【第29話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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【第29話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
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平日は駅ビルのハンバーガー屋で、土日祝日は京成の蕎麦屋でバイトという生活も2カ月が過ぎようとしていたころだった。年が明けても平日のハンバーガー屋は相変わらず閑古鳥が鳴いていて、活気の「か」の字も無い状態。

空調で快適温度に設定された店内で、ただぼんやり外を眺める日々。客が来るのはオープンの11時から僕の仕事が終わる18時までで1組か2組。ただのアルバイトでさえこれでいいのかと思うくらいなのだから、経営者がそう思わないわけはない。それは至極当然な成り行きといえばそうなのだが、年が明けた1月の末に、僕はアルバイトの解雇を言い渡された。

15時半になると向かいのクレープ屋のお気に入りの女子高生と会話するのが楽しみの、年下の店長から話があると切り出されこう言われたのだった。

「会社の方針でこの店舗は社員で回すことに決まりましたので、これからは本当に人手が足らないと思われるときにしかバイトのシフトに入れてあげることが出来なくなりました。京成の方は引き続き大丈夫かと・・・」

はっきり解雇と言われたわけではない。シフトに入れませんと言われたのだが、つまりそういうことなのだろうと僕は受け取った。土日祝日だけ働いても仕方がないし、交通費も出ないし駅から遠い京成の蕎麦屋に行く意味も見いだせなかった。

2月からシフトに入れないのでは、仕事をしているということにはならないわけで、収入が途絶えることが今の僕に何を意味するのかは、深く考えずとも答えは出ている。

一難去ってまた一難。

新しいバイト先を見つけて僅か2カ月、またしても僕は仕事を失うこととなった。

震災から1年も経過していないのに、この1年で4回も職を失った。

職を失うことにすっかり免疫のついてしまった僕は、あっさりこの事態を受け入れることが出来たのだが、さしあたっての収入の見込みは相変わらずなく、新しい仕事のあてもない。

車も無ければテレビも無い。そのどちらも購入のめどは立っておらず、生活自体に何か進展があったということも無い。

毎度毎度の繰り返し、いい加減こんな暮らしも疲れてきたけど、今回の解雇での唯一の救いは、来月の10日過ぎには先月分の給料が支払われるということ。

当たり前といえば当たり前なのだが、僕にとってその当たり前の状況すらない状態での転職が続いたせいで、給料の11万円が満額支払われるということだけで、妙に救われたのだった。

こんなことで救われている自分が、みじめで仕方がない。どん底、底辺、これ以上の底があるなら見てみたいものである。

窮地に追い込まれたときに、その状況を打開する有効な方法は、開き直ること。

父子家庭となって生活していく中で、教訓として得た唯一の実績。

もう、どうにでもしてくれ。

もう、どうにでもしてくれと開き直ってみたものの、さてどうする。

震災から約1年、生きるために必死に職を探し、自分に与えられたすべての時間を労働に費やし、家事と育児をこなし、自分の食べる分の食費を削って子供たちにご飯を食べさせ、死に物狂いで歯を食いしばってやってはみたものの、現実は厳しかった。

望むか望まざるかは別にして、職を失うたびに生活は困窮し続け、子供たちの成長を見守ることも出来ず、テレビも買ってやれなかった。またここから先同じパターンで生活を繰り返したら、今度こそいつか破たんする。

この1年で電気も2度止められたし、水道も1度止められた。

ろうそくの灯りしかないリビングで夜を明かし、風呂にも入れず朝ごはんも作ってあげられないまま、子供たちを学校に送り出した。そのたびに有り金をかき集めて何とか支払いをし復旧させるも、有り金をはたいたせいでご飯が食べられなくなる。

吐き気がするほどの、負の連鎖。

一切の無駄使いをせず、切り詰められるところは目いっぱい切り詰めてこの有様。どう考えてもこの生活には無理がある。

あとちょっと、あと少し辛抱すれば楽になるかなと思う矢先でトラブルにあって職を失い、いつまでたっても一向に生活は落ち着かない。

子供たちの成長を見守ったり、手を抜かずに食事を作ったり、洗濯も掃除も一人でこなし、学校行事にも参加し、学校や警察から呼び出されればその都度対応もして、空いた時間で仕事をして目いっぱいの稼ぎで11万円。

全てを一人でこなすことなど、土台無理なのだ。

僕はとうとうそれに気が付いてしまった。

無理だ、どう考えても何をどうしても、無理なものは無理だ。

いくら無理だ無理だと念仏のように唱えても、無理を承知で生きていかなければならないこともまた事実。

では、どうする。

いつもこの感じになるのもほとほと疲れたのだが、止めるという選択肢もない。

何かを犠牲にしなければ、何かを手に入れることはできない。

そのすべてをまんべんなく両立しようと考えていた僕の考え方に、そもそも無理があるのではないだろうか。

それでなくてもどうせ両立などできていない。

子供たちに関わってやれる時間などほとんどなく、仕事が終わり家に帰ってご飯を食べたりするわずかな時間だけしか接点が無くなって、唯一の監視がなくなった子供たちはろくに言うことも聞かず、好き勝手に悪いことをするような方向性になりつつある。

でも待て、とにかくここはいったん子供たちの時間とか、食事とか、育児とか、成長とか、そんなものは忘れて、生活を立て直さねばならないのではないだろうか。

死んでしまったら、成長も方向性もへったくれも無い。

金を稼いで滞っているすべての支払いを済ませて、テレビと車を購入する。震災から続くこの負のスパイラルを断ち切って、新たにリスタートを切れる体制を整えなければいけないはずだ。

では、早急に手に入れなければならない物の優先順位を決めよう。

優先順位の上位のものを手に入れるために、それ以外のものは諦める、そう開き直って考えてみよう。

僕達が今一番手に入れなければならないものは何かを考えてみる。

それはどう考えても、お金だった。

上の子と下の子はちょうど3つ違いだったので、卒業、入学が同時期に来るわけなのだが、これから成長していけば学費やらなんやらでお金がかかるだろう。

支払いもままならず、食うや食わずの生活では、子供たちの進学など夢のまた夢だ。

次に車。

車はやはりなければ不便だと感じた。車が当たり前のようにある生活では気が付かなかったけど、茨城のような田舎で車を持たないという生産性の無さは、もはや日常生活を送れないレベル。

ましてやわずか数十円でさえ切り詰めなければならぬ貧困のどん底にあって、さらに車がないという生活は、不便などという生易しい表現では括れない。仕事を探のに難儀するというのはもちろんなのだが、他にも車を持たぬ不都合としてこんなことがあった。

ある寒い真冬の日、唯一の暖房器具である石油ストーブに入れる灯油がなくなってしまった。

灯油を買いに行きたいのだが、車がない。

近くにガソリンスタンドは数件点在しているのだが、わずか数十円をも切り詰める生活、そこは1円でも安い灯油を購入しなければならない。

灯油の配達もあるのだが、これは通常よりも割高の値段で販売されているため、やむを得ない状況以外では手を出せない。

わが家の近所で最安値の灯油は、車で2分、歩きで10分程度のところにあるセルフのガソリンスタンド。そこまで歩いていかなければいけないのだが、問題は、何を買いに行くために歩くのか、ということ。

薄々お気づきだろうが、灯油は重い。

歩いて10分とはいえ、帰り道は重い灯油を持って歩かねばならない。しかも季節は真冬。

灯油がなくなるたびにこれを繰り返すのだが、これがしんどい。

重い灯油を持っての帰り道、歩いて10分の距離はなんだかんだで40分かかる。しかも交通量の多い道路脇を歩かねばならず、通り過ぎる車の窓からは、ほぼ全員「何してんだ、あいつ」といった目で見られる。

車を所持していないということの方が珍しいこの界隈で、わざわざ真冬に重い灯油のポリタンクを持って歩いているなど、とても正気の沙汰ではない。

結局重いので満タンの18リットルは持ち帰ることが出来ず、半分の10リットルにするからすぐに灯油の枯渇へとつながり、また寒空の中ポリタンクを抱えて歩くという無駄の無限ループ。

これを冬中繰り返すわけだが、ただでさえ忙しいのに灯油を買うだけに1時間もかける。

事前に灯油がないことを察知して暇を見つけて早めに購入していればよいのだが、そこはいかんせん貧乏人。ストックすることなどできず、いつも空になってから購入するために、夜も遅い時間になってから気が付くとなると、ガソリンスタンドが閉まっている以上、その日は寒さに震えることになる。次の日の仕事が終わってからの19時過ぎにポリタンクを持って歩き始め、灯油を購入した。

それでも、暖房器具の灯油ならまだいい、我慢すれば何とかはなる。寒いだけだ。

もっと困るのは、風呂の灯油だった。

古い家のため、風呂の燃料が灯油であったこともあり、風呂の灯油が切れてしまうとお風呂に入ることが出来ない。

お風呂の灯油が切れてしまっているかどうかは、ほぼ入浴中にしか気が付くことが出来ず、シャワーを出して数分後に灯油がないことが発覚しお湯が出なくなってみようものなら、そこから風呂場を出て一旦体を拭いて着替えて、真冬の寒空の中ポリタンクを持って歩くことになる。

仕事から疲れて帰宅し、経済的理由から湯船に浸かることが出来ない生活で、真冬にシャワーを浴びていたら突然お湯が切れて水が出てきたときのあの感じ。

拷問としか言いようがない。

まさか子供たちに風呂に入るなと言うわけにもいかずに灯油を買いに行くわけだが、灯油を買いに行かなければならない1時間はもはや誰も風呂に入ることが出来ず、ご飯の支度も出来ず、洗濯も出来ない。

とにかく、すべての仕事を一人でやらねばならないのだから、不測の事態が起こるとすべての仕事がストップし、先に進まなくなる。

これがしんどい。

そんな状況下の真冬の寒空、濡れた髪もそこそこに灯油のポリタンクを持って1時間歩かなければいけないのだから、まともな人間のすることではない。

その間のスライドされた雑務は容赦なく山積みとなり、ますます自分を追い詰めていく。

泣こうが文句を言おうが誰も助けてはくれない。情けなくて悔しくて気が狂いそうになるのだけれど、歩かなければ風呂にも入れない。

当たり前のことが当たり前のようにできない生活は、人間としての尊厳すらいとも簡単に奪い去る。

車は必要だ、間違いない。どんなぼろ車でもいい、走れば車として認めよう。

車の無い生活など、これ以上考えられない。

それと、テレビか。

これは必要とか不必要とかではない。地デジ化という名の元、お上に取り上げられたテレビを取り戻さねば子供たちにも申し訳が立たないし、薄くてかっこいい今時のテレビを必ず買ってやると子供たちに約束したのだから。これは親としての最低限の責任であり、意地だ。

よし、ではそれ以外の全てのものはしばらくの間目をつぶろうではないか。

どの判断が正しくて、どの判断に従えば正しい道に進めるのかなど、全く分からない。

どんな時も一人で判断し、一人で決める。誰かに相談することも出来ず、すべて自分で責任を負う。

それしか前に進む方法を与えられていない僕にとって、いつも決断することは苦痛だった。

自信がないのだ。

決めなければならないことが多すぎる上に、その決断は自分以外の人生にも大きな影響を与えてしまう。

実はこのころの僕は、前に進むことが怖くなっていた。

怖くなっていたけど、立ち止まることも許されてはいないから仕方なく前に進んでいる。決断をして道を切り開くと言えば聞こえはいいのだが、実際は惰性で前に進まされているだけに過ぎなかった。

惰性で前に進まされているだけの僕に、迫られる決断の数が多いのだから始末が悪い。熟慮に熟慮を重ねて決断することもあれば、くだらない理由でなし崩し的に決めることもある。

生活に追い詰められ、お金がないことで疲弊し、仕事を奪われ、まともな精神状態とは程遠く、長年の父子家庭生活で心はすっかり病んでいた。

これから先、明日から僕たちはどうやって生きていくのか、そして生きていくべきなのか。

そんな僕が出した次の結論はこのようなものだった。

とりあえず、正社員になってある程度の給料を貰えるところで働こう。

ざっくりとした、大枠での方向性のみ。

労働時間は長くなることで何かしらの弊害は出ることになるだろうけど、それはもう仕方がない。

数カ月だけでもいい、とにかく今よりも多いお金を稼いで、生活を軌道に乗せる。飯が食えないみじめさはもううんざりだし、定期的に電気や水道を停められたのでは、生きていく気力そのものを失くしてしまう。

そのためにはいつ職を失うかもしれないアルバイトではなく、職を失うリスクの少ない正社員として働くしかない。

では、正社員として僕を雇ってくれるところがあるのかという問題だが、僕にはたまたま料理人としての腕と経験があった。調理の仕事はいつだって慢性的な人手不足、選ばなければ仕事はあるだろう。

あとは、いつものように履歴書の改ざんとキャラの徹底で面接をクリアし、もぐりこんだらこっちのもので、行けるところまで行けばいい。

そんなこんなでハローワーク通いを続け、僕はまんまと正社員として、海沿いにある日帰り温泉施設の和食板前としての職を得ることに成功した。

ハローワーク通いも実は楽ではない。自宅から2時間歩いてようやくたどり着く場所だっただけに、何度も通うわけにはいかない。

車なら僅か15分。

行ったからには是が非でも結果を持ち帰らないと意味がない。もう、仕事なら何でもいいというぐらいの覚悟がなければ、自宅から2時間、往復4時間、仕事を探すためだけに歩くことなどできるはずもない。

海沿いなら自宅近くから電車が通っていたし、時間はかかるけど車がなくても通うことは可能で、交通費も全額ではないが支給されるという。

仕事は9時から21時まで。

休憩が1時間で、実働11時間の12時間拘束。シフト制週休2日の残業手当あり。

8時間を超過した分は残業代として計上され、給料は手取りで25万円。

どうなるかわからないけど、とりあえずここで行けるところまで行って、生活の安定を取り戻すことにした。

これが、僕たちが生き延びる唯一の解決策なのだと信じて。

年が明けてひと月が過ぎようとしていた。

数年ぶりに正社員として働くことに若干の戸惑いはあったものの、ここまで来たらやるしかないと覚悟を決めたのだが、新しい職場に入る初日は、どこに行っても緊張する。

子供たちには事情を簡単に説明し、これからは仕事で帰りが遅くなるからいろいろと迷惑をかけるだろうけど、我慢してほしい、そして協力してほしいと伝えた。

他に何らかの打算があったのか、聞き分けが良い子に育っているのかは微妙なところではあったけど、子供たちは僕の申し出を快諾し、協力を約束してくれた。

仕事が21時までで、そこから電車に乗り、自宅までは30分以上はかかるわけだから、仕事から自宅に戻ってくるのは22時ごろになる。

晩ごはんは作り置きしたものを冷蔵庫に入れ、適当な時間になったら食べてもらうことにした。

平日はとりあえず晩御飯だけ用意すればよかったけど、土日祝日は学校が休みのため、それに加えてお昼ご飯も作って、2食分×2名分のご飯を用意して冷蔵庫に入れておかなければいけなかった。

レトルトやインスタント、コンビニ弁当などで負担を軽くすることはもちろん可能だったけど、僕はそれでも子供たちのご飯は、手作りにこだわった。温かいまま出してあげられなくても、一人で食べる晩御飯でも、僕は手作りにこだわった。

もちろん、コンビニ弁当を毎日食べさせるという経済的余裕が無かったというのもあるのだが、他に何もしてあげられない僕が、忙しいという理由で子供たちに手作りのご飯を食べさせる事を止めてしまったら、親として存在する意味そのものをなくしてしまいそうな気がしていたし、後々振り返ったときに、ものすごく後悔するような気がしたのだ。

朝起きて子供たちの朝ごはんを用意する。子供たちが学校が休みの時はそれと同時進行でお昼ご飯のお弁当作り。晩御飯は休日にまとめて作り置きしている冷凍のストックから解凍して冷蔵庫に入れておく。

子供たちを学校に送り出すより早く、自宅近くの那珂湊線というローカル線の駅に向かわなければいけない。

仕事は9時からだったけど、ちょうどいい電車がない。朝7時半発という少し早めの電車に乗らなければいけなかった。

下の子は7時20分ごろに家を出るので、それを見送ったら僕も家を出る。上の子の中学校は自宅から徒歩3分のところにあるので、8時頃家を出ても間に合うのだ。

戸締り関係は上の子に全部任せて家を出なければいけない。

沢山の高校生とともに電車に揺られ終点の阿字ヶ浦まで。ほとんどの乗客は途中の那珂湊という駅で降りてしまうので、30分電車に乗っているうちのほとんどの時間は、一人で電車に揺られるということが多かった。

そもそもこの那珂湊線という物の存在理由が高校生の足であるわけだから、那珂湊という高校の最寄り駅より先の駅に行くために、わざわざこの路線を使う人はいない。

車ならば僅か15分の距離が、電車だと倍の30分かかる。時間を無駄にしている感は否めないのだが、車がないのだから仕方がない。

終点の阿字ヶ浦駅は小高い丘の上にあって、駅を降りたらそこから徒歩。歩いて5分程度の場所に、僕の新しい職場はあった。

子供たちがまだ小さくて、僕もそこそこお金を持っていたころは、よく3人でここの温泉施設にお風呂に入りに来ていた。食事も何回かしたことがあって、何となくではあるがどんなところなのかは分かっていた。所詮田舎の海沿いの日帰り温泉施設の厨房、僕にはその程度の認識だった。ま、適当にこなせば何とかなるだろ、どうせ料理と呼べるような大した代物ではあるまい、と。

面接に合格していよいよ初日という日、僕はそんな感じで気楽に仕事場へ伺ったのだった。僕と同日に入社するもう一人の男性がいて、年は僕よりだいぶ若い。ロッカーで一緒に支配人に渡された白衣に着替え、支配人に連れられて厨房へと向かった。

軽い気持ちで向かった厨房で、僕は早くも衝撃を受ける。

年のころ60を少し過ぎた、一見するとそちらの筋の方かと思う迫力の親方が仁王立ちしているではないか。

「やばい、来るところ間違えたかも・・・」

長らく料理人の世界にいた僕は、直感的にしかも瞬間的に結論を出した。

ここはまずい、絶対に違う。

ここからどうやって逃げ出そうか頭をフル回転させたが、時すでに遅し。

仁王様のような親方にとっつかまり、有無を言わさずいきなり仕込みをさせられるのだった。

聞けばこの親方、若いころは県の代表として和食のコンクールに出るほどのツワモノで腕は確かなのだが、ガチガチの板前気質、古き良き時代の職人で、その一言をもってすれば白いものも黒くなるという和食の親方を絵に描いたような人なのだとか。

和食の世界で親方と言えば、神である。

親方のほかに2名の板前がいたのだが、そのどちらもこの界隈では名の知れた和食料理屋やホテルで親方を張っていたとかいう方々。60歳前後で腕は立ちそうだし、話は合わなそうだし、厳しそうだしレベルが高そうだしで、とてもこの職場ではやっていけないと、すでに初日の一発目で思うのだった。

それでなくても、ガチガチの料理屋での仕事などすでに何年も遠ざかっていて、近々の仕事は酒を飲みながらダラダラ時間が過ぎるのを待つだけのアルバイト、とてもじゃないけどここで毎日12時間も拘束されては体がもたないという思いしかなかった。

よくわからないまま言われるとおりの仕事をこなし、周りの親方衆の動きを気にしながら緊張の連続、右も左もわからないし話し相手もいないし、仕事も何をしていいのかさっぱりだし、それよりなにより、親方の無言のプレッシャーが凄すぎて、精神的に追い詰められるのだった。

同日入社の若い男の子は、僅か1日で退職。次の日から仕事場に姿を現すことは無かった。

何でもこの凄腕の親方は、半年前にこの厨房に来た新しい親方で、あまりの厳しさゆえに入る人入る人、皆すぐに辞めてしまうのだという。

分からないでもないけど、それは転職という選択肢と仕事を選べるという余裕のある人に与えられた権利であって、僕のような身動きの取れないものは、一度決めたら最後腹くくってここに居座るしかないのだった。

食うや食わずの生活も、車もテレビも無い生活も、どんなに忙しい毎日も、どんなに厳しい職場でも、そのすべてが「子供たちのため」なのだ。

子供たちのために頑張らなければいけないと思えば、もう後ろ向きな感情など邪魔になるだけだ。どうせ明日も明後日もここに来るしかないのであれば、さっさと仕事を覚えて仲間作って、怖ければ怖いなりにここに飛び込んでやろうと、そう考えてみることにした。

煮て食おうが焼いて食おうが好きにしろ、お前らはすぐ辞めちまうのかもしれないけど、僕は辞めない。車とテレビを買って滞っている支払いをすべて完済するまでは、絶対にここを辞めるかと、辞めてたまるかと覚悟を決めた。

こうなったらやるしかない、これは自分のためではない、子供たちのためなのだ。

仕事はとにかく大変だった。

今までのアルバイトなど比ではない。拘束時間が長いうえに、仕事の内容は高度で、覚えることがたくさんあった。

他の親方衆と僕では明らかにレベルは違うし、求められることの半分も応えることが出来ない。この厨房の板長であり神である親方は、良くも悪くも昔気質、まず親方が言う前に察して先回りして動かないと怒鳴られてしまう。緊張と忙しさで、毎日毎日神経をすり減らし疲労困憊した。それに加えて行き帰りの電車と、すっかりする時間が無くなった家事、寝る時間を削って家事や育児をこなし、睡眠時間もそこそこにまた仕事へ向かう。毎日何をしているのか全く分からない状態に陥った。

仕事の拘束時間が長いということは、つまりこういうことか。

仕事に行っている日は、帰ってからできる家事などたかが知れている。仕事で体はくたくただし、次の日も仕事だしとてもじゃないけど手が回らない。相変わらず子供たちは山のように洗濯物を出し、部屋を散らかし続けた。

休日も、先送りされた家事に追われ、子供たちの日々の晩御飯をせっせと作りだめしなければならず、休んでいる場合ではない。仕事の日に毎日子供たちに晩御飯を作ってやるのは不可能だったので、1週間分の晩御飯は休日に作りだめして何とかしのがなければならないのだ。

仕事から帰れば最低限の家事をこなし寝る。気が付いたら朝の6時になっていて、いつの間にか新しい1日が始まってしまう。どんなに疲れていても、どんなに眠くても休むわけにはいかなかった。

休んだら最後、二度と職場に足が向かなくなるだろうし、何より休むことで給料をカットされることが嫌だった。この職場に有給など存在してはいない。

子供たちにご飯を食べさせ、自分の身支度をし、早々に家を出る。電車に乗って仕事場に着くのは就業の30分以上前。

朝の準備は親方が到着する前に終わらせ、温かいお茶を出すのが毎日の日課だったので、到着するや否や着替えを済ませ厨房に直行する。15時の休憩まで神経を研ぎ澄ませて親方の言うことを漏らさず聞き取り、夕方から夜のピークに向けもうひと踏ん張り。20時にラストオーダーを取るので、それを作り終えたら急いで後片付けをする。ラストオーダーをこなしたら親方はご帰宅となるので、ここからは時間との勝負。

帰りの電車が21時10分で、それを乗り過ごしてしまうと1時間電車がない。21時10分の電車に乗ることは、もはや至上命令で、乗り過ごしたら最後、人気のいない真っ暗な無人駅で1時間、時間をつぶさなければならなくなるのだ。

21時きっかりにタイムカードを押し、2分で着替えを済ませ、海岸線よりはるか高い位置にある駅まで猛ダッシュする。疲れた体に鞭打って山を駆け上がるのだが、これがしんどい。しかも時間は超ギリギリなので走ることを止めるわけにはいかない。何としても電車に乗り遅れるわけにはいかなかった。

心臓が飛び出そうなほどのスピードで走り、毎日何とか電車に飛び乗っていた。他に誰も乗っていない車内で、ぐったりと目を閉じる。

家に着くのは22時。

本当に毎日毎日クタクタだった。

刺身を引いたり寿司を握ったり、親方もそのほかの方々も腕は見事だった。まさかこんなところで一流の板前の腕を拝めるとは思ってもいなかったので、仕事は大変だったけど勉強になることが多かった。

茨城はアンコウが有名で、季節になるとアンコウ鍋を出す。朝一で市場から仕入れたアンコウを裁く手際の良さを盗み見ては感心していた。

僕は主に揚げ物を担当させられた。天ぷらを揚げることが多く、1日中天ぷらを揚げ続けるなんて日もあった。

お昼ご飯は社割で食べられるということだったけど、やはりお金がかかるので僕は食べなかった。

今までは労働の拘束時間が短かったために、家に帰って晩御飯の支度をしながら、味見がてらつまみ食いをして僕の晩御飯としていたのだが、21時までの拘束となりそれも出来なくなってしまったので、さすがに朝も食べず昼も食べずで21時までは体がもたず、子供たちに食べさせる朝ごはん用のお米を気持ち多めに炊いて、残った白米でおにぎりを1個、ラップに包んで仕事場にもっていき、休憩時間になったら一人外に出て海岸線の防波堤に腰かけ白飯をラップに包んだだけのおにぎりを1個食べる。

お昼休みは従業員専用の休憩スペースがあったが、さすがにそこでラップに包んだ白飯を出して食べるのは気が引けたし、僕にはそうせざるを得ない事情もあり、おにぎりを持参した時は外に出て海を眺めながら一人で食べた。

休憩室で一緒になったほかの従業員からも「お昼ここで食べたらいいのに」と言われたりするのだけれど「お弁当持ってきてるんで、せっかくなんで外で海眺めながら食べますよ」と言って外に出た。

色々と説明するのは面倒だったし、誰にも心を開く気にはなれなかった。

この職場に転職してからは、父子家庭だということは支配人以外の誰にも言っていなかったし、僕のことをみんなはごく普通の、いわゆる誰もが考える平凡な家庭で暮らしていると思っていた。子供がいるということだけ伝えてはあったので、他の従業員たちとは、適当に話を合わせて過ごしていた。

僕はこの何年かで、学んだのだ。

父子家庭だの一人で育てているだの、誰かに言ってみたところで共感などしてはもらえないし、助けてくれるわけでもない。

父子家庭であることを伝えたとしても、結局何も得るものはなかったし、仕事となると、逆にその情報は足かせとなり、だんだんと身動きが取れなくなる。融通の利かない人よりは便利な人を雇いたいと思うのが心情だろうし、僕がオーナーでもそう考える。

さらには、父子家庭という生き方自体世間ではあまり認知されておらず、心無い人にかかれば「男が一人で子供を育てているなんておかしい、何かあるに違いない。お前がひどい人間だから母親が子供を置いて出ていかなければならなかったのだろう」という、僕にはおよそ理解できない方向での解釈をする人までいた。

それはあんまりだ。

いつしか僕は、父子家庭で子供たちを引き取って一人で育てているということを、人に伝えることが出来なくなっていた。

今まで出会った人たちは「一人で子供を育てています」と言ったとき、それは「片親」であるという意味での「一人」という判断をする。

今時この世の中に自分ひとり以外頼れるものがなく、誰にも助けてもらえず子供を育てるという発想に、そもそも現実感を持てる人がいないのだ。

誰にだって一人くらいは頼れる身内がいるものだ。親であり兄弟であり、祖父母であり親戚であり。本当に誰もいないという状況は、言えば言うほど大げさで、真実味をなくすのだった。

「そうは言っても一人くらいいるでしょ」

と言って一笑に付されるのがオチだった。

だからいつしか、言うだけ損のこの情報をあまり相手に入れないようにして、相手が望む自分を演じることにしたのだ。人によって、環境によって、その都度その都度キャラを変えていくから「ここではどの自分を演じてたんだっけ?」と戸惑うこともしばしばだったけど、大した中身のある話などしてなかったし、適当にごまかしながら過ごしていればよかった。

話しても分かってもらえないということは嫌というほど経験したし、もう話すのも面倒だ。

仕事場では幸せそうな父親役を演じた。

仕事場でご飯を食べられないのはお金がないからではなく、愛妻弁当があるから、という体でなければいけなかった。

海を眺めながら、味もそっけもない冷えた白飯のおにぎりを食べなければいけない。

腹がいっぱいになるはずなどなく、満足感も満腹感もみじんも無かったけど、この程度の惨めさはもはや日常の範囲内になっていた。海を眺めながら打ち寄せる波の数を数え、それと同じ数だけ、ため息をついた。

仕事が慣れてくると、親方以外の板前は友達のように接してくれるようになり、だいぶ気がまぎれるようになった。

なんせ拘束時間が長いので、朝からずっと同じ場所に居るわけだからそのうちだんだんいやでも打ち解けてくるものだ。20時のラストオーダーが終わり親方が帰ると「腹減っただろ、遅い時間だからな、天丼食べるか?」と言って、一緒に働く板前さんが、僕のためだけに天丼を作ってくれたりした。もちろんオーナーや親方に知られたらクビになってしまうので、作ってもらった天丼を作業台の下の陰で隠れて食べた。

毎日毎日というわけにはいかなかったけど、僕はこうして週に何度か豪華な晩御飯にありつけるようにもなった。

日によって天丼だったりうな重だったり、ネギトロ丼だったり海鮮丼だったりした。

もともとは社交的な性格であったし、料理の仕事は高校を卒業してからずっとやっているし、腕もそこそこ、飲み込みも早いし、自分で言うのもなんだが素直な性格だったので、厨房ではかわいがってもらった。

主に親方のサポートをしていた60歳くらいの板前がいたのだが、僕が1カ月くらい働いたころだろうか、夜、親方が帰った後、僕に天丼を食べさせてくれながらこう言った。

「悪いんだけどさ、俺辞めようと思ってるんだよね」

「辞めるって、何をですか?」

「ここの仕事だよ」

「なんで急にそんなこと言うんですか?」

この板前さんが、今なぜそんな話をしてくるのか分からなかった。

よくよく話を聞いてみると、本当はだいぶ前から辞めようと思っていた、というのだ。

しかし、辞めようにも新しい人が入ってこない。入ってきてもすぐに辞めてしまう。だから辞めるタイミングをつかめないでいたというのだ。

なるほど、たしかに同日入社の彼も1日でいなくなった。

そこに、そこそこ若い、飲み込みも早い、そう簡単に辞めそうにないタイプの僕が入ってきて1カ月が過ぎたので、このタイミングを逃してなるものかと、先手を打って僕に辞めることを告げたのだった。

つまり「ここまで来たら辞めるなよ、俺が先に辞めるんだからな」ということ。自分が辞める前にまた僕に辞められたのではたまったものではない、といったところだろうか。

豪華な晩飯は、さしずめ賄賂といったところだったのだろうか。

なぜ辞めたいのかといえば、人使いの荒い親方にうんざりしたということで、もうほとほと疲れたというのだ。確かに、その板前さんは些細なことで親方によく怒鳴られていた。年もそんなに違わないだろうし、その方だって昔はホテルで親方を長いことしていたような人で、プライドもあるのだろう。

「そういうわけだから、俺のポジションに入ってやってほしいんだよね・・・」と。

そうしてこの板前さんはあっさりと辞めていき、僕は拒否権を持たぬまま、親方のサポートポジションにおさまり、人手がいなくなったうえに、前にもまして仕事は緊張の連続となり、親方の一挙手一投足を見逃さぬように12時間張りつめたまま仕事をせねばならなくなってしまった。

そのポジションに入って初めて「ああ、これは辞めるな」と思った。

通常の板前としての業務に加え、在庫の管理、品出し、その他雑用、僕の仕事量は一気に増え、加えて、電車通勤の疲れ、家事育児に忙殺され、睡眠不足や空腹もたたってすっかり仕事に行くのが嫌になってしまった。

疲れが取れない上に、日々の緊張感が尋常ではないほど怖いのだ。

多くを語らぬ親方の目を見て、次の指示を予測する。先回りして仕事をこなさなければ怒鳴られる。親方の動きを注意深く観察し、今何を欲しているのか神経を研ぎ澄ます。

うまくいくときもあれば、全く違うときもある。怒られ怒られ仕事をするのだが、僕には親方が望むほどの技術はない。仕事を命じられるのが怖くて、不得意分野やできないことを申し付けられると、どうやってこの場を逃げるか考えてしまう。

しかし、そのおかげでたくさんの技術も学べた。今後役に立つのかどうかは分からなかったけど、料理はもともと好きだったので、一流の技術を間近で見られるということには、ある一定のワクワク感もあった。

そんなこんなで、フラフラになりながらさらに1カ月が過ぎ、朝になると毎日仕事に行きたくない病にかかるのだが、どうにかこうにかやり過ごし、新しい職場に来て2カ月が過ぎた。

ひと月の給料が約25万円。2回給料を貰い、2カ月で50万円近くのお金を稼ぐことに成功した。月8万円で自分の都合とは無関係に職を失っていたあの頃から比べたら、なんということだろう。

2カ月で50万だ、50万。まさに、血と汗と涙の結晶である。

一通りの支払いを済ませて、子供たちの食事もだいぶまともな物を食べさせてあげられるようになり、生活はようやく落ち着きを取り戻しつつあったのだった。

あの大震災からだいぶ時間が経ってしまったけど、僕はとうとう念願の薄型テレビを子供たちのために購入することを決めた。

地デジ化が行われて、テレビを失い早9カ月。

とうとう僕たちは念願だったテレビを自宅のリビングに置くことに成功した。それは国宝級の美術品よろしく、貫録十分でリビングに鎮座した。

自分の働いたお金で、とうとうテレビを買ったのだ。

食うや食わずの生活、職を転々とし、子供たちに迷惑をかけ、我慢をさせ、協力をしてもらい、決して自分ひとりの力ではなしえなかったであろうこの偉業に、大げさではなく僕は本当に涙した。

近所のドン・キホーテで5万円。現金一括でテレビを購入したとき、テレビを失ったあの日から今日までの苦労が、挫折が、怒りや悔しさが走馬灯のように流れ、信じられない思いで胸がいっぱいになった。

型落ちのテレビだったけど、子供たちとの約束を果たすことが出来て僕は満足していた。

子供たちは大喜びし、その日は3人でいつまでもテレビを見た。戦後じゃあるまいし、家族そろってテレビ鑑賞でもないのだが、それは紛れもなく、歯を食いしばって生きてきた努力と家族の愛の結晶だったに違いない。

何を思っただろうか。

子供たちはテレビを見ながら、いったい何を思ったのだろうか。

当たり前のことが当たり前にできない生活を強いられ、だいぶ長い時間が過ぎた。わが家にテレビが来たあの日は、ほんの少しだけ僕たちに安堵と希望をくれたのだった。

忘れようにも忘れられない記憶である。

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