【第30話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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【第30話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
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テレビを購入したことで、親としての最低限の役目を果たしたつもりになっていたのだが、だからと言って子供たちが望む生活を提供しているとは言い難い。

相変わらず綱渡りのような生活を続けていたし、子供たちに手をかけてあげられる時間も無い。

9時から22時まで、週5日は子供たちだけで過ごさなければならないわけで、さらに今まではテレビも無い家で子供たちだけで留守番をさせていたわけだ。

テレビを購入してほんの少し罪悪感は消えたけど、子供たちに申し訳ない気持ちは相変わらずで、このままの暮らしを続けていて良いのだろうかと思うのだった。

上の子は来年高校受験を控えているし、下の子も大人が近くにいない環境であまり長い時間過ごさせるのも、気が引ける年頃だ。

仕事は忙しく、家事と育児と仕事に追われ、給料が上がった分生活自体は若干楽にはなったけど、やっぱり悩みは尽きなかった。

お金を稼ぐということと、子供たちを食べさせていくということと、子供たちを成長させる、育てる、環境を整えるという、親としての責任の両面を同時に両立させるむずかしさだった。

両親がいて、祖父母がいてという環境ならそれぞれの役割で分担していくのだろうが、僕にはそれが出来ない。

一つの家族の中において車の両輪のように同時にかつ別々に回り続けなければ安定しないものが、僕はどうやっても片方づつしか回せないのだ。

あっちを回したらこっちが止まる。こっちを回したらあっちが止まる。本当は永遠に先に進むことない車に乗って、僕たちは旅を続けているのかもしれなかった。

生きていくために、子供たちを育てるために、子供たちに輝く未来を与えるために、そして何よりも、父子家庭という家族の形を維持するために、僕はどの道を選択すべきなのか、何度となく迷った。

仕事場では新しい人が入ってきたりして、また環境が変わりつつあった。

仕事も覚え、仲居さんやフロントの方たちとも顔見知りになり、話し相手も出来てそれなりに自分のポジションも確立して、どうにか過ごせるようになった。

僕にとってラッキーだったことは、新しく入ってきた人がたまたま僕の自宅の近所の道を通勤で使っていたということ。朝はさすがに電車通勤を続けたが、帰りはその人が送ってくれることになり、仕事終わりに駅まで全力疾走しなくてよくなったために、体力的にもずいぶん楽になり、帰宅時間も格段に早くなった。

やっぱり車がないと生産性に欠けるのだなと、改めて思うのだった。

帰宅時間が早くなったとはいえ、それでも21時半までは家を空けなければならず、監視の目が緩まったうえに大人になりつつある子供たちは、だんだん帰宅時間が遅くなっていき、僕が帰宅しても子供たちが家にいないなんて日がちらほら出始めてきた。

さすがにこれは生活のためとはいえ、お金を稼ぐことに趣を傾けすぎた弊害が出始めていると考えざるを得ない状況だ。

今度は止まったままのもう片方の車輪を、回さなければならない時期に来ているのかもしれない。

新しい人も職場に加わったし、僕はこの辺でこの仕事の役割は終えたのではないかと考えた。

社員で仕事をするということ自体は、子供たちもだいぶ大きくなったし不可能ではないということは分かった。

だからと言って、12時間の拘束にはいささか無理があった。滞っていた光熱費等の支払いのほとんども軌道に乗せたし、この生活を維持できるだけの最低限の収入がある仕事、かつ拘束時間の今よりも短い仕事に転職しようと決めた。

仕事を続けながらいつものように職探しをしつつ、休憩時間に電話をかけまくり履歴書をせっせと送って、休日には面接という生活を送った僕には、一つ分かったことがあった。

それは、正社員として働くうえで飲食業という職種は、不都合が多いということ。

この辺の田舎の飲食業はおおむねチェーン店しか職がなく、求人の募集要項は軒並み若い方限定、さらには転勤ありの長時間労働。シフトなどという物は形式に過ぎず、朝から晩までの拘束時間は免れそうにない。給料はそこそこなのだが、これでは転職する意味がない。

もはや茨城県で飲食業を続けていくのは、不可能なのではないだろうか。

調理師しかしたことない僕だったけど、もうこの職種での仕事は潮時なのかもしれなかった。給料が安いということよりも、拘束時間が長いとか、休日がないとか、時間が読めないとかのほうが、生活の安定には支障があった。

拘束時間が短く、給料もそこそこで休日もある。時間的な融通をつけやすく、時間で帰れる仕事。

いくら探しても、そんな仕事は無かった。

少しばかりお金を手にして生活の安定みたいなものを知ってしまった僕は、今更またアルバイト生活に戻る気にはなれなかったし、それよりなにより、確実に前に進んでいるという実感を得るためには、どうしてもアルバイトに戻るわけにはいかなかった。

それがたとえ錯覚だったにせよ、その錯覚があるかないかでは、今後のモチベーションに相当の差が出る。良いか悪いかは別にして先に進んでいるという実感、これは僕にとっては重要かつ必要だった。

たった一人で父子家庭などという訳の分からない生活をしていると、このまま底なし沼のような生活苦に溺れて這い上がれないのではないかと、不安で不安で眠れない日がある。

25万も給料を貰っていたのに、また給料10万円の生活に戻ったのでは、もう二度と「生きよう」という意欲そのものがわかないような気がした。

あの暮らしには、戻りたくない。

アルバイトはない、お金は余らなくても、最低でも3食まともに食べさせてあげられる生活。これは死守しよう。そして、子供たちと過ごす時間も大切だ。

求人雑誌やインターネットをくまなく探し、僕がたどり着いた一つの答えがこれだった。

営業。

営業などやったことは無いし、実績も無い。もっと言えば、スーツを着て出勤し、土日祝日がお休みなどという暮らしを、僕はしたことがなかった。なにせ、高校を卒業してからずっと料理人なのだから。

そんな僕に、サラリーマンという仕事が務まるのかどうか分からなかったけど、求人の募集内容を信じるのであれば、これはなかなか今の自分に合っている職種のように思えてきたのだった。

週休2日で土日祝日はお休み。勤務時間は朝8時半から17時まで。給料は20万円也。

その仕事の内容は、人材派遣会社の営業マン。

人材派遣という仕事は知らなかった。何をしているところで、どうやって儲けを出す会社なのか、さっぱりわからなかったけど、そんなことはどうでもいい。面接に行って合格したら考えればよいことだった。

ただ一つ困ったことは、車がないということ。

他にも数社、営業の仕事で面接に行ったのだが、車がないということは相当ネックになっており、それによって不合格とか、合格しても辞退せざるをえなかったりと、車の必要性は不可欠だった。

不動産屋の営業マンに募集して面接に行き、宅建の資格も無ければ営業経験も無いのに、持ち前のなりきりキャラの面接術ですっかり社長に気に入られ、その場で合格になった仕事があったのだが、車がないということを伝えておらず、あえなく辞退ということがあった。

そこは、マイカーを使って仕事をするタイプの会社で、車を持っていなければ仕事はできない。

そんなこと僕は知らなかったし、社長も、この田舎の車社会の現代において、まさか車も持っていない人が面接に来るなどということを想定していなかった模様で、なんだかお互い変な空気になってしまったのだ。

給料も良かったし、休みもいっぱいあった仕事だったけど、車を持っていないというだけでその職に就くことが出来なかった。

それでもよく考えてみたら不動産屋の営業は荷が重いように思えて、車がないことを言い訳に辞退したのだった。

この経験を生かし、職探しと並行してマイカーの購入に向け動き出した。車を購入し、僕にでも出来そうな営業の仕事を見つける。

幸い、今は正社員として働いているし、ローンぐらい組めるだろう。生活が安定しないから借金には正直二の足を踏んでいたのだが、そんなことも言っていられない。これは未来の自分への投資であると考え、ローンによるマイカー購入へと舵を切った。

そうと決まれば善は急げで、近所の中古車屋をめぐり休日を使って中古車を物色、10年落ちのホンダストリーム、25万円を3年ローンで購入することにした。

ローンを組む時に就業年数を書く欄があるのだが、正直に3カ月とかいたら販売店のベテラン営業マンが「1、足してください、隣に」というので、就業年数1年3カ月で提出。

このアドバイスが効いたのかどうかは定かではないが、無事ローンを組んでマイカーを購入することに成功したのだった。

これで何となく人並みの生活っぽく体裁は整ったけど、月1万3千円のローンが残り、僕の生活パターンは新たな展開へと突入した。

これからは、光熱費と食費だけではなく、借金返済も加わる。車体は25万円だったけど、その他もろもろ保証とか金利とかで50万近くの総額になってしまったために、月1万3千円。

現金を持っていないから仕方がなかったけど、手痛い出費であることは間違いなかった。

車を購入したということはガソリン代もかかるし、税金もある。任意の自動車保険も加入したし、車を所持するだけで相当の出費が予想された。是が非でも、この出費を回収できるだけの生産性を確保しなければならない。

車を購入したことによって生活スタイルは激変し、職探しのカテゴリーも範囲も広くなった。

僕はこうして、水戸のけやき台という、車がなければ絶対に通勤できない場所にある、人材派遣の営業マンに転職することになった。

人材派遣という職種そのものを知らなかったために、僕にできるのかできないのか判断がつかなかったのだが、ここのところテレビドラマなどでもちらほらお見かけする話題のワードだったし、なんだかおもしろそうな気がしたのだ。

単純かつ、軽いノリで決めた。

まずやってみる、これに限る。

日帰り温泉施設の板前の仕事は4月いっぱいで退職するつもりだったのだけど、人手が足りないということと、ゴールデンウィークは混雑が予想されるということで、ゴールデンウィーク明けまでいてくれないかと支配人に頼まれたので、快く承諾した。

僕を拾ってくれた恩もあるし、入社してすぐに退社する負い目もあったし、何よりも、これだけの給料をくれて生活を建て直させてくれたのは、間違いなくこの仕事のおかげなのだから。

ゴールデンウィークは、信じられないほど忙しかった。

この仕事を始めてもっとも忙しい数日間で、朝から晩まで人が途切れることは無く、息つく暇もない。家に帰れば気絶するほど疲れ果てたが、なんとか乗り切り、僕は阿字ヶ浦の日帰り温泉施設を円満退職した。

就業期間4カ月、長い方である。

この年のゴールデンウィークは、茨城県つくば市北条で大規模な竜巻被害があり、大きなニュースになっていた。

退職の際、支配人に「お世話になりました、ありがとうございます」と告げると「またいつでも戻ってきてください、待ってますから」と声をかけてくれた。

怖かった親方にもお礼と感謝の気持ちを伝えると「お前がいなくなると寂しくなるな、なんだか」と言っもらえて、うれしかった。

毎日仕事終わりに家の近くまで車で送ってくれた、新しく入った板前さんの車のフロントガラスに、お礼の言葉と連絡先を書いた紙を挟んだ。

1日のほとんどをここで過ごし、仕事も大変だったから、辞めるときはやっぱり寂しかった。

ありがとうございました。どうなるか分からないけど、僕は先に進みます。

ゴールデンウィークが明けるとすぐに、人生でほぼはじめてに近いスーツ姿となりマイカーに乗って水戸まで通勤することとなった。車で通勤できるようになりだいぶ楽になったのだけど、サラリーマンになったおかげで行き帰りのひどい渋滞に巻き込まれるようになった。スーツにネクタイという姿が、着慣れていないためにとても窮屈で、革靴を履いて歩くのは難しかった。

今度お世話になる人材派遣の会社は、個人のオーナー企業で、夫婦2人が社長と専務という形の家族経営だった。

人材派遣という仕事を全く知らなかったために、一から勉強となるのだが、営業職として採用されたのに、初日は1日中履歴書をシュレッダーにかけるというなんとも言えない仕事を命じられ、ひたすら単純作業を繰り返した。

社長と呼ばれる人は、年のころ60を少し出たくらいだろうか、天然パーマでやせ形、貧相な顔立ちのおじさんで、いつも裸足にスリッパというスタイル。事務で専務の奥さんのことを四六時中怒鳴りまわしていた。おしゃべり好きの社長で、何かにつけ話しかけてくるのだが話に脈略はなく、ほとんどの会話が意味不明、糖尿病のため食事の前にはだぶだぶの腹にインスリンの注射をするのが日課で、それを見ると食欲が失せるのだった。

2階建て鉄筋の建物の2階部分の一部屋が会社のフロアーで、土浦にも支社があるとか。

社長の性格なのか会社の方針なのか分からないが、事務所はいつも雑然としていてお世辞にも綺麗とよべる環境ではなかった。

ドルチェのコーヒーメーカーで日に何度もコーヒーを飲み、思い付きで仕事を命じる。

サラリーマン生活がほぼはじめてに近い僕にとって、サラリーマンというやつは何をしているのかさっぱりわからなかった。

料理の仕事は明確である。

仕込みをして料理を作り後片付けをして、次の仕込みをする。自分に与えられた仕事がはっきりしているので、やることは分かっている。しかし、今僕がしていることは、雑然とした事務所のデスクに腰かけ、電話に出たり、シュレッダーにかけたりの繰り返し。

営業マンとは名ばかりで、僕はしばらくの間、何をするでもなく事務所待機の日々。

出かけるでもなく、何かを作るでもなくただ時間が過ぎるのを待っていて、本当に退屈な毎日だった。

仕事は8時半に始まり、実際は17時半までだった。

営業に出ないうちは、時間になれば仕事を終え家に戻ることが出来た。

「お前は人材派遣も営業も初めてだからな、まずはしっかり勉強しないとな」と社長は言っていたけど、早口なうえに支離滅裂な話口に、一向に的を得ないまま1カ月が過ぎた。

いままで料理人をしていたころは、週休2日というのもそうそうないけれど、土日祝日が休みといういうことはなく、しばらくの間土日祝日に休むことへの抵抗があったし、月曜から金曜までという5日勤務がどうしてもなじめなかった。

着慣れないスーツも、履き心地の悪い靴も、堅苦しいネクタイも、5日勤務も、週末の2連休も、全く僕のライフスタイルには合わず、百聞は一見に如かずとはまさにこのことであり、体験しないと分からないことがまだまだたくさんあるものだ。

仕事と言えば、事務所の雑用と社長の買い物に付き合うことと、よくわからない資料のファイリングのみだったけど、約束通りの給料20万円はきっちり支払われた。

5日連勤は大変だったけど、17時半の終業はありがたく、帰り道でスーパーにより買い物をして子供たちにご飯を作る。来年高校受験を控えた上の子に勉強を教えたりしながら掃除洗濯。

なんとか持ち直した生活を、維持することができていた。

サラリーマン生活2カ月目ごろから、同じ年の先輩営業マンと同行し、人材派遣の営業の仕事を教えてもらい始めた。

そもそもこの会社は、人材派遣でも工場専門の派遣会社らしく、営業はもっぱら工場のみ。最近は不景気かつ人材派遣の競争も激化してきたり、企業側がそもそも派遣を使わないとか、派遣を使うにしても決まった1社に限定しているとか、そんなこんなで仕事を取るのも難しくなってきているということだった。

会社には膨大な数の派遣登録者の履歴書が保管されており、営業マンが新規開拓した工場があったり、単発でも仕事があった時は、その履歴書の中から現場近辺に住んでいるか、通える人をピックアップして、片っ端から電話をかけていく。

もしくはフリーペーパーの求人サイトに求人募集の広告を出し募集を募る。その中でうまい具合に今現在仕事をしてなくて、紹介した仕事を気に入ってくれたら、アポを取り面接をする。

この時点でまず、僕のような営業マンが一度面接をし、先方に紹介しても良い人材かどうかを判断する。

とまあ、建前ではそういうことになってはいるのだが、実際は読み書きができて、最低限仕事にはちゃんと行ってくれそうな人なら全員合格である。

だいたい人がいないのだ。人材派遣などと語ってはいるが、実際は派遣するほどの人材はなく、ほぼ無理やりにでもねじ込んでしまう。人材が集まらなければ最後、営業マンが仕事をしてくるなんてこともあるくらいで、テレビの中の人材派遣とはえらい違いだった。

どの辺に品格があるのか、さっぱりわからない。

仕事があっても働く人を見つけられなければ、人材派遣会社は1円の儲けにもならないのだ。人材派遣で人を紹介し、企業側から提示された時給の20パーセントを差し引いた額が労働者の取り分となる。平たく言えばその人の給料の20パーセントをピンハネする、ということ。人を送り込めなければ1円の儲けも出ない仕組みだ。

茨城の田舎で20パーセントピンハネしてもそれなりに格好のつく仕事は、工場でのきつい肉体労働のみで、人材派遣会社の営業は工場が激戦区と言われる所以である。

もちろん資格などを有して高い時給で働けるところもあるにはあるのだが、そもそもそのような仕事に就ける資格を持ったうえで今現在暇している人など、そうそういない。仮にいたとしても、その人が都合よく人材派遣に登録するとも限らない。

このド田舎で人材派遣などというシステム自体が必要なのか否か、そのあたりから甚だ疑問だった。極端に言えば誰にでもできる仕事を見つけてこないと、人材を確保できないという仕組みなのだ。

つまるところ、とりあえず誰でもいいから入れちまえというのが大筋の考え方で、事務所まで来ることが出来た時点でおおむね合格となる。

いままでは仕事を探す立場、面接を受ける立場だったのに、急に面接をする側の人間になっていて戸惑っていた。まったく、世の中というのもはところ変われば品代わるで、どこでどうなるか分からない。

はじめのうちは先輩営業マンについて行き、面接の仕方だったり、営業の仕方だったりを教えてもらった。ほとんど決まりきったマニュアルのようなものがあり、誰にでもできる仕事だった。

新規開拓は基本飛び込み営業で、工場を見るや飛び込んで行き営業をかける。成功率は一ケタ程度、仕事をいただいたとしても時給が安かったり、辺鄙な場所だったり、仕事の定着率が悪かったりと、企業側も自力で人を集められないような仕事が人材派遣に回ってくるといった感じ。

仕事があっても人を見つけられなければ、その仕事は無いも同然。ほとんどがそんな感じだった。

人材派遣の営業マンに最も必要な能力の一つは、派遣社員の管理能力であり、どんなにきつい仕事でも人が辞めないように管理することが大切なのだ。

人が辞めるということは、こっちの食い扶持も少なくなるうえに、新しい人材が見つからなければ仕事に穴をあけたということになり、違う人材派遣会社に仕事を取られたうえに、会社としての評価も下がる。

まれにいる良い人材は、企業側に直接雇用されるリスクもあるわけで、そうなったら人材派遣会社的には損失になる。それらのリスクをうまいこと回避しながら、人を定着させて管理する。仕事に行かないやつは自宅まで迎えに行き、なだめたりすかしたり脅したりして仕事に連れて行く。

時給の良い大きな枠の仕事を取ってきて、そこに人材を派遣する。徹底的に管理し仕事を辞めないようにして企業側の信頼を勝ち得ないといけないわけだ。

そのような時給も良くて採用人数も多いような工場は、人材派遣の営業が激化していて、そのほとんどが大手人材派遣会社に抑えられているのが現状。

そこを割って入るのは、なかなか至難の業だった。

飛び込み営業のほかにもテレアポというものがあった。

テレアポ、テレフォンアポイントメントということなのだが、これは工場に電話をかけ、人材派遣を使わないかと営業するわけだ。

茨城県の工場一覧なる電話帳が存在し、片っ端から電話をかけていく。相手も毎度のことなのだろう、ほとんど相手にもしてはくれない。

そこで、より効率を上げるためにこのような電話のかけ方をする。

フリーペーパーなどの求人情報紙にリアルに求人を出している工場に直接電話をかけてみる。求人には担当者も電話番号も書かれているし、人がいないから求人を募集するわけだから話が早いのだが、絶対に人材派遣は使わないというところもあり、なかなかうまくいかない。給料の20パーセントをピンハネするので、工場側から出されるもともとの時給が高くなければ、割に合う仕事ではなくなる。

やはり、うまい具合にそのようなところで新規に人材派遣会社を使おうという工場は、なかなか無かった。

営業で成果を出せるようになるまでは、既存の派遣先を引き継ぎ、それらを管理した。

タイムカードのチェックから、従業員の体調管理、仕事上で何か問題がないか聞き取りを行ったり、企業側担当者との打ち合わせやら、会議などにも出席した。新規の従業員をあてがうときは、面接にまで同席しまるで保護者のような振る舞い。

派遣先に従業員として送り込んだ人たちのマネージァー的存在、とでもいうのだろうか、なかなか大変な仕事だった。

派遣社員の給与は20パーセントピンハネした分を差し引いた明細を人材派遣会社側から発行する仕組みで、それを手渡ししなければならず、仕事の昼休みとか、仕事終わりとかに待ち合わせをしなければいけなかったので、営業に出るようになってから就業時間である17時半には帰れなくなった。相手に合わせる生活という物を強いられるようになり、時間的に融通を失った。

担当している工場は四方に点在しており、そこに行くまでにかなりの時間を要するわけで、まったくもって効率が悪い。

一つ大きな工場を派遣先として取ってきて、そこに大量の従業員を送り込むというのが考えられる一番効率の良い方法だったが、僕にはそんな営業能力もノウハウもなく、はたまた仮にそうなったとしても、従業員を管理するのは至難の業だと思われた。

人材派遣の営業マンも思っていたより楽ではないし、テレビで見ていた人材派遣のイメージとは、大きくかけ離れたものだった。

早急に人手が必要だという仕事があれば、なんとしても人をかき集めてこなくてはいけない。

デパートの棚卸や配置換えなどの時に、単発2週間とかいう仕事はこのようなケースが多かった。

その時は、事務所に戻り過去の履歴書をすべてひっくり返し、手当たり次第に電話をかけまくる。

普通に考えればいきなり電話をしてきて「明日から2週間のバイトに来ませんか」と言ったところで、来るはずがない。

それが普通である。

仕事を持っていればそんな単発のバイトなどできるはずもなく、それでも見つかるまで従業員総出で電話をかかけまくるのだ。

22時過ぎくらいまでは平気で電話をかける。受話器の向こう側で怒鳴られることなどしょっちゅうで、泣きたくなるのだった。

要は、このタイミングで電話をかけて、明日から、もしくは明後日から仕事をします、2週間。という人を探しているわけで、言わずもがな、そんな状況下で仕事を受ける人の考え方はすでに常識の範囲外ということもしばしばで、ようやく見つけた人員でも、1日もたたずに逃げ出すと言った有様。

これが果たして「人材派遣」と呼ぶにふさわしいのか、僕にはよくわからなかった。

営業に出てからというもの、時間通りに行動計画を立てることが出来なくなり、朝早くから夜遅くまで家に帰れない日が多く出るようになった。

初めから勤務の終業時間が遅いと確定していれば、それなりに僕も対応のしようがあるという物だが、その日突然に家に帰れなくなるという仕事のパターンでは、次第に無理が生じてきたのだった。

子供たちはいつ戻るやも知れない父親を待ち、心配しながらひもじい思いをしているに違いない。

そもそもこの仕事が好きなわけでもない、営業などやったことがないかったし、いまいち営業成績が上がらない中で、夜中まで仕事をしなければならない日が続き、体力と精神力には自信のある僕も、とうとう参ってしまった。

家の事も子供たちのことも、自分の思うようにはいかなくなり、慣れない仕事で覚えることが多かったけど、好きな仕事でも興味のある仕事でもなかったので、一向に頭に入らず、仕事中に車に乗って遠くまで営業に出かけているときに、子供たちに何かあっても対応できず、だからと言って仕事を取ってこれるわけでもなく、帰りたくても家には帰れない。

本当に僕は何もかもが嫌になって、人と会うのも煩わしくなってきていた。必ず毎日誰かと話をしなければいけない、営業という仕事は徐々に苦痛になり、そのうち近くの公園で昼寝をしながら時間をつぶすようになり、全く何をする気も失せてしまった。

事務所に帰ると、専務である奥さんを四六時中怒鳴りまわす社長の声で頭が痛くなり、だからと言って外に出ても、何をしたらよいのかさっぱりわからなくなって、ただただ時間を浪費するだけで、なんの生産性もなく1日が終わった。

そのうち社長の小言は営業成績の一向に上がらない僕に矛先が向けられるようになり、事務所に帰れば怒鳴られるか無視されるか嫌味を言われるようになっていった。

これがうだつの上がらない営業マンの宿命だろうか。

ある日、僕は心の中の何か大事なものがぷっつりと切れてしまったような感覚になって、それからというもの、仕事に向かうのが苦痛で苦痛で仕方なくなり、頭痛、吐き気、倦怠感まで重なり、とうとう僕はこの仕事を辞める決断をしたのだった。震災から続くごたごたに、もう心も体も限界だった。

どうせ大した成果もあげてはいない、僕がいなくなったところで誰も困りはしないわけで、僕の提出した退職願はあっさりと受理され、そのまま数日後にはめでたく退職となった。

季節はすっかり夏になっていて、さわやかな開放感とは真逆の感情で、僕は何度目かの無職になった。このころにはすっかり無職になるのも慣れてしまって、またこれか、程度の感情しかなかった。

考えてみれば、長らくやっていた調理の仕事は拘束時間が長いからと、極めて消極的な消去法で未経験の好きでもない営業の仕事をしてみたけど、今更できるはずがない。ではなぜこうなったのかと、その大本を辿ってみると、それは父子家庭であり、貧困であり、子供たちの成長であり、家庭と仕事の両立であり、子供たちを育てるために自分の人生や時間や仕事や生活や、いや、自分の全てを犠牲にして、歯を食いしばって、念仏のように「子供たちのためだ」とつぶやきながらやってきた、まぎれもなくその代償に違いなかった。

疲れてしまった。

いったい僕には何ができるのだろうか、そんな根本的な疑問まで湧き上がってきて、誰からも必要とされないちっぽけな存在に思えてくるのだった。

仕事を探すことも、新しい仕事を覚えることも、新しい職場で働き始めることも、新たに人間関係を構築することも、生活スタイルに無理があるからと言って仕事を辞めなければならないことも、自分の都合や考えとは無関係に仕事を取り上げられることも、働ける時間が少ないから稼ぎも少なくなり、食費を削って食べるものがなくなり毎日朦朧としていることも、子供たちにご飯を作ったり、洗濯したり、掃除したり、もうそんなことの全てがどうでもいいように思えてきて、辞めてしまいたいという欲求が抑えられなくなってしまった。

もう、止めたい。

こんな生活、もう止めたい。

どうせ僕が一人で頑張ったところで、何も変わらないのだから。

子供たちは成長期で体も大きくなっていき、思春期特有の無鉄砲さでコントロールが効かなくなり、言うことは聞いてくれないし、食べる量はどんどん増えるし、お金はかかるし、家は散らかし放題だし、洗濯物は毎日山のように積まれているし、学校や警察からの呼び出しはなくならないし、何一つ自分の思い通りになることがなくなってしまった。

今までも思い通りになどなってはいなかったけど、だんだんエスカレートしていく現状に、とうとう許容範囲を超えてしまったのだろう。

新しい仕事を探すことも無く、家に引きこもり、外の世界とのコミュニケーションを断ち切って、物思いにふけるようになっていった。

何もする気が起きないし、自分自身でも感情のコントロールが難しくなっていくのが分かった。次の仕事も見つけずに、あっさりと仕事を辞めてしまった理由には、実はもう一つ重大な出来事があった。疲れ果てて何もする気力がわかなくなり、営業の仕事も人材派遣の仕事も大嫌いで、何もかもが嫌になってしまった他にもう一つ。

7月も末ごろになり、半袖のワイシャツもすっかり板についていよいよ夏本番を迎えようかとしている、暑い盛りのとある日だった。

いつものように郵便受けを見てみると、何やら見慣れぬ封書が1通。差出人は労働基準監督署なるところで、開けてみると書類が数枚。

目を通してみると、未払いの給料を立て替えるために書類に必要事項を記入して返信してくれとのこと。

どうやら、ある日突然閉店に追い込まれた、水戸駅ビルのレストランで未払いとなっていた1カ月分のバイト代の事らしかった。

手続きが進み、ようやく給料の立て替えが行われるタイミングになったとかで、いそいそと書類に必要事項を記入したのちに返信、その後1月程度経過してからまんまと9万円程度のお金が振り込まれるという事件があった。

これはまさに事件と呼ぶにふさわしく、ほぼ忘れかけていただけに、舞い上がってしまった。

当然もらうべき権利のある正当なお金なのだから、こんなにありがたい天からの恵みはほかにない。9万円の臨時収入は仕事を辞めるに十分な額である。

突然の店舗閉鎖から9カ月。ようやくこの一件も終焉を迎えることになったわけで、僕はその9万円をありがたく受け取り、渡りに船とばかりにありとあらゆることを自分に都合の良い方向に位置づけ「これはきっと仕事を辞めて一回ゆっくり休みなさい」という神様からのお告げに違いないと決めつけたぐらいにして、勝手に退職という名の自分の背中を押したのだった。

その年の8月末日をもって3カ月お世話になった人材派遣会社を退職した時には、最後の給料20万円と、未払いだったアルバイト代で30万円近くのお金を持っていた。

月8万円で支払いの全てをスライドさせながら、食事をとることさえ止め何とか生きながらえていたあの頃に比べたら、なんという恵まれた環境だろうか。

仕事を辞めたのに金がある。

「そうだ、俺は頑張ったんだ、これでいい、すこしゆっくり休んでもバチはあたらないだろう」

そう、思った。

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