやらなければいけないことが山ほどあったはずなのに、毎日本当に疲れていた。


もしかしたら、疲れているということを自分の言い訳にして逃げていただけかもしれないし、お前のやっていることなんて全部間違っていると言われれば、反論するだけの自信も根拠も無い。


お金もなく時間もなく、ただただ毎日疲れ切っていて、何が正しくて何が間違っているのか分からない。やらなければいけないことが次から次へと押し寄せて、子供たちの成長は待ってはくれない。思った通りに事が運ぶことなどない毎日は、ただひたすらに迷うだけの入り組んだ迷路。


どんなに疲れ果てて1日が終わっても、それでもやらなければいけないことは無くならない。


育ち盛りの子供たちは、親の仇のように毎日大量の洗濯物を出してくるし、金曜の夜ともなれば学校から持ち帰った体操服やら給食の白衣やら、上履きやらなんやらでとんでもないことになる。それでなくとも毎日これでもかというほどの洗濯物が出てくるのに、いつまでたっても終わることがない。


洗濯はしないわけにはいかなかったけど、洗剤を買うお金がない。使う洗剤量を半分にするといった節約もしなければいけなかったし、柔軟剤など夢のまた夢である。


「洗濯物がいつもゴワゴワだ」


と、子供たちはぼやいていた。


お風呂に入りながら上靴を洗い、その間に洗濯機も回し、お風呂から出たらご飯の支度をし子供たちに食べさせている間に1回目の洗濯物を干してしまう。


子供たちがご飯を食べ終わったら、食器類を洗ってしまわなければいけない、その間に2回目の洗濯物を回し子供たちに宿題を済ませるよう指示をして、取り込んだ洗濯物をたたんでしまう。洗濯機が回っている間に子供たちの勉強をみてやり、その間に2回目の洗濯物が終わるのでまた干す。


要は、こんなことをしている間にたまに散歩になど出かけているわけで、代わりのいない生活である以上、どんどん仕事は夜にずれ込んでいく。それでも僕は子供たちとゆっくり話ができる時間を作りたかった。


仕事から帰ってきても家の中で座るということが出来ない。冗談みたいな話だが、やることが次から次へとやってきて一向に終わらないのだ。




金曜の夜になると、倍量の洗濯物が容赦なく出されるわけで、時間的にも干すスペース的にも限界があるから、次の日に持ち越しとなる。


実家に置いてあった両親の残してくれた洗濯機は、随分年代物の一人暮らし用の小さな洗濯機。


洗濯機があるだけありがたい。文句を言っても新しい洗濯機を購入するだけの甲斐性はない。


学校関係の洗濯は土日の間にやってしまわなければならないのだが、仕事は休めないし、天気でも悪かろうものなら、夜のうちに前日の洗濯物をコインランドリーに入れて乾燥させ家に戻るという、ひと手間まで加わってくるのだからたまったものではない。


飲食店勤務のアルバイト店員でる僕は、基本土日祝日を休むことが出来なかったため、金曜の夜から日曜の夜にかけては、家事と仕事でてんてこ舞いだった。


ただひたすらに週末雨が降らないよう祈っているのだが、梅雨の時期はやはり僕の願いは通じなかった。


やってもやっても終わらない。次から次へと仕事が山積みされていき、とても一人では手が回らない。多少の息抜きも必要だし、寝る時間だってある。1日の時間は限られていて、それでも子供たちはどんどん大きくなる。関わってあげなければいけない部分も増えてくるのだったが、いかんせん時間がない。


食べる量も増えてきたし、子供たちが成長してきたことでお金もかかるようになった。


だからと言って家事や育児を放棄して仕事に専念することも出来ず、働ける時間は限られている。アルバイトで生計を立てるということは、働ける時間は目いっぱい仕事に使わなければいけなかったし、休むことが出来ない。


多少体調が悪い程度でも仕事を休むなんてことはできない。僕の収入がなくなれば、子供たちは生きていくことさえ出来なくなるのだから。


好きでこんな暮らしをしているわけではない。他に生きていく方法が思いつかないだけだ。


それでも、週のうち1回か2回は仕事が休みの日がある。


その日は朝から家の仕事を片付けなければいけない。とにかく毎日家事に関しての仕事は少しづつ次の日にずれ込んでいくわけだから、どこかでそのすべてを清算しなければ立ち行かなくなるわけなので、その家事在庫一掃セールを自分の仕事の休日に充てなければならなくなるのだ。


子供たちにとって母親がいないということが、彼らの人生において負担にならぬよう、男が育てているからとか、父親しかいないからとか、そういう言い訳はしないように自分自身に言い聞かせて、そして課していた。


男だから仕方がない、母親がいないからできない、そんなことは言わないようにしたかったし、子供たちにもそう思ってほしくはなかった。だから、僕は毎日の家事をほぼ完ぺきにこなしていたと思う。


自分の仕事が休みの日は、朝起きてご飯を作り子供たちに食べさせて学校に見送るのまでは毎日のことだが、そこから洗濯機を回しつつ掃除をし、家中の床の雑巾がけをする。2階に上がり子供たちの布団を干して、上の子が中学校に着ていくワイシャツのアイロンがけ。トイレ掃除、お風呂掃除をし、水回りもピカピカにした。


在庫として塩漬けされた洗濯物が風呂場の脱衣所に山積みになっているわけだから、休日はそれを片付ける絶好の機会ということになる。午前中だけで4回洗濯機を回し、お昼までにすべて干さなければいけなかった。


わが家の庭の物干し竿は、あまりの重量のため、ぐるぐる回る体操選手の鉄棒のようにいつもしなっていた。


午後になったら買い物に出かける。スーパーまで自転車で行き食材を調達するのだが、食材選びとして考えなければいけないことは、安いもので量が取れるということと、同じ食材で何品も違う料理が作れるもので、かつ保存がきき冷凍に耐えうる食材というのがお金を払う基準。無駄使いは出来ない、ここは真剣に考えなければいけない。


後は元プロの料理人の腕とアイデアで何とかするしかない。お金をかけずにボリュームを出し、同じ食材で味や見た目を変えつつ保存食として日持ちもさせる。


これはもう、そんじょそこらの奥様には真似できない芸当であったと自負している。


仕事の日は何かと忙しいし疲れているので、なるべく食事に手間をかけたくはなかった。休みの日にできる限りのおかずを作りだめし、次の休みの日までそれらをちょこちょこ食いつないでいく。


夕方になったら子供たちが学校から帰ってくるから、そこからはまた同じことの繰り返し。休んでいる暇などなかったし、自分の時間などまったくない。


何とかしなければいけないという思いは、いつも頭から離れなかった。これらすべてを一人でこなすには、あまりにも無理があった。




そしてこのころ、こんな僕たちに、さらに追い打ちをかけるようにさらなる試練が訪れるのだった。


車で仕事に行くのに被保険者証が必要だったためマイカー通勤を断念したのだが、その理由は大震災によって所持金がゼロになり、なおかつ支払いをスライドさせるという自転車操業に陥ったためで、車の保険料を支払うことが出来なくなったというのが大きな理由の一つではあったのだが、マイカー通勤にこだわらなかった、いや、こだわれなかったもう一つの側面として、車検の満了が近かったということがあった。


どう考えても車検など通せるはずもない。


安く見積もっても10万から15万程度のお金はかかるだろうし、そんなお金はどこ探しても出てこない。唯一所持していた1枚のクレジットカードで支払ったり、ローンを組んで分割で、といった方法も考え方としては無きにしも非ずだったのだが、仮にその選択をして車を存続させたとしても、いずれ借金は返せなくなるのは目に見えているわけで、そんな危険な賭けに打って出るなんて冒険を、出来るはずがない。


大金をはたいて車を所持して生産性をあげるのか、いっそ手放すかを天秤にかけた時、今の自分には大金をはたいて所持する車に見合う生産性はあげられないだろうと、考えた結果だった。


平成23年の6月には車検の満了日を迎えることになっていたため、どうせ手放すしかない車のために保険など入れるかと、そういう理由もあったのだ。


というわけで、平成23年6月をもって、わが家から正式に車がなくなったのであった。


しかたない、いつものように受け入れるしかない。受け入れたうえでベストを尽くす。相変わらず、これで行くしかないのだから。


車を失うという出来事は、僕たち家族にとって痛打であっても想定の範囲内だったわけだが、平成23年にもう一つ予期せぬ出来事で僕たちは大切なものを失うことになる。


それは、テレビ。


地デジ化という名のもと、アナログ放送が終わるという話はちらほらと聞こえては来ていたが、先の大震災でこっちはそれどころではない。テレビのコマーシャルでは楽しそうに地デジ地デジ言っていたけど、いやいや、ついこの前大震災でこっちは生活立ち行かなくなってるのに、地デジ化で間もなくテレビが見れなくなりますので、お早めにテレビの買い替えをなんて言われても、そんな無茶苦茶な。


僕は本当に疑うことなく、平成23年7月24日の正午まで、地デジ化でテレビが見れなくなるなんて冗談だと信じていた。


大震災で滅茶苦茶になり、仕事を失い、食うや食わずの生活。


大震災では大規模な停電が何日も続き、やっと見られたテレビは僕たちの生きる希望だった。いや、これは決して大げさではない。


世間では地デジチューナーとかデジタルテレビとか液晶だのプラズマだのシャープだのソニーだの言って、地デジ化になれば素晴らしい未来がやって来るみたいな感じだったけどさ。




無理だよ、無理。




「ここで、このタイミングで地デジ化なんてされたら、テレビなくなっちゃうよ」って思ってた。だからそんな殺生なことしないと思ってたけど、地デジ化は予定通り執り行われ、平成23年7月24日正午をもって、わが家から長年連れ添ったテレビがなくなりました。


子供たちと「地デジ化って・・・冗談じゃないんだね・・・」と言って笑うのが精いっぱいだった。


行政に相談すれば、何らかの打開策や支援策が見つかったのかもしれなかったけど、調べることも相談することも出来なかった。



いよいよ普通の精神状態ではいられなくなりつつあった僕が、いまさら行政に頼むなどという選択肢を、文字通り選択することが出来なかったわけで、それは父子家庭になりたての頃の嫌な思い出がちらついたからだった。






「よし、お前ら、今日をもってわが家からテレビがなくなったことは仕方がない、それはもう、受け入れるしかないだろ。無くなったテレビは近いうちに必ずパパが取り戻すから心配するな、だからそれまでしばらく我慢してくれ、すまない」


そう、子供たちに告げてしぶしぶ納得してもらった、というより、子供たちも今までの生活状況や経験を考慮して、ごねても仕方がないと悟っていたかのようだった。


「近いうちに必ずパパが取り戻すからな、その時はなぁ、みんなの家にあるようなでっかくて薄いかっこいいテレビ買ってやるからな」


子供たちに約束した。


そんな生活を笑えない冗談で押し付けられる子供たちは、何を思っただろうか。


飽食の時代と言われ、両親がいて祖父母がいる家がほとんどで、同年代の子供たちはお金に困ることも無く、食べるものに困ることも無く、塾や習い事に通い、今時のかっこいい服を着て高価なゲーム機で遊んでいる。家に帰れば食べきれないほどの食事が並び、テレビを見ながら家族団らんの時間を過ごす。


くそったれが。




自分の置かれた環境で文句を言わずにベストを尽くすって、こんなに大変なことなのだろうか。


僕は何としても薄くてでっかい、かっこいいテレビを子供たちに買ってやりたくて、一念発起で転職することに決めた。


3月11日の大震災から僅か4カ月足らずで、僕たちは全財産と車とテレビを失ったのだった。

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ただただ、尊敬の念を抱きます。もしも当時テレビの世界がタケシさんのことを知ってたら、放っておかなかったのかなぁなんて。余計な事とは思いつつ。

明日の タケシ

10年間の父子家庭生活の思い出を綴った30万文字にも及ぶ記録が殿堂入りという快挙を成し遂げました。 これも一重にSTORYSの関係各位、並びに懲りずに読んでくれた全ての読者の方々のおかげであると、感謝せずにはいられません。 コメント、メッセージ、読んでよかった、お気軽にどうぞ!

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