子連れでオーストラリアに留学してみた~大学院編~
自分が海外の大学院に?全部英語でわかるのか?いまさら勉強できるのか?
不安や心配はつきることなく湧き上がってくる。
でもやるしかないのでやってみた。
某地方国立大学教育学部小学校教員養成を卒業したのが13,4年前。英語は専門ではなく副免でとっただけ、で、高校で英語を教えている。自分自身そのことにコンプレックスがあったといえばそれもこの留学を後押しした感情の一つだ。子供たちをバイリンガルにしたい!だけではここまで頑張って勉強したかどうか。やっぱり根底には
英語力を磨く、そして英語教育力を磨きたい
という思いがあったのだと思う。
そのときまで
TESOL
という言葉を知らない英語教員だった。なんてだめだめな英語教員だったんだ。。
TESOLとは
Teachig English for the Speaker of Other Language
のこと。
日本語では「英語教授法」。
英語を母国語としない人たちにどうやったらうまく教えられるか
というところでしょうか。
教員が大学院に行かせてもらえるのは、一種免許状を専修免許状にアップグレードするため。
それをクリアするように単位を修得していかねばならない。
つまり、ほかの専門を勉強するために大学院にいくことはできない。
それで、専攻はTESOLとなる。
第二言語習得という分野は比較的新しい学問らしい。勉強してみるととても興味深い分野であった。
もっと勉強してみたいかな
とも思ったりもしたが、休職してきているし、このままパパと別居状態を一生続けるのか?という疑問もわきその後深くつきつめて勉強するにはいたらなかった。
なにより、120%の力で毎日勉強していたので、一生120%を続ける気力がなかった。
もともとの負けず嫌いの性格から、成績は「A」を取りたかった。だから「B」を取ってしまったときはかなりショックを受け、その後ギアチェンジしてほぼ「A」を取ることができた。そして
「ゴールデンキーアソシエーョン」
というオーストラリアやアメリカのいくつかの大学が作っている団体から招待を受けるまでになった。
この団体への加入は、学期ごとの成績上位者15%であることが条件。
ある日招待状がきて、最初に加盟金?をいくらか(5000円くらいだったかな、、)を払う。そうすると就職先とかいいところを探せる、みたいな団体のようだ。
私って成績上位者だよ
がんばったかいがあったな、、と感慨深くなった。
大学院の授業はもちろん夜にもあった。子供だけ家に置いておくのは法律に触れるけどそうするしかなかったときもあった。小2と幼稚園の子供二人だけで、異国の土地で留守番、、。さみしかっただろう。。だからその分絶対いい成績を取りたいと思っていた。
暇があれば図書館で勉強した。
朝も子供が起きる前に勉強した。
夜も子供たちにDVDを見せて勉強した(下の子はこの時のことを今でも思い出し、同じDVDを何度も見ていた、、という。そう、グーフィーが大学に行く話のDVD。これ結構泣ける。。)。
子供たちにしらみがつくまで勉強した(ちゃんとシャワー浴びさせなくてごめん。。)。
息子が8本虫歯になるまで勉強した(歯磨きさせなくてごめん)。
ひたすら勉強した。
エッセイはいつも締め切り前に出した。(教授に褒められた)。
プレゼンテーションもあって、これは苦手だったがエアプレゼンを繰り返し、なんとかやり過ごした。
グループプレゼンもあった。子供を連れて夜の図書館でメンバーと合流し、プレゼンの準備をした。時には誰かの家に集まって(もちろん子供も連れていく)準備をした。みんな真剣だった。
日本人の私なんかが抱えているものより、はるかに深く大きい動機をもってみんないろいろな国からやってきていた。
シリア、アフガニスタン、ベトナム、スリランカ、インドネシア、、、、
自分が生きるため、家族を生き延びさせるため、
わたしなんかがもっている軽い動機じゃない。
そういうみんなに刺激され、一生懸命勉強できた。
大学院で学んだことは
どうやったら英語を母国語としない人たちにうまく教えられるか、
だけじゃない。
英語を母国語としない人たちが
命がけで頑張る姿
そのものだった。
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