HAYATONY物語11

前話: HAYATONY物語10
次話: HAYATONY物語12

東放学園はTBS系の資本で作られた映像関係を専門に扱う専門学校であった。

音響技術課のほかには映像技術課やアナウンス学園もあり、マスコミ関係に強い学校で生徒もTVや映画関係に進みたい生徒が多かった。

僕が入学した音響技術課のクラスにはやはり音楽好きの学生が多く、バンドのメンバーを集まるには時間はかからなかった。

すぐに坂巻、橋本、中鉢などクラスの仲間で盛り上がりバンド結成となった。

学校から徒歩で数分のところにアパートを借りた為に、僕の部屋は学校仲間のたまり場になった。

出席だけ済ませ教室の後ろからこっそりクラスを抜け出し、アパートでいろんな楽曲を弾き語りしアレンジを加えたりした。

レンタルスタジオ深夜0時から朝6時まで毎週借りてみんなでバンド演奏の練習が始まった。

意外に集まったメンバーの楽器演奏力レベルが低く音楽性の違いなども影響し、なかなか

バンドはまとまらず一人抜けてはまた一人追加すると言う具合にバンドメンバーは変わりなかなか思い通りにはバンドメンバーはまとまらなかった。

僕は生活費を稼ぐ為に夕方から翌朝まで六本木ライブパブ、スパッツのバイトをしながら学校へ通いその合間を縫ってのバンドの練習はなかなか大変であった。

東京に来てから自身の生活費を稼ぐ事や学校とバンドのすべての両立には無理があった。

夏休み以降の2学期からは学校の授業にはほとんど行かなくなった。

いつまでたってもバンドメンバーがまとまらない事にも焦っていたが半年ぐらいしてやっとライブ演奏ができるぐらいのメンバーにまとまった。

リードを担当するギターリストに学校外から坂巻の旧友の伊達ちゃんが参加してくれて

毎週日曜日の夜から朝までスタジオを借りてメンバーは練習した。

僕はこの時からソロのアコギによる弾き語弾き語りの楽曲からバンドメンバー用の楽曲を書き始めた。

僕らの中では伝説の曲、「だからロックロールナイト」や「ダーティーレイディ」などの楽曲が生み出された。

僕らは練習を重ね遂に初ステージのクリスマスライブを自主開催するところまでたどり着いた。

チケットは学校の友達やバイトの仲間にお願いしてばらまいたが初ライブ当日はお客があまり集まらず20名前後の仲間身内だけのライブになった。

そしてこのバンドではこれが最初で最後のバンドライブとなりその後みんな解散した。

その当時、三宅裕司が司会を務めるアマチュアバンドの登竜門の「いかすバンド天国」通称、イカ天の番組が大人気であった。

プロデビューを目指すバンドマンはみんなこの番組に出ることが目標であった。

そのほかにはヤマハのポプコーンという古くからあるオリジナルソングオーデションもあり、高校生の頃にはバンドとは別に高校時代一年後輩の元昭と組んだアコギヂュオでデモテープを作りオリジナルソングで応募したが良くて一次通過が最高だった。

東京に上京して半年、バンドでプロを目指す事の大変さが身に染みて来た。

高校生の頃は食事も寝るところもスタジオ代も自宅などでかからなかったから学校が終わった

放課後、毎日練習に明け暮れる事が出来たが東京で一人暮らしを始めバンドメンバーとの練習も週1では全くもってプロのレベルにならない。

東京でのバンドのメンバーのほとんどがプロを本気で目指す気持ちもなく学生時代の思い出作りぐらいなメンバーがほとんどでプロデビューを夢見るバカヤローは僕だけだった。

みんなは意外に堅実だった。

そのような温度差もあり東京での初めてのバンドメンバーは解散に至った。

僕は夕方から夜明け過ぎまでのライブパブ、スパッツでのバイトも、いつかはライブPA(ライブのミキサー)をしたいと希望を出していた。

竹内さんという先輩がスパッツのライブPAのチーフを務めていた。

竹内さんは以前、ディスコのDJをされていた方で照明や皿回し(2台のレコーダーでレコードを回すDJの事)、音楽ミックスやミキサー操作など音楽のショウ機材の取り扱いは素晴らし人だった。

僕はボーイのかたわら彼のDJアシスタントに回り指導を受けられるように本田店長にお願いし

時々DJボックスの中に入れてもらったが竹内さんは何一つ僕に教えてくれなかった。

どちらかと言うと僕の事を良く思ってないみたいで意地悪な感じでもあった。

手伝いに行ってもほとんど無視され僕が質問すると面倒くさそうにしか答えなかった。

今考えればDJの世界も競争社会である、誰かがDJのポジションをとれば誰かがのポジションが亡くなるわけだから簡単には自分の知識や技術を教えたりはしないのである。

竹内さんも夜の世界で努力しそのようなDJポジションを自身でつかみ取ったのである。

自分の長年の経験で積み上げて習得した技術を簡単やすやすには教えたりはしないのである。

それがお金をもらって仕事をするプロ社会である。

お金を払って学ぶ学校だけが親切丁寧に教えてくれる場所なのだ。

バンドの解散もあってそろそろ僕のモチベーションもかなり下がり、スパッツの深夜バイトも竹内さんに何も教えてもらえず嫌になり体力的に続かず辞めてしまった。#hayatony物語

ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

続きのストーリーはこちら!

HAYATONY物語12

著者の田野上 勇人さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。